Flag11.告白

勝一の体が、月夜に舞った。キャリコのソードが冷たい輝きを放ち、彼の体を容赦なく斬り裂いた。

「…勝一ッーーー!!!」

私は叫んだ。声の限りに叫んだ。

「…フラグ・バスター!」

隊長は私達の前に立ちはだかる紳士に向かい、フラグ・バスターを放った。その威力は凄まじく、紳士が咄嗟に発動したフラグ・バリアごと、彼の体を吹き飛ばした。

「まだあんな力を残していたか…!」

キャリコは隊長を睨むと、ソードを構えて隊長に向かって来た。

「フラグ・バリアッ!」

隊長はキャリコに掌を向けると、彼の体を覆うように小さなフラグ・バリアを張った。

「何の真似だ?」

「邪魔はさせんッ!!」

隊長はそのフラグ・バリアに向けて、全力のフラグ・バスターを放った。キャリコは身動きが取れず、バリアごと吹き飛ばされていった。

「マリア君!勝一君を、早く!!」

私はすぐさま飛び出し、地面に落下する直前の勝一を受け止めた。その体は血塗れで、ソードによる深い裂傷が刻まれていた。

「別邸へ行こう」

隊長は伊凛を背負いながら私に言った。彼女は、勝一が斬りつけられたショックで気を失っていた。

「あそこでなら勝一君を治療出来る。手遅れになる前に…!」

私は涙を必死に堪えながら頷いた。勝一の出血はおびただしく、一刻も早く治療しなければ命はない。FCD別邸、それは緊急事態に備えて建設された活動拠点の一つであり、そこにはオートメーションの最新医療設備が整っている。別邸でならば、大抵の負傷や病気も治療する事が出来る。少しでも時間を稼ぎ、勝一を救うためには、他に選択肢はない。隊長の後に続いて飛び上がった私は、自らに残ったフラグ力を抱きかかえる勝一に送った。

…死なせない。私達を命懸けで守ろうとしたこの人を、絶対に死なせはしない。

私達は一直線に、別邸を目指して飛行した。



「…逃がしたか」

坊っちゃまは小さくそう呟いた。本当に恐ろしい男だ。あれ程の傷を負いながら、まだあれだけの力を残していたとは。

「セバスチャン」

私の名を呼んだ坊っちゃまの顔は、私が見知っている坊っちゃまのそれでは無かった。冷たい輝きを放つ瞳に、私は思わず凍り付いた。

「ヤツらを追うぞ」

もはやこの方は、私の知っている坊っちゃまではない。主人公補正によって高まった莫大なオーラは、既に神の領域にまで近付きつつある。

「絶対に逃がさない。地の果てまでも追い詰めてやる」

大地が、坊っちゃまのオーラに呼応するように震えている。

やはりこのお方こそが、神に選ばれた戦士なのだ。私はそう確信した。



FCD別邸は、今朝勝一と共に訪れたデパート跡地の近く、その地下深くに存在する。

私はすぐさま勝一を集中治療室に運び込んだ。血まみれになった服を脱がせると、勝一の胸から腹部にかけてライトニング・ソードによる深い裂傷が刻まれていた。心臓をわずかに逸れているとは言え、生きているのが不思議な程の傷だった。私は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、オートメーションを起動した。高度な人工知能を持つこの医療用オートメーションは、カメラで勝一の容態を確認すると、ただちに治療を開始した。麻酔を施し、瞬く間に裂傷を縫合していく。だが、勝一の負っている傷はかなり深く、助かるかどうかは全くの五分だった。

私は全身の力が抜け、思わずその場にへたり込んでしまった。勝一の青白く生気がない顔をただ呆然と見ながら、そこから動く事が出来なかった。

「…マリア君」

不意に声をかけられた。振り返ると隊長がそこに立っていた。その顔には蓄積されたダメージと疲労の色が浮かんでいた。私も、そして隊長のフラグ力もすでに底を突いている。治癒フラグを使ってあげる事も出来ない。隊長も私と同じ悔しさを抱いているに違いなかった。隊長は横たわる勝一の姿を見ながら静かに口を開いた。

