鴎がいた。

エリー.ファー

鴎がいた。

 鴎は女子高生だった。

 僕は男子高校生で、同じ高校に通っていた。

 鴎は清らかな女性だった。

 何事にも凛としていたし、自分の考えを持っていた。

 僕にはそれがとても眩しかった。

 鴎という名前は、ありふれているのにその存在は全くありふれたものではなく、鴎という女性の貴重性を示していた。

 ありふれたものの中でも突出した存在でいてほしい、そういう願いを込めて敢えて鴎という名前を付けたのではないかと思ってしまうほどだった。

 僕はよく鴎と一緒に海を見に行った。

 静かな海も荒れ狂う海も見に行った。

 そして。

 手もつないだし。

 キスもしたし。

 あれやこれや、色々なことをした。

 僕と鴎は付き合っていた。

 鴎は運動神経抜群だったけれど、勉強はそこまでできなかった。

 僕は勉強ができる方だったので、単語の覚え方や復習の仕方や予習の仕方を教えた。

 鴎は直ぐにコツをつかんで、得点を伸ばしていった。

 そういう時間を過ごすのが大好きだった。付き合って良かったと思えたのは、鴎のそういう姿を見ることができたためだ。

「あたし、獣医になりたいんだ。」

「鴎を治したいってこと。」

「名前が鴎だからって、鴎専門の獣医になりたいわけじゃないって。」

「じゃあなんで。」

「世界には苦しんでる動物がいっぱいいるんだなぁって思ったの。こうやって、海を見ながら歩くたびに、こんなに視界が開けてるのに全然そういう世界で起きてることの一部分も見ることができてないんだなぁって思ったら。」

「いつのまにか、そんなことを考えてたんだ。」

「そう、考えたの。あたしって正義感が強いんだと思う。」

「鴎は間違いなく正義感が強いよ。良い獣医になれるよ。」

「そっちは。」

「僕に夢はあるのかって、そういうこと。」

「そう。あたしは言ったんだから、そっちも言ってよ。」

「僕は。」

「うん。」

「女の子になりたいんだ。」

 鴎はそこから僕の方を見つめながら沈黙した。

「どういう意味、それ。」

「冗談だよ。忘れてほしい。」

「じゃあ、なんであたしと付き合ってるの。」

「鴎のことは大好きだよ。恋愛感情もあるよ。」

「でも、女の子になりたいんでしょ。」

「なれたらいいなって感じかな。別に。」

「どういう思いであたしとキスとかしてたの。」

「いや、だから恋愛感情はあるから。」

「女の子同士でキスする感覚でキスしたってこと。そういうことなの。」

「だから、そういうことじゃなくて。」

 それから、学校に鴎は来なくなった。

 鴎が何故、学校に来なくなったのか、その推理合戦を同級生たちは繰り広げていたけれど、僕はそこに入ることができなかった。

 鴎の家に何度か行こうと思ったが、周辺になるとどうしても足がすくんで動けなくなった。そういう時は時間をかけてきた道を戻るしかない。

 そういう自分が情けなかった。

 ある日、僕は久しぶりに海を見に行こうと思った。

 偶然ではないだろう。

 何か、思考のタイミングが合ったのだ。

 そこには鴎がいた。

 学校に来ていないのに、何故か制服を着ていた。

 手招きをする。

 僕は小走りで近づいた。

「久しぶりだね、鴎。」

「それ、言うの。」

「え。」

「女の子になりたいって言うの。またどこかで、また誰かに言うの。」

「まだ言ってないけど、分からないよ、将来のことは。」

「色々調べた。」

「何を。」

「あんたみたいなのは、結局言うんだって。どこかで。自分がそういう奴だって一生黙ってるのが我慢できないんだって。」

「そういう人が多いんだね。」

「あたしとあんたが付き合ってるってみんな知ってるんだよ。」

「そうだろうね。」

「あんたのそういう所がばれたら、あたしがどういう思いをするとか何で分かんないわけ。バカなんじゃないの。人の気持ちが全然分かんないよね、お前って。黙ってりゃあいいのにさ、空気読めないから直ぐさらけ出すじゃん、そういうの。こっちの人生とか考えて喋れよ、キモいんだよ。」

「ごめん。」

 その瞬間。

 鴎の腕が伸びて、僕の首を捕まえた。

 徐々に首が締まる。

 のどぼとけが押されて嗚咽が出るが、それも狭くなっていくせいでか細くなる。

 そうか、何も言わなければ鴎のように自由だったのだ。

 僕の首を絞める女性の顔は、涙と鼻水塗れで、顔は見たこともないほどに歪んでいた。

 爪が皮膚を突き破って肉に刺さり、そこから漏れた血が白いシャツを濡らしていることが分かる。

 喉が締まる。

 確かに、ここには。

 鴎がいた。

 今はもういない。

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