Flag6.証

闇夜の中でも休み無く輝く都心、その郊外にある廃工場の敷地に、幾つもの黒い影が飛び交った。常人の目では到底追いきれぬ速度で移動を繰り返す不気味な殺意を前にして、金髪の少年は悠然と佇んでいた。

不意に暗闇の中に錆び付いた工場の外壁が浮かび上がる。複数の影の手元から、青白い電流が発せられ、その電流は瞬く間に少年が立っていた場所に一斉に降り注いだ。凄まじい爆音と共に、大量の土砂が宙空に舞い上がる。電流を受けた場所は深く抉られ、電流の高温で焼かれどす黒い煙を上げている。少年は跡形もなく消し飛んだのだろうか。

「なんと軟弱で、品のない技だ」

突然、上空から声が響いた。少年は、その鋼鉄の腕を上げたまま機能を停止したクレーン車の上から、影達を見下ろしていた。

「貴様ら程度、フラグを立てるまでもない。光栄に思え」

そう言って右手を上げると、夥しい量の電流が発生した。歪な形で唸りを上げるその電流は、少年の掌の上で集約され、真円を描く巨大な球体となった。電流から発せられる強烈な光によって、広大な廃工場の敷地がライトアップされたかのように照らし出された。幾人もの男達の恐怖で引きつった表情と共に。

「本物のフラグ・ライトニングを見せてやろう」

少年が球体を投げ出す仕草をすると、怪鳥の鳴き声にも似た金切り音と共に、その球体は地面に向かって一直線に落下した。瞬間、辺り一面を真っ白い閃光が覆い尽くし、地面と衝突した衝撃によって球体が擁していた強大なエネルギーが大爆発を引き起こした。地響きが鳴り、大地が裂ける。

刹那の静寂の後、立ち込めていた土煙から現れたのは、隕石が落下して出来たクレーターのような巨大な穴が開いているだけで、廃工場は男たち諸共、跡形も無く消え去っていた。

「流石でございます、坊っちゃま」

月明かりを背負い、空中から辺りを見下ろしていた少年の背後に、銀髪の紳士が現れた。

「世辞は止せ。それより捕らえたのか?」

「はい。少々暴れましたので、手足の自由を奪ってありますが」

「ロープでも持ち歩いているのか?」

「いいえ。軽く捻っただけでございます」

「それは可哀想に」

少年は口元を歪めて軽く笑った。

「ならば楽にしてやらねばな」

二人が地面に降り立つと、そこには地面い転がる大きな影があった。辺りに街灯は無く、月明かりが照らすのみだったが、二人の目には痛みと恐怖に顔を歪ませる男の表情が見て取れた。その手足は、関節が所々あらぬ方向に捻じ曲がっている。