「伊凛君には我輩がついている」

隊長は重苦しい口調で言った。

「君は、勝一君の側にいてあげなさい」

隊長はそう言うと、集中治療室の白いドアから出て行った。

私は震える体を抑え、勝一の側にある椅子に腰掛けた。簡素なパイプ椅子の軋む音が、まるで誰かの悲鳴のように聞こえた。

「…勝一」

私は彼の名を呼んだ。返事が返ってくるはずなどないのに。彼の手を握ると、その手は大きくて、ほのかに温かかった。

「勝一、ごめんなさい」

もう、私には何もしてあげる事が出来ない。それでも私は、彼の手を離せなかった。

「貴方を守ってあげられなかった。私達の命と名誉を守ろうとしてくれた貴方に、何もしてあげられなかった」

私は眠る勝一の顔を覗き込んだ。こんな風にじっくりと彼の顔を見るのは初めてだったかも知れない。勝一の睫毛は長く、その寝顔はまるで子供のように幼い。だけど、傷付けられた咽頭には大きな喉仏が張り出しており、太く濃い眉毛には男性の精悍さがあった。

「勝一、私は瞬く間に成長して行く貴方に目を奪われてしまった」

勝一の手を強く握り締める。

「貴方の優しさに、心を奪われてしまった」

この手で、私達を守ってくれた。

この手で、私の傷を癒してくれた。

「貴方は必ず、素晴らしいフラグ・クラッシャーになる。誰よりも強く、誰よりも優しい戦士に…」

そこまで言って、私は言葉に詰まった。

…きっと、この想いを口にしてしまったら、形にしてしまったら、心に誓ったはずの覚悟が揺らいでしまうかも知れない。

それでも、それでも今、この想いを口にしなければ、私は必ず後悔するだろう。私は意を決して、口を開いた。

「…勝一、私には恋愛という物が何なのか、良く分からない。戦う事しか知らなかったから…」

例え、貴方に届かなくても良い。

「…けれど、勝一。今、私が貴方に抱いているこの想いが恋だと言うのなら…」

それでも構わないから、伝えたかった。

「最初で最後の相手が、貴方で良かった」

私の、一番大切な想いを。

「…ありがとう…本当にありがとう…」

私はまるで吸い寄せられるように、眠る勝一の唇に口付けをした。勝一の唇は柔らかくて、温かかった。勝一の顔に、雫が落ちた。後から後から雫が落ちた。まるで私ではなく、勝一の方が泣いているみたいだった。

…やっぱりダメだ。一度この温もりと感触を知ってしまったら、途端に死ぬのが恐くなってしまった。

もっと生きたいと思ってしまう。この人と共に生きていたいと思ってしまう。

私は迷いを断ち切るように立ち上がり、両手を重ねて神に祈った。

…どうかこの愛する人に、神の御加護がありますように、と。

私は振り返り、集中治療室のドアに手を掛けた。


…私は、戦士だ。

大切な人の命と幸せを守る、戦士なのだ。


*****


故郷の空は、灰色だった事だけを覚えている。石炭が土地の名産だった私の故郷は、年中煙突から石炭を燃やす煙が吐き出されていて、空はいつも曇っていた。外を歩くと石炭の煙塵で、鼻の穴まで真っ黒になった。

私の家は農家だった。とても貧しい家で、いつでも何かに困っている家だった。私は生まれてすぐに捨てられ、近所に住んでいた優しいお婆さんが引き取って育ててくれていた。私は物心がついた頃に、このお婆さんが私のお母さんなのだと思っていた。

ある日、突然男の人と女の人がお婆さんの家にやって来て、私を連れていった。お婆さんは何か抗議していたが、男の人がお婆さんを怒鳴り付けると、お婆さんは涙を浮かべて私の顔を見つめていた。

