願いをさえずる鳥のうた
松本 せりか
願いをさえずる鳥のうた
彼女は、その劇場にとってその他大勢の取るに足らない新人オペラ歌手だった。
ただその時、喉を傷めたソロの歌姫の代わりに少しだけ歌ったにすぎない。だがその容姿、声の伸び……時間にしたらほんの1~2分。
僕を魅了するには充分な時間だった。
王立セントラル歌劇場。
妻が珍しくオペラを観に行きたいと僕を誘うので、夫婦で連れ立って行った。
こういう、
「しかし、君がオペラに興味があるとは思わなかったよ」
「あら、オペレッタですわ。セリフの部分が素敵だと今社交界で人気の
2階の貴族専用のボックス席。正直、観劇するにはあまり良い席とは言えないが、仕方がない。
僕1人なら、平民に紛れて1階の席に座るのだが。
その内に妻のお目当ての男が出てきたようだ。
成程、
「あの男性が君の?」
僕がそう言うと、妻が少し動揺する。
「別に、構わないさ。君は充分に僕の妻として……伯爵夫人としての責任を果たしている。後は……そうだね、僕以外の男の子どもを、屋敷に入れなければそれで良い」
そう言いながら、パンフを見て名前と写真を確認する。まぁ、身元や素行は調べさせてもらうけどね。
僕が、パンフの顔と舞台に上がっている男の顔を見比べている時だった。
その高音の伸びやかな歌声が劇場いっぱいに響いたのは……。
舞台の
僕は慌ててパンフと見比べた。違う。
パンフにはもっと……そう、20代半ばくらいの派手な女性の写真が載っている。
今、高く低く響く声で伸びやかに歌っているのは、10代後半の可憐な……まだ、見た目は少女と言って良いくらいの女性であった。
一体誰なんだ、あの
それから、僕はずっと1人であの劇場に通っている。
だけど、もうあの素晴らしい歌声の彼女に会う事が出来なかった。翌日の公演からは、パンフに載っている女性がその役を演じている。
多分、一度きりの代役だったのだろう。
ガッカリした気分のまま屋敷に帰りたくなくて、公演が終わった後少し劇場の近くを歩いていた。
すると、あの伸びやかな歌声が……。
僕は慌てて、その声がする方に向かった。たどり着いた頃には、もう歌が終わっていたが、惜しみない拍手を僕は彼女に送った。
「ブラボー。素晴らしい歌声だ」
彼女はそう言いながら拍手を送る僕に、驚きながらも長いスカートの裾をちょっと持ち上げ、礼をしてくれた。
「ありがとうございます、お客様。お楽しみいただけましたでしょうか?」
「ああ、とても。とても、素晴らしかったよ。君、何日か前に代役でオペレッタに出ていただろう?」
「あの舞台を観てくださったのですね。ありがとうございます」
彼女は、嬉しそうに僕を見てくれた。
「もう、舞台には出ないのかい?」
「出れる様に日々練習はしておりますわ。だけど……その……実力が足りませんの」
足りないのは、実力じゃないのだろうに……。
「僕はサイラス・アルバーン。伯爵家の当主だ。もし良かったら僕が君のパトロンになろう」
「でも、私は実力で」
彼女は少し僕から距離を取ろうとした。
「今、舞台で活躍している人たち……役者だろうが、歌手だろうがその殆どにパトロンがいるだろう? だけど、その人たちも、実力無く舞台に上がっている訳ではない。君のその歌声を埋もれさせたくは無いんだ」
彼女が戸惑うのは当たり前だ、パトロンなんて言葉を使っているけど……要は僕の愛人になれって言っているようなもの。
劇場は実力が同じだったら、いや、少しくらい劣っている程度なら、チケットがより売れる方、より多くの寄付金が入る方を選ぶ。
傍目に華やかに見える舞台の裏は、どこか薄暗くドロドロしているものだ。
身も心も綺麗でいたかったら、こんな世界からは身を引く方が良い。
「アルバーン様」
彼女は、意を決したように僕を見つめる。
「サイラス……で良いよ」
「サイラス様。リリーベルと申します。私は、オペラ歌手に……いえ、主役になって舞台に立ちたいのです。出来ますでしょうか」
僕は、にこやかに笑ってリリーベルに言った。
「それが君の願いなのだね」
「はい」
「わかった。僕の元にくるなら、その願い叶えて見せよう」
そう言って、僕はリリーベルの方へ手を差し出す。
リリーベルは、嬉しそうにほほ笑んで僕の手を取った。
捕まえた、僕の小鳥。
必ずや君の願いを叶えて見せよう。
だからその美しい歌声で僕を……いや、世界中を魅了させてくれ。
数か月後、王立セントラル歌劇場。
国王陛下をも観劇する舞台の中央で、堂々とその美しい歌声を響かせるマリーベルの姿があった。
おしまい
※演劇用語……舞台の左右の左側……舞台を正面に見て、左側が
願いをさえずる鳥のうた 松本 せりか @tohisekeimurai2000
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