「僕は面倒な事は嫌いだ。簡潔に話せ」

少年はその冷酷な表情からは想像出来ない程、爽やかな声で問い掛ける。

「FPの目的は何だ?」

闇夜に浮かび上がる冷たい青い瞳、男は脂汗を滲ませながら必死に口を開いた。

「…エ…エデンからは、十田六郎抹殺の指令が出ております…」

「古狸共には、その役目は僕が担うと伝えた筈だ」

「…エデンは、あなた様と十田を戦わせてはならぬ…と…ご命令されました…」

「僕を馬鹿にしているのか?」

少年は、男の太い首筋を鷲掴みにすると、軽々と持ち上げた。男は息苦しさで苦しみの呻きを上げたが、その手から逃れる事は出来ない。

「言え。古狸共の本当の目的は何だ?エデンは一体何を企んでいる?」

「…す、す、全ては…神のい、し…だと…!」

「神の意志?下らぬ事を」

「お!お助け下さい…!キャリ…」

言い終える前に、少年の発した電流によって男は消し炭のように跡形も無く消え失せた。

「よろしいのですか?」

「構わん。所詮『フラグ・エクスキューター』など元死刑囚共の集まり、生かしておく価値など無い。それで、ヤツらの隠れ家は分かったのか?」

「はい、坊っちゃまが今消滅させた男から聞き出しました。神ヶ丘町のマンションに拠点があるようでございます」

「『神ヶ丘町』、気に入らない名称だ。こんなちっぽけな国に神など存在しない」

少年は吐き捨てるようにそう言った。

「しかし、エデンが動いたのであれば事は簡単ではありませんな。FPとフラグ・エクスキューター、そして各国政府も我々に介入してくる可能性があります」

「ジューダ一人に怯えて、今の今まで手を出す事さえ出来ずにいた弱腰共など話にならん」

「あの男は、恐るべき男です」

モノクルの奥で、鋭い灰色の瞳が輝いた。

「幾度となく拳を交えましたが、私に太刀打ち出来る相手ではございません」

「僕の前で謙遜は止せ、『シルバーハウンド』。かつて、ジューダと肩を並べて戦った伝説の男の一人、お前の強さは僕も良く知っている。…だからこそだ」

少年はその整った美しい顔を、興奮と高揚を抑えきれず醜く歪めた。

「ヤツを殺す事で、僕は神にも等しい力を手に入れる事が出来る。…もうすぐだ。もうすぐに、僕が全てを手に入れる日が来る!このキャリコ・デー・クロケットが!」

無人の荒野に、高らかに響き渡る笑い声。

約束の日は、刻一刻と迫っていた―


***


「今日で丁度二週間、基礎訓練は概ね習得出来たようですね。とても順調ですよ、勝一」

「は、はい…あ、ありがとうございます…」

「どうしました?あまり嬉しそうではありませんが?」

「い、いえ…嬉しいんですけど…その…」

ゴウッと、強烈な北風が俺達の間を走り抜けた。マリアさんは乱れた金色の前髪を整えながら首を傾げた。

「どうしたと言うのです?落ち着きませんね」

「いや、あの…何で俺達こんな所にいるんですか?」

そう言った俺の脇を、一際強い風が通り抜けて行った。

今、俺達がいるのは、FCD本部のてっぺん、地上三十階建てマンションの屋上だった。屋上には簡易的な柵が設けられているだけで、風を遮るような障害物は一切ない。さっきから冷たい強風に煽られて、俺の気分は全く落ち着かないのだ。

「安心なさい、特に深い意味はありません。たまには気分を変えて訓練するのも悪くないと思いまして」

なるほど、そう言う理由か。屋上には少し嫌な思い出があるが、マリアさんなりの気遣いだったようだ。最近気付いたけど、この人は本当は優しい人だ。めちゃくちゃ厳しいけど、俺や伊凛に接する態度を見ていると良く分かる。本当は優しいけど、それを上手く表現出来ない不器用な人なのだ。また何かとんでもない事を強要されるんじゃないかと、マリアさんを一瞬でも疑った自分を叱り飛ばしてやりたい気分だ。俺は気合いを入れ直した。

「ありがとうございますマリアさん!今日もビシバシ鍛えて下さい!」

するとマリアさんは、表情を変えずに柵の外を指差した。

「それでは、ここから飛び降りて下さい」

「はい?」

「ここから飛び降りなさい」

「……あのー、ここ三十階建てマンションの屋上なんですが?」

「飛びなさい」

「こ、殺されるーッ!!やっぱり本当は訓練と見せかけて俺を殺すつもりだこの人ー!!」

一瞬でも信じた俺がバカだった。俺は全力ダッシュで出口に向かった。だが、当然の如くマリアさんに取り押さえられた。

「落ち着きなさい」

俺は必死に抵抗したが、マリアさんは万力のような力で俺を締め上げた。マリアさんの豊満ワガママボディが俺に密着してる…なんて事を考える余裕は一切なかった。

「全く、貴方と言う人は…この前、私を信じなさいと言ったばかりでしょう?」

「だ、だって…!スカイ・フラグの訓練なら最初は地上でやればいいでしょ!?いきなりこんな高い所からスタートなんて反則ですよ!おかしいですよ!!インチキだー!!」

「それでは意味がないのです」

「意味が分かりませんよ!」

「アハハ〜!情けないアルな、勝一!」

顔を上げると、伊凛が俺の目の前にしゃがみこんでニヤニヤしていた。

「今回は伊凛にも協力して貰います。貴方が上手く飛べない時は伊凛がキャッチしてくれますので心配ありません」

俺の拘束を解き立ち上がったマリアさんは、そう言って手を差しのべた。そう言う事だったのか、諸々のトラウマのせいで早合点してしまったようだ。俺はホッとしてマリアさんの手を取ろうとした。

「残念だったアルな勝一、マリアのおっぱいさわるチャンスだったのにナー」

ニヤけた伊凛がそう言うと、マリアさんは差しのべていた手を凄まじい早さで引っ込めた。

「マ、マリアさん?俺は何も…」

「ケダモノ」

本日二度目のトラウマ再体験。その辛辣な言葉と視線に、俺の精神は訓練開始前からズタボロになっていた。マリアさんはそんな俺をよそにすたすたと柵に向かって歩き出して行く。その背中を見ながら伊凛が俺に耳打ちした。