その人達が私に言うには、二人は私の本当の父と母で、お婆さんには私を預けていただけで、私が大きくなったら迎えに行くと約束していたそうだ。

私はとても嬉しかった。本当のお父さんとお母さんが迎えに来てくれた。きっとこれから楽しい日々が始まるんだ。そう思っていた。


次の日、夜が明ける前に怒鳴り声で目を覚ました私に、母は近くの井戸に行って水を汲んで来い、と言った。まだ眠い、と言ったら、頭を叩かれた。痛くて泣いたら、もっと叩かれた。これはお前の日課だと言って、彼女は恐ろしい顔で私を怒鳴り付けた。とても恐かった。

その日から私の日課はどんどん増えていった。水汲み、飯炊き、掃除、洗濯、ありとあらゆる雑用が私の仕事だった。少しでも手を抜いたり、動きが遅いと叩かれた。最初の内は叩かれる度に泣いていたが、一度足腰が立たなくなるくらい酷く折檻されてから、涙が出なくなった。

私には名前がなかった。父も母も、一度だって私の名前を呼ばなかった。『おい』とか『お前』とか、それが私の名前なのだと本気で思っていた。

そんな私には、月に一度だけ楽しみにしている事があった。収穫した野菜を市場に背負って届ける帰り道に、町にあった唯一の本屋さんを覗く事だった。店主の目を盗んで、私は本を読んでいた。と言っても、私は文字が読めなかったので、本に描かれている挿絵を眺めているだけだったけど。その絵を見て、楽しい冒険や神様の話を想像すると、とても楽しかった。何度か盗んでしまおうと思った事もあったが、胸がチクチクするので止めた。

ある日、読んでいた神話の本にとても綺麗な女神様が描かれていた。金色の長い髪の毛に、美しい着物を纏って空を飛ぶ、煌びやかな天女の絵だった。私はこの絵がとても好きだった。いつか、こんな美しい着物を着て空を飛んでみたいと思った。

どうしてもその本が欲しくて、私は生まれて初めて盗みを働いた。心臓がドキドキして、手の震えが止まらなかった。私はその本を枕の下に隠し、夜中になると月明かりを頼りにその絵を眺めていた。その本は、私の人生で初めての宝物になった。

それから一週間くらい経った時、私は父と母から酷い折檻を受けた。いつものよりも長く、痛くて、恐かった。私が日課の洗濯を忘れていたのが原因だった。私はこのまま殺されるのだと思った。すると父は私を表に放り出し、二度と帰ってくるな、と恐い顔で言った。私は足を引きずりながら、家から離れた。私の頭の中には、置いてきたあの本のことしかなかった。


その年は大飢饉で、私と同じように親から捨てられた子供がたくさんいたのだと、後から知った。私は生きるために色々な事をした。盗みを働いたり、残飯を漁り、乞食のようなこともした。そんな時でも、私の頭に浮かぶのはあの美しい女神様の姿だった。

ある寒い冬の日、私は道端で動けなくなった。寒さと空腹で、どうしても体が動かなかった。このまま死ぬんだなぁ、とぼんやり考えたら、なぜかホッとした。

すると、突然私の体が浮き上がった。何だろうと思って顔を上げると、それは私よりも少し年上の男の子だった。彼は私の体を毛布でくるむと、ひょいと持ち上げて私をどこかに運んでいった。

そこは小さな洞穴だった。焚き火が燃してあって、外よりも幾分か温かかった。彼は私を藁が敷き詰めてある寝床に横たえさせると、洞穴の奥の方に入っていった。何が起きているのか分からず混乱していると、何やら美味しそうな匂いが漂ってきた。

「お食べ」

彼は湯気の立った食事と、熱いお茶を私に差し出して笑った。私は夢中で食事にかぶり付いた。久しぶりに食べた温かい食事だったから、少しお腹が痛くなったけど、とても美味しかった。だけど、何故この人は私を助けてくれたんだろう?

