第2話 逃走生活
辺りを慎重に、されど怪しまれないように堂々と集合住宅に入る。活動を再開した直後は少しだけ人目を引いたものの、半年もすれば慣れるもので今ではするりと、雨粒が水たまりに溶け込むかのように自然に入れるようになった。
無論、ナギサに言わせればセスまでこのような技術を身に付けてしまったことは嘆かわしいことらしいが。
三〇八という数字を目にして、ナギサが振り返った。セスが頷く。力強いノックが三回、廊下に轟いた。ドアノブが回り、黄土色の髪の女性が現れる。
ナギサがドアの隙間を隠すように移動し、セスが上から隠すように立つ。ナギサがフードを取った。住人の瞳がナギサと目を合わせるように動き、白目が黒に、瞳の黒が赤に変わった。
「お入りください」
丁寧ながらも硬い、歓迎していないような声だとセスは思った。
狭い玄関を抜けて部屋に入る。女性と同じ髪色をした男が片膝をついて頭を垂れていた。奥には子供が二人。
「殿下のご壮健な姿を拝見でき、万感の思いに胸を打たれております」
「我も、そなたらの無事な姿を見て一安心しておる」
型通りに返す。
この言葉だけを聞けば、魔族は魔王の元に纏まっていたように見えるが、現実は違う。種族によって意識に差があるのはもちろん、種族間でも部族によって考えが異なり、主導権争いが繰り広げられていた。ある者は力で、ある者は血筋で。言葉や金品で戦うのが人間の貴族なら、言葉と暴力で語るのが魔族だ。
だからこそ、魔王に求められたのはその紛争を仲裁する能力。まとめ上げ、意に沿わぬ者には鉄槌を下す力。されど、魔王の部族だけでは力が足りず、他種族、他部族の力を借りての鉄槌になることも多々あった。要するに、全ての種族で刃向かえば勝てるが、誰かは味方にいる。神輿であり御旗だ。分け前を公正に配る誰かであり、互いの欠点を補わせるのが魔王だ。
つまるところ、
(実績のない我を、『お飾り』としてしか見ておらぬか)
とセスは判断した。
「面を上げよ」
「は」
一回で顔が上がる。
「要件はわかっておるな」
「いえ。未熟なわが身に教えていただければ幸いです」
黄土色の髪は一切揺れない。
「とぼけなくてもよい。まどろっこしいことをしている時間は、共にないであろう?」
ごみを払いのけるように、手を振る。
黄土色の奥方は、未だに玄関とセスたちの間に居る。
「厚顔ながら、私どもの部族が動くことはできません」
最初の様子である程度悟っていたためか、この言葉を聞き慣れたためか。落胆はさほど受けなかった。
「今、殿下に協力すれば初代四天王の地位は固いぞ」
ナギサが言葉を挟む。
言いづらそうに、男性の目が揺れて落ちていった。
「構わん。ここでの発言は何一つ罪には問わぬ。述べよ」
セスが言うと、目を落として男性が口を開いた。
「クノヘ殿の言う通り、今殿下の元に部族をまとめてはせ参じて、魔族の復刻が叶えば武力の大小に関わらず一目置かれる初代四天王になれましょう。ですが、同時に殿下が今の世界に覇を唱えることが出来なければ散り散りになってまでも生き永らえた部族の血が途絶える可能性がございますれば、簡単に是と返事をすることはできません」
(力を示す実績か)
セスが痛感していることを、ここでも言われた気がした。
まとめ上げる力もそうだが、個人としてもセスがどれだけの力があるのか、いまいち賭けきれない者が多いのが現状である。
だからこそ旗下が集まらない。数がいないから大きな行動にも移せない。だから力が疑われて、旗下が集まらない。悪循環に陥ってしまっている。
「殿下のお力をもってすれば、貴殿の一族の命は保証されたも同然。そこを見誤れては困る」
ナギサが睨むように言った。
男性がやや迷ったように目を動かしたが、今度はその時間は短く、強い声が返ってくる。
「お言葉ですが、殿下の許嫁がおられた翼人族の部族は、魔王城陥落の後、人間による襲撃を受けて大きく数を減らしたと聞いております。姫様の安否すら不明と」
要するに、自分の許嫁すら守れない奴が何を言う、である。
「物理的な距離が違う。近くに居れば殿下の手が届くが、今の手足どころか目と耳ももぎ取られた状態で遠くまで殿下の腕が届くと思っているのか? もとより、殿下と姫の婚姻を疎んでいたのはお前たちもだろう!」