「勝一、マリア怒らせると恐いから程々にしてヨ?」

「お前のせいだろーが!」


改めて柵の前に立ってみると、想像以上に高い。一度飛び降りたミューズは十二階建てだったから、単純に考えてその倍以上の高さがあるのだ。足がすくんでまともに下を見れない。

「では、私が手本を見せます」

マリアさんは何の躊躇もなく飛び降りた。

「えっ、ちょっ!マリアさん!?」

一瞬マリアさんが視界から消えたが、すぐに屋上の縁からふわふわと浮遊しながら顔を出した。もちろん分かってはいたが、目の前で人がこんな高い所から飛び降りるのを見ると胆が冷える。

「フラグとはすなわち、欲求の実現力なのです」

マリアさんの長い金色の髪が、強風に煽られて四方になびいている。快晴の空に太陽を背にして飛んでいる彼女の姿は、まるで絵画に描かれている女神のように美しくて、こんな時なのに俺は見入ってしまった。

「そうありたい、という願いが強ければ強い程、その力は高まります。地上や少し高い所で行っても意味がないと言うのはそう言う意味です。それでは、心の底から飛ぶ事を望むのは不可能です」

確かにその通りかも知れない。生身で空を飛ぶなんて、妄想か夢じゃなければ有り得ない話だ。本気で死ぬような目に遭わなければ、そんなバカな事を望もうとは思わないだろう。

「大丈夫だよ勝一!伊凛の胸に飛び込んでこいアル!」

いつの間にかマリアさんの隣で浮いている伊凛。コイツを信じて本当に大丈夫なのだろうか?柵を乗り越え、屋上の縁に立つと否応なしに遥か下にある地上の光景が視界に入る。強風が吹き荒れ、柵を掴んでいなければたちまち転落してしまいそうだ。

「自分は飛べる、飛びたい、そう強く願いなさい」

今更引き返す訳にはいかない。覚悟を決めて、俺はマリアさんの言葉を信じてみる事にした。

「……飛べる、飛べる。飛びたい!俺は飛べる!!マジで飛べる!!……行くぞ!!!」

俺は柵から手を離し、虚空へ足を踏み出した。

俺の視界は重力に引かれ、頭から真っ逆さまに落下して行く。恐怖を抑えながら目を瞑り、呪文のように飛びたいと願い続けた。

「…飛べる飛べる飛びたい俺は飛べる飛べる飛びたい飛びたい飛ばせて下さい…!」

…そ、そろそろ二人のように体が浮き始めただろうか?俺は恐る恐る目を開いてみた。

結果はもちろん、絶賛落下中である。

「…うわぁーーー!やっぱり全っ然飛べねえーーー!落ーちーるーーー!!いりんーーーッッッ!!!」

俺は空中でもがきながら側にいるはずの伊凛に向かって叫んだ。…返事がない。逆さまのまま、ふと上を見ると、遥か上空で伊凛が手を振っているのが見えた。満面の笑顔で。

「伊凛ーーーッッッッッ!!!ふざけんなーーーーーー!!!!!」

段々と地面が近付いてくる。もう死ぬ、確実に死ぬ。そう思った時、俺の頭はなぜかこれまでにない程、冷静になっていた。俺は死ぬ、ならその前に心から願おう。俺は静かに目を瞑り、心から念じた。飛べる、俺は飛びたい。

その瞬間、突然急ブレーキを掛けられたような衝撃を感じた。ゆっくりと目を開くと、眼前に灰色のアスファルトが見えた。手を伸ばせば届きそうな距離だ。だが、俺の体は地面に叩き付けられる事なく、空中でピタリと停止していた。

「…出来た…出来たァ!やったー!飛べたーー!!」

「落ち着きなさい、勝一」

耳元から声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこにはマリアさんの呆れ顔があった。

「……俺、飛べたんじゃないんですか?」

「いいえ、全く。あと少しで死ぬ所でした」

その言葉を聞いた瞬間、俺の全身から冷たい汗が吹き出した。

「コラーーー!!!伊凛ーーー!!!」

俺は上空の伊凛に向けて怒鳴り付けた。伊凛は先程の場所から一切動かず、相変わらず能天気に手を振っている。あのクソガキ、絶対許せん。

「伊凛に頼んだ私が愚かでした。申し訳ありません、勝一」

しおらしく、俺に頭を下げるマリアさん。状況を整理してみると、俺は地面に激突する寸前にマリアさんにキャッチしてもらったようだ。

「…い、いや、マリアさんが謝る事ないですよ!」

俺のその言葉に、マリアさんはニコリと微笑んだ。

「今度こそ、私が必ず受け止めます。もう一度チャレンジしてみましょう」

そう言って、マリアさんはゆっくりと上昇を始めた。今俺は、マリアさんに後ろから抱きかかえられる格好で空を飛んでいる。伊凛のアホのせいで、俺の背中に感じる豊かで柔らかい感触にどうしても意識が行ってしまう。