不思議に思っている私の頭を、彼は優しくなでて言った。

「君はとても辛い目に遭ってきたようだね。だけど大丈夫、君の運命が幸せなものになるよう、おまじないを掛けたから」

そう言って彼は、ニッコリと笑った。毛布も、焚き火も、食事も、熱いお茶も、とても温かかったけど、この人の掌が一番温かかった。私は何だか恥ずかしくて、藁を被って顔を隠した。それでも彼は私の頭をなでてくれた。嬉しくて気持ち良くて、いつの間にか私は眠りに落ちていた。

朝目覚めると、彼はいなくなっていた。藁の寝床の脇には、たくさんの食料が置かれていた。私は、あのお兄ちゃんは神様の使いなのだと思った。私を助けるために、神様が私に会わせてくれたのだと思った。どうしてももう一度会いたくて、私はしばらくそこで暮らしていたが、彼が現れる事は二度となかった。


その日は、土砂降りの雨が降っていた。いつものように食料を調達して洞穴に帰ると、誰かが洞穴に立っていた。私は恐くて逃げ出そうとしたが、後ろから体を抱きかかえられて、身動きが取れなかった。その人は私を寝床に座らせると、頭までスッポリと覆っていた着物を脱いだ。それは、見るからに強そうな男の人だった。

「フム、君がそうか」

男の人は野太い声でそう言うと、ニカリと私に笑い掛けた。

「驚かせてすまない。我輩は、フラグ・クラッシャー・デルタフォース隊隊長、十田六郎である。長いから、隊長と呼んでくれ」

男の人はそう言って、またニカリと笑った。そして隣に立っているもう一人の人に何やら話し掛けた。その言葉は聞いた事も無い言葉で、私には何一つ理解出来なかった。

するともう一人の人が、顔を覆っていた着物を脱いだ。その顔を見て、私は仰天した。金色の長い髪に、透き通るような白い肌、青い水晶のような瞳。それは紛れもなく、あの本に描かれていた女神様だった。

「彼女は、マリア・ロクヴナ・スヴェトラーナ。長いから、マリア君と呼んでくれ」

私は目を丸くして、女神様を見つめていた。実際の女神様は、絵で見るよりもとても綺麗だった。着物は変テコだったが、そんな事は気にならなかった。

「君の名前も、教えてくれないか?」

男の人はそう問い掛けた。私はとても困った。女神様と一緒にいるならば、この人も神様なのかも知れない。私は自分の名前を知らない。神様に嘘をつく訳にはいかないし、どう答えれば良いのか分からなかった。

男の人は黙り込んでいる私をしばらく見ていたが、やがてまたニカリと笑った。

「我輩達と一緒に来たまえ。君には話したい事もあるしな」

そう言うと、その人は私を抱きかかえたまま、空に浮かび上がった。私は驚いてその人の首にしがみ付いた。そのまま私達は空に飛び出した。自分がまさか空を飛んでいるなんて、夢のような出来事だった。女神様も私達の隣を飛んでいる。空を飛べるなんて、やっぱりこの人達は神様なんだと思った。いつの間にか、雨は止んでいた。

女神様の飛んでいる姿は本当に美しくて、私は思わず見惚れてしまった。女神様は一言も喋らず、ただじっと私の事を見つめていた。


男の神様が私に話したのは、神様達は困っている人達を助け、悪い人達を倒す、正義の活動をしているという話だった。私には神様達の仲間になれる才能があるから、一緒に暮らして様子を見たい、と言うことだった。

私に神様達の仲間になれる才能があるだなんて信じられなかったが、神様がそう言うのだったらその通りなのだと思った。

神様達の住む家に連れていかれた私は、とても緊張していた。神様達に嫌われる訳にはいかない。私はかつて家でやっていたように、進んで雑用をこなした。嫌われたくないから、どんな時でもニコニコ笑うようにした。

男の神様はそんな私の様子を見て、私の頭を撫でて笑った。

「君がそんな仕事をする必要はない。君は、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣けば良い」

私は、仕事をしなくても良いとか、泣いても良いなんて、この神様は少し変なことを言うな、と思った。女神様は何も言わずに、困った顔をして私を見つめていた。


ある日、私がお風呂に入る時、いつも冷たい水で体を洗っていることに気付いた女神様は、その日から必ず私と一緒にお風呂に入るようになった。家にいた頃はお湯を使うと殴られたのでそれが当たり前だったけど、女神様は逆に冷水で体を洗うことを許さなかった。女神様は温かいお湯で丁寧に私の体を洗ってくれた。とても気持ち良かった。女神様の背中には大きな傷があった。私は、神様なのに傷があるなんて変だな、と思った。

