図書室の主

神野咲音

図書室の主

 桜貝の爪がページを掬い上げる。ぱらりと紙のめくられる音、指と紙が擦れる音。本を読む彼女の唇から、深い呼気が吐き出される音。静かな図書室にはそれ以外の音はなく、彼女が動かなければ、ただただ神聖さにも似た静謐だけが横たわっていた。


 飽きることなく彼女を眺め続ける僕に、彼女は一向に気づかない。黒い睫毛に縁どられた瞳が、上へ下へと文字を追いかける。時折瞬きをしては、小さな埃が舞い上がり、窓から差し込む西日に反射してきらきらと煌めいた。


 放課後、学校の図書館。あまりにもそれらしいシチュエーション。毎日とはいかないが頻繁に通ってくるこの女子生徒が本を読む間、ずっと眺めているのが僕の日課。とはいえ彼女に近づくことなどできやしないから、受付カウンターからこっそりと。


 彼女の手が持ち上がり、顔の横に垂れた髪を耳にかける。文字を辿っていた瞳が柔らかく綻び、小さな笑い声が忍び漏れた。


 彼女の読んでいる本は、僕も読んだことがあるから知っている。少年少女の青春を描いた、甘く切ないラブストーリー。最後には二人が結ばれて終わる、文句なしの大団円。僕がいっとう好むハッピーエンドの物語だ。


 僅かに零れ落ちた笑い声は、すぐに静寂に埋もれていく。それが何となく惜しくて、耳をそばだてた。


 彼女のいるこの空間が、ささやかな静けさが、僕は好きだった。どこまでも優しく、心に刺さらない沈黙。本棚で作り上げられた孤独の檻を壊してくれる、僕にとっての救いだった。


 けれど僕は知っている。僕と彼女の間に、ハッピーエンドなどありえないことを。この美しい静穏に、僕は触れることすら許されないのだと。


 やがて下校を促すチャイムが鳴り響き、僕の愛する静寂が破られる。彼女はゆっくりと立ち上がり、本を棚に戻して去っていった。






 思えば、彼女は本の趣味が僕と似ていた。


 あれが読みたいなと、ふと思い立って本を探しても、見つからない。パソコンを覗いて貸出表を確認すれば、そこに僕の探していた本のタイトルと、彼女の名前が並んでいる。そんなことが度々あって、僕は一方的に彼女を認識した。


 それが、いつも放課後になるとやってきて本を読んでいる女子生徒だと、すぐに気づいた。


 鼓動が高鳴るのを感じた。初めての衝撃だった。ああ、いつもモノクロの世界で追いかけていた恋という奴は、こんな無茶苦茶な衝動だったのかと。一目惚れというものは、本当に厄介なのだなと、笑いさえした。


 それから始まった、彼女を見つめる日々。特等席である受付カウンターに居座り、図書室の主、なんて呼ばれている僕に、それ以上のことはできなかった。


 僕は僕をよく知っていて、彼女に声を掛けられるはずがないなんてこと、分かり切っていたから。






 放課後の図書室には、いつも僕と彼女しかいなかった。本当ならば図書委員が二人いないといけないのだけれど、不真面目な生徒が多くてほとんどが委員の仕事を怠けていた。それが僕にはありがたい。


 僕が好きなのは、彼女が作り出す静寂だ。じゃんけんで負けて図書委員になったような生徒が騒いでいては、静かに彼女を眺めることもできない。それに、そんな場所ならきっと、彼女はこうやって通ってくることもなかっただろう。


 時に笑みを零し、目尻に涙を滲ませ、本の世界に浸りながら、彼女はいつも幸せそうだった。あんなに本が好きなのだ、僕と話が合うだろう。話すことなどできやしないけれど。


 どうして僕は、彼女を眺めることしかできないのだろう。混じり合うことのない運命を呪いさえした。ああ、どこかに存在しているのであろう神様。僕が一体何をしたというのですか。なぜ僕はこの世に生まれて、ここにいるのだろう。


 答えなどない。当然だろう。僕がここにいることに、理由なんてないのだから。






 転機が訪れたのは、学年が上がってすぐの時期だった。一年間通い続けていた彼女が、初めて友達を連れてやってきた。意味もなく息をひそめて眺めていた僕だけど、話していたのは他愛もない噂話ばかりだった。誰それがあの子と付き合っている、学校の怪談があって、今度のテストは難しいらしい。女の子がよく使う、中身のない言葉の羅列だ。


