記憶喪失の俺の前に、彼女を名乗る美少女が複数現れた件について
エミヤ
記憶喪失
記憶喪失。それは読んで字の如く、記憶を失うことを指す。
一口に記憶喪失と言っても、記憶には様々な種類が存在する。どれを失くしてしまったかによって、及ぼす変化も違ってくるものだ。
そして俺――
記憶がないせいで覚えてないが、どうも俺は交通事故に遭い、手足の骨折と共に記憶まで失くしてしまったらしい。
このことを知った俺の家族を名乗る人たちは、皆悲しげな顔をしていた。彼らに関する記憶はないはずなのに、見ているとなぜか胸が痛んだ。
笹村友樹というのは俺の名前らしいが、記憶を失っているせいか自分の名前だという実感がまるで湧いてこない。名前を呼ばれても、一瞬反応が遅れてしまう。
この記憶喪失というのは厄介なもので、明確な治療法はないらしい。記憶というのは繊細なもので、もしかしたらいきなり思い出すこともあるだろうし、逆にずっと思い出せないかもしれないと医師には言われた。
隣で話を聞いていた家族はまた泣きそうになっていたが、俺は不思議と彼らほど悲壮な想いに駆られることはなかった。
家族には申し訳なかったが、原因は多分俺が自分のことを笹村友樹だと思えないのが原因の一端だろう。記憶を失う前の自分を他人のようにしか思えず、今の医師の話も他人事だと感じてしまった。
もちろん、このことは家族には話さず胸中に留めている。話してしまえば、きっとまた彼らを悲しませてしまうからだ。
家族と言われてもピンと来ないとはいえ、目の前で泣かれるのはかなり辛いものがある。
俺は記憶喪失の他にも右手と左足の骨折があったので、そちらの治療もした。リハビリは中々大変ではあったが、何とか後遺症もなく完治した。
ただ記憶だけは依然戻ることがないまま、俺は退院することとなった。
「ん……」
目を開けると、まず最初に飛び込んできたのは見慣れない天井。その光景だけで、俺はここが病院ではないことを思い出した。
そうだ、俺はつい昨日退院して家に帰ってきたんだった。住んでいた頃の記憶がないのに帰ってきたという表現はおかしな気もするが、気にしないでおくことにする。
身体を起こして、枕元に置いてあった電子時計を確認してみる。電子時計は午前七時前を表示していた。
入院していた時から、俺は大体この時間帯に起きていた。特に何かすることがあるというわけではなかったが、多分記憶を失う前の俺はこの時間帯に起きるのが習慣だったんだろう。
カーテンを開けて外の景色を見る。窓の向こう側に広がるのは、眩い朝日とそれに照らされるいくつもの住宅。
きっとこれまで何度も見たことがある光景なんだろうが、残念ながら記憶のない俺には何の感慨も湧かない。
窓の外の景色を眺めているとコンコンと、控えめに部屋のドアをノックする音が響いた。
『兄さん? 起きてますか?』
「ああ、起きてるよ」
ドア越しに声がしたので返答すると、次の瞬間ドアがゆっくりと開かれ、奥からエプロン姿の少女が現れた。
彼女は俺の姿を認めると、口元を緩めた。
「良かった、ちゃんと起きてたんですね。寝坊していたら叩き起こさないといけないところでした。おはようございます、兄さん」
「おはよう、愛佳」
俺は少女――笹村愛佳に挨拶を返した。
彼女の名前は笹村愛佳。俺の妹……らしい。
艶のある、腰まで伸びた黒い髪。キメ細かい肌に大きな瞳。美少女と呼んでも差し支えのない、整った容姿をしている。
ぶっちゃけ、可もなく不可もなくといった顔の俺とは全く似てない。本当に兄妹なのか疑いたくなるレベルだ。
とはいえ、あくまで俺が覚えてないだけで一緒に暮らしてきた家族であるという事実は変わらない。
愛佳はどこか楽しげな様子で口を開く。
「兄さん、今日は久し振りの学校ですよ。楽しみですね?」
「……そうだな」
そう。病院を退院した俺は、今日から再び学校に通うことになっている。俺は近所の高校の二年生で、愛佳とは同じ学校らしい。
ただ、記憶を失ってるから久し振りの学校と言われても、残念ながら懐かしさの類が込み上げてくることはない。
愛佳は俺の内心など知る由もなく、話を続ける。
「朝食はできてますから、着替えたら降りてきてください。あ、制服の置き場所は分かりますか?」
「ああ、大丈夫だ。昨日の内に必要そうなものの場所は把握しといたから、問題ない」
「そうですか。それなら先に下で待ってますね。もし困ったことがあったら、呼んでくださいね?」
最後にそれだけ言って、愛佳は一階のリビングに降りていった。
愛佳がいなくなった後はベッドから出て、制服を取り出し着替える。失った記憶はあくまで思い出に関するものだったので、着方が分からないということもなく着替えはあっさり終わった。
自室を出て一階に降りると、芳しい香りが鼻腔に届く。発生源はリビングだ。香りに惹かれて足早にリビングに向かう。
「おお……」
リビングに足を踏み入れテーブルの前まで来ると、思わず感嘆の声が漏れた。
テーブルの上には、芳しい香りを放つ数種類のおかず。事故から目覚めてから味気のない病院食ばかり食べてきた俺には、どれもごちそうにしか見えない。
「これ、全部愛佳が作ったのか?」
「はい、そうですよ。それがどうかしましたか?」
「いや、どれもメチャクチャ美味そうだなと思ってな。愛佳って料理上手だったんだな」
「そう言ってくれるのなら、私も腕を振るった甲斐があります」
愛佳の顔にくすぐったそうな笑みが浮かぶ。
会話もそこそこに、俺は愛佳とは向かい側の席に腰を下ろした。
四人用のダイニングテーブルの席は俺と愛佳の二人分しか埋まってないが、これは仕方のないことだ。本来残る二つの席を埋めるはずの両親は、すでにこの家にはいないのだから。
彼らは、普段は家を空けて海外で仕事をしているらしく、俺の退院を見届けるとそのまま海外へ戻ってしまった。
俺が事故に遭った際、仕事を投げ出してまで帰ってきたようで、今はかなりの仕事が溜まっているとか。
おかげで次に会えるようになるのは、いつか分からないとのことだ。記憶の戻らない俺を置いて仕事に戻ることを申し訳なさそうにしていたのは、とても印象的だった。
「さあ兄さん。冷めてしまうともったいないので、早く食べてしまいましょう」
「そうだな」
頷いて、両手を合わせる。
「「いただきます」」
結論から言うと、愛佳お手製の朝食はとても美味しいものだった。
どうやら記憶を失う前の俺は、かなり恵まれた生活環境に身を置いていたようだ。妹の美味しい朝食を噛み締めながら、俺はそんなことを思うのだった。
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