ブルーキャンサー

高城乃雄

第1話

 ——常識コモンセンスは、いつだって不誠実だもの。


 いつか、彼女はそう言った。路傍で翼を休める青い巨鳥に寄りかかり、そよ風に揺れる風鈴のような声色で。


「例えば、世界で最も有名な独裁者の話をしましょう。これは私のおばあさんの、そのまたおばあさんから聞いた昔話」


 その碧い瞳を少し伏せた彼女は、まるで昔を懐かしむように続ける。


 ––––彼はかつて、人々の英雄だった。飢えと貧困に喘いでいた民衆を救い、先の戦争で打ちのめされた軍隊を立て直して、その国にかつてない栄華の時代をもたらした。

 人々は彼の言葉に、その理想に熱狂し、殆ど盲信的と言える程に傾倒した。彼は確かに、民衆から愛されていたの。

 しかし、次の戦争で彼が負けると、人々はすぐさま手のひらを返した。『奴は私たちを地獄に引きずり下ろした悪魔だ』。『我々哀れな民衆は、その独裁に逆らえなかった』。人々は世界に被害者面を装って、かつて心酔していたはずの彼に向かって、石を投げつけた––––。


「民意なんて概念は脆いものよ」彼女は語る。


「ちょうど川が低みへと向かって流れていくのと同じで、自分たちの都合の良い方、都合の良い方へと延々流転していく。それに合わせて、善とか悪とかいう言葉の意味も、まるでオセロの駒がひっくり返るみたいに、幾度も入れ替わる」


「……そんなの、理不尽だ」


 僕が呟くと、彼女は矢庭に立ち上がる。


「そう、理不尽。善や悪が可変の価値観であるというのなら、私たちは一体、何を信じて生きていくべきか分からない。だから、私は……」


 彼女は、沈みかけの太陽に手を伸ばし、そうありたいと祈るかのように、言った。


「だから私は、この世界の癌細胞であろう、と考えたの」

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