それに、何だか……俺は大きく息を吸い込んでみた。

「どうしました、勝一?」

「…いや、なんかマリアさんってイイ匂いするなーって思って…」

「なっ…!?」

しまった、と思った時はもう遅かった。急にマリアさんの軌道が乱れ、俺は振り落とされそうになった。すでにかなり上昇しており、落ちれば一巻の終わりだ。

「ちょっマリアさん!?落ちる!落ちる!!」

「お、愚か者っ!死にたいのですかっ!?」

何やらマリアさんの上擦った声が聞こえるが、背中向きなので表情は見えない。しばらくして、マリアさんは落ち着きを取り戻してきたようだ。

「……死ぬかと思った」

「貴方が破廉恥な事を言うからです!全く…!」

どうやら助かったようだ。それにしても、プンプンと怒っているマリアさんの声色が可愛らしくて、俺は思わず頬を掻いた。

「良かったアルなー勝一!マリアのおっぱい気持ちーアルかー!?」

俺とマリアさんは同時に上空を睨み付けた。全部アイツのせいだ、俺は怒りに震えていた。

「伊凛に感謝しろヨー!いちご一箱で手を打つアルー!」

その時、俺の頭には、今すぐ飛び上がってあのクソガキに怒りの鉄槌を下す事だけしか考えられなかった。飛びたい、今すぐ飛んで伊凛に制裁を加えたい。

「…しょ、勝一…貴方…!」

「え?」

マリアさんの驚きの声に振り返ると、俺はいつの間にか空を飛んでいた。マリアさんの手を離れ、自力で。

「お、俺、飛んでる…のか?」

まるで水の上に浮かんでいるかのような浮遊感だった。油断すると上下の感覚がなくなるが、足下に意識を送るとすぐに体勢を保つ事が出来た。

「飛べた…飛べたー!!やったー!!!」

尋常ではない達成感に包まれて、文字通り俺は飛び上がった。風を切る感覚、自由に空を飛び回る開放感、夢のような体験に俺は酔いしれていた。

「ふふふ!伊凛の狙いどーりだったアルな!」

旋回飛行する俺に並んで、伊凛が得意げに声を上げた。

「死に掛ける体験だけじゃ勝一は足りねーアル!マリアのおっぱいの力があって初めて、えっちな勝一はスカイ・フラグを身に付ける事が出来ると伊凛は踏んでたアルよ!」

「…伊凛!お前ってヤツは!」

俺は満面の笑みを浮かべながら、伊凛の頭に全力空手チョップをお見舞いした。

「いってェー!何すんだヨ勝一!?」

「やかましい!お前のお陰で死ぬ所だったんだよこっちは!!」

空中でアホな喧嘩をしていると言うのも妙な感覚だったが、これでもうマリアさんや伊凛の力を借りずに空を飛べる。俺にとっては、それが一番の収穫だった。

「スカイ・フラグを身に付けたぐれーで調子に乗るのは大間違いアルよ勝一!次は伊凛が技を教えてやるアル!」

「おー!上等だ!何でもやってやるよ!」

伊凛の言う通り、俺は大分気が大きくなっているようだ。今なら、何でも出来そうな気がする。

「マリアー!屋上に戻るアルよー!勝一をぎゃふんと言わせるアル!」

伊凛がそう呼び掛けても、マリアさんは反応しない。俺の方を見ながら目を丸くしているだけだった。

「マリアー!?聞いてるアルかー?」

「…え?ああ、はい。分かりました」

何だか、マリアさんの様子が少し変だ。二人は屋上に向かって上昇を始めた。気に掛かるが、俺もその後に続いて飛び上がった。



「…やはりそうだったか」

四方を冷たいコンクリートで打ち付けられた狭く薄暗い部屋。部屋の中には窓は無く、外界とは完全に切り離された場所。FCD本部において唯一、隊長である十田以外の入室が認められていない秘匿空間であった。

