1-9

「千尋ちゃん、こっちこっち」

「あ、こんにちは」

 私は手を振る香菜さんに駆け寄る。

 文学少女(偽)としての任務を終えて、数日経った放課後。午後五時を少し回った森瑛堂店内は程よい喧騒に包まれていた。


 今日は、香菜さんが一週間分の文学少女としての仕事へのお礼がしたいとのことで、森瑛堂に足を運んだのだ。


「はい、これ」

 そう言って、出会って早々に香菜さんが差し出して来たのは、

「これ、白雪屋しらゆきやのチーズタルトですか⁉︎」

 真っ白なケーキの箱だった。青く輝くイタリック体は「SHIRAYUKIYA」と刻んでいる。


因みに白雪屋というのは、この辺りでは名の知れた洋菓子店である。チーズタルトが名物で、味も一級品なのだが、なにぶんお高いので、一介の高校生である私が食べる機会はそう多くなかった。確か、最後に食べたのは高校の合格祝いの時だったはず。それにしても、本屋に一時間立つだけでこれだけのものを貰えるとは。普通に嬉しい。


「さすがにお金は渡せないから、これで我慢してね」

 香菜さんは申し訳なさそうに、くしゃっと笑った。

「いえいえ、我慢だなんて!」

 慌てて手を顔の前で振る。そもそも私が文学コーナーに立っていて何か効果があったとは思えないので、身に余る謝礼だ。今日のおやつにしよう。


 と、

「あ、そうだ。実は千尋ちゃんが本棚の前に立ってる写真撮ってたんだけど、ホームページに乗せてもいい?」

「え?」

「ほら、中高生の販売促進に良いかなと思って。和臣君にはもう許可取ったんだけど」

「ああ、そういうことなら。全然大丈夫です」

 頷くと、

「ありがとう!」

 香菜さんは本当に幸せそうに笑った。


「西岡さんとはあの後どうですか?」

 ほんの世間話のつもりで切り出すと、

「太宰好きに悪い人はいない」

「え?」

 香菜さんはきりっとした顔で言い切った。しかしそれからすぐにほんのりと微笑むと、


「ちょっと挙動不審だけど、優しくて良い人だよ。太宰好きだって言ってたんだけど、まだあんまり読めてないらしくて、いろいろ勧めたの。まずは『桜桃』からって」


 やはりまだ誤解は解けていないらしい。けれど、二人ともこれ以上ないくらい幸せそうだ。香菜さんもずっと好きなものを共有できる人がいなくて寂しかったんだろう。


「良かったですね」

「桜桃忌もね、一緒に聖地巡礼することになったんだ。それにね、聞いて」

「何ですか?」

 首をかしげると、香菜さんは満を持してといった様子で告げた。


「『秀司しゅうじ』なんだよ」

「西岡さんの下の名前ですか? それがどうかしたんで」

 すか、と続ける前に遮られた。

「津島修治なの、太宰の本名。『しゅうじ』なんだよ!」

 ……まずい。これは家に帰れなくなる。


「あー、そうですか、良かったですね‼︎」

 結局無理矢理断ち切った。一応言っておくけれど、別に太宰のことも香菜さんのことも蔑ろにしたいわけではない。


「じゃっ、じゃあ、今日はこれで失礼しますね」

 今はどの方向に舵を切っても、太宰の話になってしまいそうな気がする。だから、香菜さんには悪いけれど、早々に切り上げさせてもらうことにした。


 残念そうな香菜さんに背を向けて、ケーキの箱を大事に抱えつつ、そそくさとエスカレーターを降りていると、

「あれ、古谷?」

 エスカレーターの下に真宮がいた。


「何してんだ?」

「いや、香菜さんにお礼したいって言われて。そっちは?」

 エスカレーターを完全に降りきってから訊くと、真宮は手に持った紙袋を掲げた。


「親父が出張から帰って来て、土産持って帰って来たから、香菜さんにと思って。香菜さんには今回お礼貰ったしな」

「……何貰ったの?」

 訊きたくないのに口が勝手に訊いていた。猛烈に嫌な予感がする。


「図書カードだ。もちろん森瑛堂でも使えるやつな」

 やっぱり。どうせそんなとこだろうと思っていた。

 呆れた顔をしていると、随分見当違いな言葉がやって来た。


「古谷もいるか?この土産」

「え?」

 真宮は返事も待たずに、私の手に小包装を握らせた。パッケージを見てみると、良く言えば優しそうな、悪く言えば寝ぼけた熊が中途半端に微笑んでいる。裏の表示を見ると、どうやらチョコレートケーキらしい。チョコレートはそんなに好きではないけど、貰えるのならありがたく頂いておこう。


 それにしても。

「これどこ土産?」

「熊本とかじゃないか?」

 なぜに疑問形。しかも多分熊が書いてあるだけで、熊本土産ではないだろう。さては何か分からずに持って来たな。


 そんなことは気にせず、真宮は続ける。

「そう言えば、香菜さん、どんな感じだった?」

「どんな感じ……」

 少し考えてから、私は自信を持って言った。


「幸せそうだったよ」

「そうか。良かったよな」

 真宮は常には無い柔らかい笑みを浮かべた。だから、何と無く言ってみようと思えた。


「さくらんぼの花言葉の一つに『小さな恋人』ってのがあるんだって」

「あの二人もそうなるといいな」

 その言葉に私は「うん」と頷こうとした。のに。


「ま、『桜桃』の内容は『小さな恋人』とは程遠いけどな」

 そうだ。忘れてた。こいつはどこまでも文学馬鹿だった!

「まあ、とりあえず香菜さんに渡してくる。あっ、依頼が一段落したからって休むなよ。明日からも《マグノリア》にちゃんと来いよ。あ、あと、いつでもいいから『桜桃』、ちゃんと読めよ」

「……はいはい」


 もう突っ込む気力も残っておらず、私はエスカレーターを駆け上る真宮を見送りながら一人で苦笑した。

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放課後の《マグノリア》 久米坂律 @iscream

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