ナギサの声に、男の後ろの子供たちの肩が跳ねた。
セスが右手を伸ばしてナギサを制止する。
「よい。正鵠を射ておる。見ようによっては、我は許嫁を見捨てて別の女子と逃げている腰抜けだの」
セスは笑い飛ばそうとしたが、自嘲的になってしまったのは否めない。
これで気まずくなってしまったのは、むしろ家の主たちだろう。
「邪魔をしたな。無事生き延びられよ。縁があれば、また会うこともあろう。その時はよしなに」
セスが踵を返す。
「申し訳ございません」
と、喉にものを詰めたような声が背中に届いたが、振り返ることなく部屋を出た。
階段を降りて、外に出る。セスには日差しがやけに強く感じられた。
「申し訳ありません。私が余計なことを進言したばかりに手間が増え、行く先々で殿下に対してご迷惑をおかけして」
「よい。納得してそちの策を取ったまで」
セスはナギサの言葉を遮った。
『一年もすれば勇者一行は疎まれ始めましょう。陛下が死んだ今、世界で一番個人の武力が高いのは勇者一行と、彼らを抱えるセンタリアですから』
とは半年前のナギサの言葉だ。それにしたがい、最初の数か月はおとなしくして魔族に力なしと思わせる。それから密かに仲間を募って、勇者が失脚すると同時に旗揚げする。
消極的だが、ごっそりと戦力を削られて求心力も削られたセス側ができる最善の策がこれだと思ったのだ。
「人間の王というものは、よほど他種族が憎いと見える」
「言葉を話せば手当たり次第敵。私にも人間の王どもがそう思っているように見えます」
翼人族は、いや、正確にはセスの許嫁がいた部族の羽は絵画に描かれる天使の羽を連想させる、見目麗しいものだった。魔族に列せられながらも、近くの人間とも友好関係を築いている、滅ぼされるような謂れのない部族だとセスもナギサも思っていた。
でも、攻められた。
それを知った日の洞窟には、血痕を残してしまうぐらい、激情に身を駆られたのをセスは今でも思い出す。
「姫は、ご無事です。私が一本も取れないほどの腕をお持ちなのですから、そう易々とは討たれません。それにあれだけの美貌の魔族を捕らえたなら、何かしらの話が流れて来てもおかしくはないかと。それが無いということは無事、ということでしょう。殿下も姫に手紙が遅いと言われた時に『便りが無いのはいい知らせ』と返していたではありませんか」
「だと良いがな」
セスと翼人族の姫君、シルヴェンヌとの結婚は親が決めたものであった。だが、文通を通じて深まった二人の仲は顔合わせの時には既に睦まじく、人間による侵攻が無ければ今頃はもう隣に居たかもしれない。
それを間近で見てきたからこその、ナギサの言葉とはわかってはいるが、どこか突き放すように返してしまったのも事実。
「姫に会った時のためにまずは釈明を考えねばなりませんな。嫉妬深いお方ですから、私がずっと近くに居たことを詰問されるのは目に見えておりますゆえ」
だがそんなセスに、ナギサは気にしていないとでも言うように軽口を叩いた。
流石にセスも口元を緩める。
「我が一言申せば、シルの機嫌は直ろう」
「そのためには折角のその言葉遣いを戻さないといけませんね」
「むう……」
「そうだ。こういうのはどうだろうか、殿下。僕も前までの言葉遣いに戻す。だから殿下も前のに戻す。崩壊したのだから、新しい形を模索する意味でも良い案だと思わないか?」
早速適応しているナギサを横目で見て、セスは口の中で息を吐いた。
「善処しよう」
「はは、まだ硬いな」
ナギサの方も無理に笑っているような感じではあったが前に出た。
「さあ、次の処へと行こうか。……申し訳ありません。私も少しばかり話しにくいです。幼い頃より殿下には丁寧に話すようにとしつけられてしまっておりますので」
セスの口角が少し上がった。
「好きにいたせ」
「では、やはり元に」
身体的な接触は全くないが、それでもセスを引き摺るようにナギサが歩き出した。
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