「いや、その必要はない。これは我輩が引き受けねばならない事だ」

電波すらも届かないこの部屋で、十田は椅子に深く腰掛け、目を瞑り、まるで誰かと会話しているかのように重い口を開いた。

「エデンの思惑は分かっている。だが、我輩はこの運命を受け入れる事だけは出来ぬ。まだ必要なのだ、時間が。後少し、僅かな時間が」

部屋の中には、簡素なテーブルと古びた籐椅子があるだけで、他にはただ一つの家具も無い。

「そうだ。その時こそ償える。我輩の罪を、償いきれぬ、大きな罪を」

テーブルの上には、幾つかの写真立てが乗っていた。埃だらけの室内で、テーブルの上とその写真立てだけは毎日磨かれているかのように綺麗だった。十田は、その内の一つを手に取る。写真に収まっているのは、今よりも若い頃の自分と、あどけない笑顔で笑う金髪碧眼の幼い少女であった。

十田は愛おしげな表情でその写真を眺めて呟いた。

「そう…もうすぐだ」



「いいカー、良く見てろヨー」

そう言って伊凛が右手を振り上げると、その小さな掌からパリパリと青白い電流が発生した。

「これって確か、フラグ・ライトニングだったか?」

「そーだヨ。これやってみろアル」

伊凛は何やら意地の悪い笑みを浮かべて白い歯を見せた。

「伊凛、貴女…」

マリアさんが何かを言い掛けたが、伊凛がそれを制した。

「まーまー、ここは伊凛に任せてヨ」

俺に向き直ると、またニヤリと笑った。一体何なんだ?

「イイか?コツは、掌に意識を集中して電気が発生するイメージをする事アル」

「電気が発生するイメージなんて分からないけど…」

「ツベコベ言わずにやるアル」

伊凛はジロリと俺を睨み付けた。仕方がない、やるだけやってみるか。

「むふふふー、まあ気長にやるアルねー!何年かかるか分かんねーケド…」

すると、真上にかざした俺の掌から、静電気が凝縮したような電流が現れた。掌が熱くなる感覚はあるが、感電しているような痛みはない。

「あ、何か出た。なあ、これって…」

そう言って伊凛を見ると、先程までニヤけていた彼女の目が点になっていた。

「…ど、どうやってやったアル?」

「え?いや、良く分からんけど、掌の上でセーターを思いっきり擦り合わせるイメージしてたら出て来たって感じかな。これって成功なのか?」

「勝一…貴方…」

良く見ると、マリアさんも呆気に取られた表情で俺を見ていた。

「スゲーーー!!!やっぱりスゲーヨ勝一ワーーー!!」

突然、伊凛が俺に飛び付いて来た。俺は伊凛に押し倒されて仰向けに引っくり返った。

「痛!急に何すんだ!?」

「天才だヨ!勝一は天才アル!」

「何言ってんだよ?フラグ・ライトニングなんて初歩の初歩の技なんだろ?出来て当たり前じゃんか」

俺がそう言うと、伊凛は一瞬考え込み、何か思いついたようにマリアさんの方に振り返った。

「マリア!そんな意地悪言ったアルか!?」

その言葉にマリアさんは慌てた様子で顔を背けた。伊凛は大きなため息をついた。

「…あのナー、マリアは意地悪なんだヨ。マリアが簡単なんて言う技は基本的に超高等技術アル。治癒フラグにスカイ・フラグ、このフラグ・ライトニングだって、普通なら何年も修行してやっと身に付ける技アルよ」

「そうなのか?」

「そりゃそーヨ。超天才フラグ・クラッシャー伊凛ですら、フラグ・ライトニングを使えるよーになったのは修行始めて丸二年経ってからヨ。まだマリアみてーに形状変化は出来ねーけどネ」

『超天才』と言うワードはスルーするとして。形状変化と言うと、ミューズの屋上でマリアさんがガラスを切るために、フラグ・ライトニングを剣のような形に変えたあの事を指すのだろう。

「でも、流石のマリアもまだ丸くするのは出来ねーけどヨ。あんなの出来るのは世界広しと言えど、隊長ぐれーじゃないカナ?」

「そんなに難しいのか?」

「難しいなんてモンじゃねーアル!ただでさえ不規則ででっかいエネルギーを持ってる電流を集約して円形にするなんて、尋常じゃないフラグ力と実現力がいるヨ」

あの隊長って、そんなにすごい人だったのか。面倒見の良い、ただの変態としか思っていなかったが。そう言えば最近姿を見てないが、どこかに出掛けているのだろうか。

「とにかく!」

伊凛はそう叫ぶと、再び俺に抱き付いた。

「勝一は天才だヨ!天才的なフラグ力と実現力の持ち主アル!」

良く分からないが、どうやら俺は結構すごいらしい。全然実感とかないけど。

すると、マリアさんが咳払いを一つした。

「そのフラグ力と実現力を応用して、敵の侵入や攻撃を防ぐ《フラグ・バリア》や、フラグ力を高め放出する《フラグ・バスター》など、熟練のフラグ・クラッシャーには多くの特殊技能があります」

マリアさんは何事もなかったかのように解説を始めたが、顔を赤らめている辺り、少しは俺に嘘を付いていた事を反省しているのだろうか?

