仲良く登校

 朝食を終えた後、俺と愛佳は身支度を整えて家を出た。


 突然だが、俺は記憶喪失で学校までの道順を覚えていない。だから今日は、道案内も兼ねて愛佳と一緒に登校することになっている。


 かつての俺は何度も通ったであろう見慣れない通学路を歩きながら、隣で鼻歌を歌っている愛佳に声をかける。


「随分と機嫌がいいな、愛佳。何かいいことでもあったのか?」


「いえ、別に何かあったというわけではありませんけど……どうしてそんなことを訊くんですか?」


「いや、鼻歌歌いながら歩いてたから気になっただけだ」


「え……私、鼻歌なんか歌ってたんですか?」


 信じられない、とでも言いたげな反応が帰ってくる。


「ああ、楽しそうにな。そこまで大きくはなかったから俺以外には聞こえてないだろうけど、今にもスキップでもしそうな勢いだったぞ」


「そ、そんな……」


 愛佳は雪のように白い肌をカっと顔を赤らめて、両頬に手を当てた。この様子から察するに、鼻歌は無意識だったらしい。


「そ、そうですか。私ってば浮かれてしまって……恥ずかしい!」


 穴があったら入りたいと言わんばかりの勢いで、愛佳は悶える。


「ううう……兄さんと一緒に登校するのは久し振りだからって浮かれすぎてしまいました」


「そんなことが理由で機嫌が良かったのか?」


「そんなことじゃありません。兄さんと一緒に学校に行けるのは、本当に久し振りなんですから。昨日から楽しみで楽しみで仕方なかったんですよ、私」


「そ、そうか……」


 いったい何が彼女をここまで駆り立てているのか謎だ。まあ道案内を面倒だと思っていないだけありがたいから、別にいいか。


「あ……ト、トモ君? ひ、ひひ、久し振りだね」


 愛佳と話していると、ふと正面から声がした。恐る恐るといった感じの、聞き覚えのない声だ。というかトモ君って誰だ?


 周囲を軽く見回してみる。現在通行人は俺と愛佳、そして正面の人物以外にいない。となると、トモ君というのは俺のことか。多分友樹という名前だから、トモ君なんだろう。何とも安直なニックネームだ。


 俺をそんな安直なニックネームで呼ぶのは何者なのかと疑問に思いながら、視線を正面の声の主へと固定する。


 するとそこにいたのは、愛佳と同じ制服を着た少女だった。後ろ髪は肩にかかる程度の長さであるが、前髪は伸ばしすぎていて目元まで完全に隠れてしまっているのが特徴的だ。


 こちらを見て何やらビクビクしている様は、小動物を連想させる。彼女の姿には、見覚えがあった。


「あー……確か奥村さんで良かったんだったか?」


「う、うん、そうだよ。一回しかお見舞い行かなかったのに、ちゃんと覚えててくれたんだ……えへへ、嬉しい」


 どうやら正解だったらしい。俺が覚えていたことに、奥村さんは口元を柔らかく綻ばせる。


 彼女の名前は奥村奥村香織かおり。幼稚園の頃からの友人で、所謂幼馴染というやつらしい。


 制服が同じことからも分かる通り、俺や愛佳と同じ学校の人間だ。クラスも俺と一緒とのこと。


 先程本人も言ってた通り、お見舞いには一度しか来なかったが、幼馴染だと紹介されたので顔だけは覚えていた。俺のことをトモ君と呼んでいる辺り、記憶を失う前の俺との仲も良好なんだろう。


「私のこと奥村さんって……やっぱりトモ君、まだ記憶が……」


「ん? どうかしたか、奥村さん」


 何事か呟きながら俯いている彼女に問うた。すると、奥村さんは遠慮がちな様子でゆっくりと顔を上げる。


「あ、あのね、トモ君。トモ君は昔から私のこと、香織って呼んでたんだ。だからその……できれば私のことは奥村さんじゃなくて、香織って呼んでくれたなら、嬉しいかな……」


 幼馴染というのなら、下の名前で呼んでいてもおかしくはない。彼女だって俺のことをトモ君と呼んでるし、むしろ自然なことだ。


 それに以前の俺に沿った行動をすれば、もしかしたら記憶が蘇るキッカケになるかもしれない。医者も何がキッカケになるか分からないと言ってたしな。


「そうか。なら、これからはそう呼ばせてもらうよ。記憶がなくて迷惑をかけることもあるかもしれないけど、これからよろしくな――香織」


「…………! うん、よろしくねトモ君!」


 希望通り下の名前で呼ぶと、香織は声を弾ませて返事をした。


 話が一段落したところで、ふと香織に一つの提案をしてみる。


「ああそうだ。香織、ここで会えたのも何かの縁だし、せっかくだから一緒に登校しないか?」


「え、い、いいの……? 邪魔になったりしない?」


「一人増えるくらい、邪魔になんてなるもんか。どうせ目的地は一緒なんだから、気にしなくていいよ。……愛佳もそれでいいだろ?」


 少し前から黙って会話に参加せずにいた愛佳に水を向ける。


「……はい、そうですね。兄さんがそうしたいのなら、お好きにどうぞ」


「ほら、愛佳もこう言ってることだし、遠慮なんかしなくていいよ」


 幼馴染の香織とこんなところで遭遇するとは予想外だったが、俺にとっては都合がいい。幼馴染の彼女なら、家族も知らないような昔の思い出話もたくさんあるだろう。


 もしかしたら、それらの思い出話が記憶を取り戻すキッカケになる可能性もある。学校に着くまでそんなに時間はないだろうが、記憶を取り戻すためにもできるだけ話を聞いておきたい。


「そ、そういうことなら遠慮なく……」


 香織もおどおどしながらではあるが、了承してくれた。よし、これで学校に着くまでは話を聞ける。


 結構話し込んでしまったな。早めに出たから遅刻はないだろうが、俺は長い入院生活もあって久々の学校だから、できれば遅刻はご遠慮願いたい。


 そこまで考えて再び歩き出そうと足を動かしたが、そこでボソリと囁くような小さな声音で愛佳は何事か漏らした。


「せっかく兄さんと二人きりだったのに……兄さんのバカ」


「ん? 愛佳、何か言ったか?」


「……何でもありません!」


 などと言いつつも、膨れっ面のままの愛佳。いったいどうしたんだ? 俺は自分でも気付かない内に、何か妹の機嫌を損なうようなことをしたか?


 愛佳は俺と香織を置き去りにして、どんどん先へと進んでいく。俺と香織はその後を慌てて追った。


 先程まではご機嫌だったのに、いったいどういう心境の変化なんだ?


 記憶喪失になる前の俺なら、こういう時はどうしたのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、俺たちは三人で学校に向かった。


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