私が夜中にトイレに起き出すと、男の神様と女神様が私には分からない言葉で何か話し合っていた。女神様はとても恐い顔をしていて、私は何だか見てはいけないものを見てしまったようで恐くなって、布団を頭から被って寝た。

翌朝、食事を食べていると、女神様が初めて私に話し掛けてきた。その言葉はたどたどしくて、まるで小さな子供が喋っているような言葉だった。女神様は、私と話がしたいから、私の国の言葉を勉強しているのだと言った。

私は、おかしいと思った。神様のくせに勉強するなんておかしい。やっぱりコイツらは神様なんかじゃない。私の事を騙していたのだと思った。そう考えたらとても腹が立った。

試してやろうと思った。コイツらもどうせ、私の事を怒鳴り、殴り付けるに決まってる。そう思った。


次の日、その女が用意した食事を机ごと引っくり返してやった。女は呆然として散らかった食器を見ていたが、しばらくすると悲しそうに笑いながら私の頭をなでて、私の事を怒らなかった。

その次の日、私は干してあったあの女と男の服を、泥の中に投げ込んでグシャグシャに踏みつけてやった。女はやっぱり、悲しそうに笑いながら私の頭をなでた。

私は女に、お前の言葉は変だから喋りたくないと言ってやった。お前の背中の傷は気持ち悪いから、一緒にお風呂に入りたくないとも言ってやった。それでも女は悲しそうに笑いながら私の頭をなでるだけで、私を決して怒ろうとはしなかった。

私はとても腹が立った。ムキになっていた。私は、その女がいつも大事そうに持ち歩いている、あの男と一緒に写っている写真を取り上げると、その女の目の前でビリビリに破り捨ててやった。