「…あのネ、勝一…」

顔を上げると、俺に跨っている伊凛が何やらもじもじとしている。いつもの伊凛とどこか様子が違う。

「その…お願いがアルんだけど…」

「うん?なんだ、お願いって?」

俺の問い掛けに伊凛は暫く俯き黙っていたが、やがて小さな声で呟いた。

「…あのネ…勝一の事、『お兄ちゃん』って呼んでも良いアルか…?」

伊凛は俺から目を背けたまま、顔を真っ赤にしてそう言った。俺の上着を強く握り締め、その声は少し震えていた。伊凛のその言葉に、なぜかマリアさんの顔が少し強張ったのが目の端に入った。

「ダメ…アルか…?」

今にも泣き出しそうな顔で、俺にそう問い掛ける伊凛。コイツにこんな顔をされたら、断る事なんて出来るはずがない。俺は体を起こして彼女の頭をなでた。

「良いよ。伊凛がそう呼びたいなら」

すると、伊凛はパアッと明るい表情になって、俺の首に抱き付いた。

「嬉しいアル!!謝謝!お兄ちゃん!」

「ッ!!」

予想以上の衝撃があった。

「…ゴメン伊凛、もう一回呼んでみてくれるか…?」

「お兄ちゃん大好きアル!」

ああ!なんだこれ?すごく良い!なんか変な気持ちになる…!伊凛は性格に難ありとは言え、曲がりなりにも美少女である。そんな子に『お兄ちゃん』と呼ばれたら、どんな男だって舞い上がるだろう…って、何を考えてるんだ俺は!伊凛はいもう…いやいや!どっちかって言うと弟みたいなもんじゃないか…それなのに俺ってヤツは!

俺は湧き上がる邪念を振り払うため、大きくかぶりを振った。


―おにいちゃん


…まただ。また『アレ』だ。

俺の左胸にのし掛かる影が、日に日に大きくなっていくのを感じる。

「…どうしたアル、お兄ちゃん?」

伊凛が、心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでいた。伊凛を不安にさせる訳にはいかない。俺は無理やり笑顔を作ってもう一度彼女の頭をなでた。伊凛は嬉しそうに俺の掌に頭を押し付けて来た。

「心配ないよ。それより伊凛、そろそろ夕飯の支度をしなきゃな。今日はお前が当番だろ?」

「あ!やっベー!忘れてたアル!」

伊凛は飛び上がると、俺とマリアさんに向かって興奮気味にまくし立てた。

「今日は伊凛の腕によりをかけてご馳走作っちゃうアル!楽しみにしててヨー!マリア!…お兄ちゃんっ!」

笑顔で輝かせた顔でそう言うと、慌ただしく出口に向かい駆け出して行った。

走り行く伊凛の背中を見ながら、俺は小さく呟いてみた。

「…お兄ちゃん、か…」

暮れなずむ夕日が、茜色に空を染めて行く。なぜだか、胸が切なくて、苦しかった。

「勝一」

振り返ると、マリアさんが俺を見据えていた。怒っているような、悲しんでいるような、そんな目をしていた。

「もし、伊凛を泣かせるような真似をしたら、私は貴方を許さない」

「え?」

「伊凛は確かに強力なフラグ・クラッシャーですが、まだ子供です。幼い頃に両親に捨てられたあの子は、私や隊長と出会うまでたった一人で生きて来た。泥水をすすり、何度も死線を彷徨って、それでもあの子は笑っている。…本当に強くて、健気な子」

マリアさんは、初めて出会った時の、いや、それ以上に冷たく厳しい目で俺を見ていた。だけど俺は、マリアさんから目を逸らさなかった。逸らしてはいけないと思った。

「そんなあの子を裏切るような真似をすれば、私は貴方を殺します」

氷のように冷たい視線。青い瞳の奥に光る輝き。彼女がこの目を見せた時、この人の言葉に嘘や誇張は有り得ない。その時は、躊躇なく俺を殺すだろう。

「……ぷっ、ははは!」

「…な!何が可笑しいのです!?」

「だって…ははは!」

この人は、本当に。

「…マリアさん、怖い顔して優しい事言うから、つい」

なんて不器用で、優しい人なんだろう。

「マリアさんは、優しい人ですよ。あの時も本当は、俺の事ずっと守ってくれていたんでしょ?」

「…何の事です?」

「《貴方に止めを刺すのは私の仕事です》」

「……」

「これって、《ライバルフラグ》って言うんですよね?俺は最初、言葉通りに受け取っちゃったけど、本当の意味は違う。相手の言葉をそのまま受け取っちゃダメなんです」


『あのねぇしょーいち、相手の言葉をそのまんま受け取っちゃダメなんだよ?ライバルは、ほんとーは主人公の事が大好きなんだけど、素直になれないから『殺す』って言っちゃうの』『そうそう、その台詞を翻訳すると『お前がいなくなったら嫌だから、死なないでくれ』って意味なんだよ』