 彼女は友達と一緒に笑っていたけれど、本を読んでいるときよりもつまらなさそうだった。


 やがて友達が帰ってしまうと、彼女はいくつかの本を選んで受付カウンターに置いた。



「やっぱり、図書室は静かなのが一番よ。ねえ、図書室の主さん?」



 初めて明確に、僕に向けられた言葉。僕は悲鳴を飲み込みながらも、その言葉には同意するしかなかった。






 それ以来、彼女は受付カウンターに一番近い席に座るようになった。本から視線を上げることなく、僕に話しかけてくることもあった。



「この本、面白いかしら? どう思う?」


「しまった、これ、前にも読んだ本だわ」


「私の好みにばっちり合う本ってないかしら」



 その度に僕は縮こまってしまう。僕は彼女と言葉を交わすことなんてできない。例えどれだけ本の趣味が合おうと、おすすめの本があろうと、彼女に問いかけられようと。


 けれど僕の返事がなくとも、彼女は当然だとばかりに本を読んでいた。僕と同じでこの静寂を愛している彼女は、会話の相手など求めていないのだ。ただの独り言、それに僕が答える意味なんてない。


 跳ねる心臓を押さえてそう考えると、それを見透かしたかのように彼女は言うのだ。



「聞いているの、図書室の主さん?」



 はい、聞いてます……。


 掠れて震えて縮こまった僕の声が、彼女に届くわけもない。だけど彼女がおかしそうに笑っているから、それでよしとした。


 ……残酷な神様。決して結ばれない僕たちの運命を交差させて、何を楽しんでいるんだろう。意地悪な神様。どうせなら僕たちの運命を、変えてくれればいいのに。






 ある時、彼女が図書室に来ない日が続いた。


 僕は相変わらず受付カウンターに陣取っていて、彼女が来るのを心待ちにしていた。


 彼女のいない静寂は嫌いだ。大好きなはずの本の群れが、僕を孤独にしようと手を取り合って囲い込んでくる。僕は決して逃れられない檻の中で、一人寂しく佇んでいる。


 彼女はいったいどうしたのだろう。体調でも崩したのか、それとも外せない用事があるのか。テスト期間ですらここに来ていた彼女だから、来ない理由となると、悪い想像しか働かない。


 数日経った雨の日にようやく彼女は現れたけれど、その顔は浮かない。いつもの心地よい静寂ではなく、肌を刺すような刺々しい沈黙を纏って、彼女は本のページを乱暴にくっていた。


 話しかけたい。けれど僕にはそんなことできない。どうしたのと声をかけて、彼女の悩みを解いて、笑顔を取り戻してあげる。そんな、簡単なことなのに。


 とうとう彼女は本を読むことを諦め、机の上に突っ伏してしまった。ぼんやりと受付カウンターを見つめる瞳が、深く傷ついているのが分かる。



「好きだったのに、なあ」



 ああ。その一言で、僕は分かってしまった。彼女は恋に破れたのだ。その気持ちはよくわかる。僕も彼女に恋をして、その瞬間にはもう失くしてしまったから。


 静かに涙を零した彼女を、慰めてあげられたらいいのに。その心の隙間につけ込むことができたのなら、きっと僕にもチャンスがあったかもしれないのに。


 窓の外には霧のような雨が降り続いている。冷えて白くなった彼女の指先を見つめながら、僕はそっと拳を握りこんだ。






 月日は流れる。静寂を宿して図書室に通う彼女と、それを眺め続ける僕。僕は変わらない。運命は混じり合わない。それなら未来永劫、この失くした恋を抱えていこう。それが僕の運命だ。意地悪な神様が僕に与えた、ここに生きる意味だ。






 卒業式の日、彼女は胸に造花の飾りをつけたまま、図書室を訪ねてきた。桜貝の爪はページを掬い上げることなく、名残惜し気に机を撫でている。


 遠くからは卒業生たちの騒ぐ声が聞こえてくるが、この図書室の中はいつも通りの優しい静寂が満ちていた。


 僕は昨日の放課後に彼女が読んでいた本を開いていた。巡り会い、すれ違いを経て結ばれた、少年少女。美しくも尊いハッピーエンド。僕が愛する、手の届かない、結末。



「さよならね、図書室の主さん。……なんてね」



 彼女が呟いた。胸がドキリとする。彼女は僕に気づいていたのだろうか。そんなはずがないのに。


 目を細めて微笑む彼女が愛おしくて、けれど声を掛けることも、ましてや触れることもできない。



「そんなの、いるわけないのにね」



 僕は図書室の主だ。いつも受付カウンターの上に座っていて、たまに肝試しだとやって来た悪戯っ子を脅かすこともある。本を大切にしない生徒の前に現れては、怨嗟の言葉を吐きかける。最近は、生徒自体が来なくなってしまったけれど。


 気づけば僕はここにいて、カウンターに座っていた。いつしか学校の怪談とか七不思議に数えられるようになったけど、僕は自分がここにいる理由が分からなかった。


 ――そしていつしか、彼女に恋をして。


 けれど彼女は本を大切にするから、姿を見せることもできない。絶対に邂逅できない僕と彼女の恋は、始まることなく終わりを告げたのだ。



『……さようなら』



 僕の言葉は、図書室を去っていく彼女の背に届くことなく、埃の舞う静かな空気に溶けて消えていった。

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図書室の主 神野咲音 @yuiranato

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