女は悲しそうな顔で私の頭をなでた。その顔は、笑っていなかった。

私はその時初めて、自分がとんでもないことをしてしまったのだと気付いた。恐くなって、私は家を飛び出した。走って、走って、足の裏が血だらけになるまで走り続けた。

もう走れなくなってふと辺りを見渡すと、そこは見た事もない深い森の中で、寒くて薄暗く、しいんと静まり返っていた。

私はとても心細くなって、膝を抱えて震えていた。泣きたいのに、どうしても涙が出なかった。

すると突然、誰かに肩を叩かれた。振り返ると、そこに立っていたのは、あの女だった。

女の顔は悲しんでいるのでも、笑っているのでもなく、とても、怒っていた。

「…この…愚か者ッ!」

女は初めて私を怒鳴り付けた。

「急に家を飛び出したりして、万が一貴女の身に何かあったら、一体どうするつもりです!?」

いつの間にか、女は流暢に私と同じ言葉を話していた。女の顔はとても真剣で、とても恐かった。

突然女は膝を折り、私の事を力強く抱き締めた。

「……お願いですから…二度とこんな事をしないで下さい……!」

女の声は震えていた。

「……貴女の身に何かあったら…私は…私は…」

女はポロポロと涙を流しながら、声を震わしてそう言った。女の体はとても温かかった。

「……ごめん……なさい…」

気付いたら、私も涙を流していた。あんなに泣こうとしても泣けなかったのに、その温もりに触れたら、急に涙が込み上げてきた。

「……ごめんなさいっ…!」

私は泣いた。とても恐くて、とても嬉しくて、涙が止まらなかった。

知らなかった。本気で怒られる事がこんなに恐いことだったなんて。

知らなかった。自分のために誰かが怒ってくれることがこんなに嬉しい事だったなんて。

私達は泣いた。お互いの肩を抱き合って大声を上げて泣いた。男の人が迎えに来てくれるまでの長い間、私達はずっと泣き続けていた。


その日、私に二つの宝物が出来た。

マリアと隊長。私の、大切な、何よりも大切な宝物。


『蔡 伊凛』と言う名は、隊長が付けてくれた。『蔡』は、隊長が昔お世話になった人の苗字、『伊凛』は古代中国の女神様で絶世の美女の名から取ったのだと言った。

「我輩は一度会ったことがあるが、あれは本当に美しかったなぁ」

しみじみと語る隊長の言葉が本当か嘘かは分からないけれど、そんな綺麗な女神様と同じ名前だなんて、何だかこそばゆかった。その名もまた、私の宝物となった。

私がフラグ・クラッシャーになると決意した時のマリアの喜びようは、今でも覚えている。だけど、マリアは本当に厳しかった。涙を流すと容赦なく怒られた。その時のマリアはとても恐かったが、私は同時にとても嬉しかった。

マリアが怒るのはいつだって、私のためを思ってのことだ。私を立派な人間に、戦士に育てるために怒ってくれているのだと分かっていたから、私はどんなに厳しい訓練にもついていけた。


きっと私は、欲張りになっていたのだと思う。マリアがいて、隊長がいて、それだけでもう充分幸せだったのに、どうしてもあの掌の感触を忘れることが出来なかった。

私はいつも、あのお兄ちゃんの面影をどこかに探していたのだと思う。もう二度と会えるはずがない。そう諦めていた私の前に、あの人が現れた。

強くて優しくて、私の頭をその掌でなでてくれる。あの人の掌は魔法の手だ。なでられる度に、とろんとして温かい気持ちになって、とても安心出来た。私の人生に、もう一つの宝物が出来た。

だからこれは、きっと天罰なんだ。私が欲張り過ぎたから、神様が私から宝物を取り上げようとしているんだ。


神様は、お兄ちゃんを私から取り上げようとした。

そして今、別の宝物まで私から取り上げようとしている…


*****


「そんな…!そんなの絶対ダメアル!!」

私は隊長にしがみ付いた。隊長は目を閉じたまま、何も言わなかった。

「伊凛」

後ろから声がした。マリアがそこに立っていた。私の、かけがえのない宝物。

「マリア!隊長が一人でキャリコと戦うって…!お願いアルマリア!隊長を止めテッ!!」

マリアならきっと隊長を止めてくれる。私はそう思った。だけど、マリアが口にしたのは、私の望みとは全く逆のことだった。

「隊長、私も共に戦います」

「…エ?」

「マリア君!何を言っている!?君達は一刻も早くここから逃げるんだ!」

マリアは静かに首を振った。

「私は自分の使命を貫きます。例え命を落としても悔いはありません」

マリアの青い瞳が輝いている。分かっている。この目をした時のマリアの意志は、絶対に変えられないと言うことを。

「…じゃあ…!伊凛も一緒に戦うアル!伊凛だってフラグ・クラッシャーアル…!」

私がそう叫ぶと、マリアは優しく微笑んだ。

「伊凛、貴女まで行ってしまったら、誰が勝一を守るのです?」

「…そ、それは……デモ…デモッ…!」

堪えきれなくなって、涙が溢れ出してきた。マリアにいつも怒られていた涙が。だけどマリアは怒らずに、優しく笑って私の頭をなでた。

「伊凛、戦士が簡単に泣くものではありませんよ。貴女は強い子です伊凛。勝一の事をよろしくお願いしますね」

そう言ってマリアは、出口に向かって歩き出した。隊長はもう何も言わず、マリアに続いた。

「…嫌アル…」

なくなってしまう。

「…そんなの嫌アル…!」

私のかけがえのない、宝物。

「嫌っ…!嫌アル!…誰か…誰か…助けてヨ…!」

その時、私の頭に浮かんだのは、あの掌だった。私がずっと待ち望んでいた、もう一つの宝物。

「助けて、お兄ちゃん!」

そっと、頭上に温もりが降り注いだ。

温かくて優しい、私の大好きな温もりが。

「泣くな、伊凛」

世界にたった一人の、伊凛のお兄ちゃん。

「お前が泣くと、俺が怒られちゃうんだよ」

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