千川原と沢木の言葉、あの時は良く分からなかったけど、今なら分かる。マリアさんは自らのフラグ力を消費して俺にフラグを立ててくれていたんだ。俺を、守るために。

「マリアさんはこのライバルフラグを俺に立てる事で、あなた以外の人や出来事では、俺が傷付かないようにしてくれていた。違いますか?」

あの日、俺とあの少女が奇跡的に生還出来たのは、きっとマリアさんの立てたフラグが俺達を守ってくれていたからだ。今なら確信を持ってそう言える。

マリアさんは、何も答えなかった。ただ、拳を握り締め、唇を固く結んで俺を睨んでいた。いつの間にか強風は治まり、夕日が俺たちの影法師を作っていた。

「でも、さっきの言葉は本気だった」

マリアさんの瞳が、一瞬揺らいだ。彼女は何かを言おうと口を開いたが、俺から目を逸らして唇を噛み締めていた。

「マリアさんは、本当に伊凛の事が大好きなんですね」

「そ、そんな事は一言も…!」

その言葉に、マリアさんは声を上げた。その顔が赤く染まっているのは、夕日のせいばかりではないだろう。

「俺、伊凛から聞きました。昔、アイツにはお兄ちゃんのように慕っていた人がいたって」

「……」

マリアさんは複雑な表情で顔を伏せた。先程の事といい、何か事情がありそうだ。

だけど、そんな事は関係ない。

「その人がどんな人だったのかは知りません。だけど、安心して下さい。伊凛を悲しませるような事は絶対にしませんよ、俺」

俺がそう言うと、マリアさんは一瞬顔を上げて俺の目を見て、またすぐにそっぽを見いてしまった。

「……そ、それならば、良いのです」

その様子が何だかおかしくて、俺はまた笑い出してしまった。そんな俺を憮然とした顔で見ていたマリアさんも、いつの間にかつられて微笑みを浮かべた。その笑顔を見ていたら、またつい、俺の悪い癖が出てしまった。

「そう言えば、マリアさんって好きな人とかいないんですか?」

「…な!?何を言い出すのですか唐突に!?」

俺の突然の質問に、マリアさんは顔を赤くして目を見開かせた。俺はもういっそ、開き直る事にした。

「気になった事はすぐ口に出ちゃうんですよ、俺。マリアさん、綺麗だし、恋愛とかした事あるのかなって」

「…答える義務はありません。第一!何故貴方がその…私の恋愛事情を気にするのですか?…はっ、まさか貴方……!?」

そう言うとマリアさんは顔を赤らめ身をよじって俺を睨んだ。

「私に…れ、恋愛フラグを立てるつもりじゃないでしょうね!?」

「いや、ただ何となくですけど」

「……そうですか」

するとマリアさんは目を細めて、明らかに不機嫌な様子で腕を組んだ。

「私は人々の命と幸せを守るための戦士です。恋愛などにうつつを抜かす暇はありません。これで宜しいですか?満足ですか?」

「…なんで怒ってるんですか、マリアさん?」

「勝一、貴方には確かにフラグ・クラッシャーの素質があるようですね。それがよーく分かりました」

そう言ってニッコリと微笑んだ。背筋の凍るような悪寒を感じる。

「明日からは今以上に厳しくしますので、そのつもりで」

「…笑顔が怖いです、マリアさん…」



私は、戦士だ。

人々の命と幸せを守る戦士だ。


そう決意してから、こんな風に鏡の前に立つ事はしなくなった。化粧など一度もした事がない。戦士にとって、外見を着飾る必要など皆無だからだ。

だけれども、私は今こうして鏡の前に立って、自分の顔を眺めている。それは言わずもがな、全部あの人のせいだ。

今日は、本当に驚きの連続だった。私は、ゆっくりと時間を掛けて、あの人を一人前のフラグ・クラッシャーに育て上げるつもりだった。だが、あの人はスカイ・フラグもフラグ・ライトニングも、たった一日で習得してしまった。人生の殆どをフラグ・クラッシャーの訓練に捧げた私でさえ、あれらの技を手に入れるのには多くの時間と血の滲む訓練が必要だった。

それなのにあの人は、たった一日でその技術を手に入れてしまった。元々才能があったのかも知れない。思えば、あの人は基礎訓練もあっという間に修了してしまったし、本来持っている基礎体力も申し分無い。フラグ建築士としても底知れぬフラグ量を内在している人だ。それにしても、余りにも驚異的な速度で成長している。

正直に言えば、悔しかった。本当は地団駄を踏んで叫び出したいくらい悔しかった。私の今までの努力や苦労が、全て否定されたような気がしたからだ。

…だけれども、それ以上に私は、目を奪われてしまった。

瞬く間に成長していく彼に。

技を習得して喜ぶ彼の笑顔に。

伊凛を見つめる彼の優しい瞳に。

いつの間にか、目が離せなくなっていた。それに気がついてからは、彼と目が合う度に動悸が激しくなり、まともに彼の顔を見る事が出来なくなってしまった。全部、あの人のせいだ。


鏡の中を覗き込んでみる。そこには眉間にシワを寄せた、不機嫌な表情を浮かべている女が映っている。いかにもつまらなそうな、嫌な女の顔だ。

…あの人は、本当に変わった人だ。こんな女を『綺麗』だと言った。化粧気もなく、汗にまみれて訓練に没頭し、身体中に筋肉が付いてごつごつと固くなっているようなこんな女を。

分かっている。あの人はフラグ建築士、無意識にそんな言葉を使って異性を喜ばせるのには慣れているのだろう。あの人の周りには、同じ年頃の女の子が沢山いるはずだ。こんなつまらない女ではなく、可愛く化粧をして、休日にはお洒落な洋服を着て出掛ける、キラキラと輝いた女の子達が。

分かっている。そんな事は分かっている。それでも……

嬉しかった。

もし、もしも私が、例えば彼のクラスメートのように、化粧をして、お洒落な洋服を着ているのを見たら、彼は何と言うのだろう?

…もしかしたらもう一度、『綺麗』だと言ってくれるのかも知れない。そんな事を考えていると、鏡の中の口元が、思わず綻んでしまう。


―キモチワルイ


耳元で囁く声が聞こえる。

…ああ、私は何て愚かな女なのだろう。あの人がそんな事を言ってくれる筈はない。

あの人だけじゃない。これを見たら、誰だってそうに決まっている。こんな女を『綺麗』だなんて言えるはずがない。

もう、大丈夫だと思っていたのに…

シャワーの音だけが虚しく響く空間で、私は身動きが取れなくなってしまった―



俺は、満腹になった腹を抱えながら、長い廊下を歩いていた。伊凛の腕によりを掛けたご馳走はとてつもなく美味だったのだが、量の方もとてつもなかった。だが、あんなにニコニコと料理を出されたら、残すに残せない。俺は胃袋の限界まで伊凛の料理を堪能した。

マリアさんはいつも通り、食事を終えた後、シャワーを浴びに行った。どことなく元気がなかったような気がするのだが、大丈夫だろうか?

俺は、暇さえあればFCD本部の中を歩き回る事を日課にしていた。施設内の説明はマリアさんから一通り受けたのだが、やはり自分の目で確かめておきたいからだ。それに、この建物の中は秘密基地のようになっており、ちょっとした冒険気分を味わえて中々面白かった。

俺が今いるのは、大浴場の前だ。シャワールームは各階に設置されているのだが、この大浴場は十階から十二階までの天井をぶち抜いた作りになっており、下手な銭湯よりも大きく、湯種も豊富だった。一体、これらの工事費や維持費はどこから出ているのだろうか?

この大浴場には男女の仕切りがないため鉄の掟がある。午前六時から午後二十二時までが女湯、それ以外が男湯になると言うルールだ。言ってしまえばほぼ女湯である。明らかに不公平な時間配分だが、ここではそれが当たり前なのだ。文句など絶対に言えない。それに、この大浴場を利用するのはほとんどマリアさんだけだった。

一度、ルールを知らずに入ろうとしたら、マリアさんと鉢合わせた事があった。その時はまだ服を着ているときだったから半殺しで済んだが、次は命を貰うと脅された俺は、それからここに来る事を意識的に避けていた。今は午後八時、丁度マリアさんが利用している時間だろう。

「おや、勝一君?どうしたのだね、こんな時間にこんな所で」

背後からの声に振り返ると、ニカリと頬笑む十田隊長が立っていた。ミューズ事件以来、随分久し振りに会った気がする。

「隊長、アンタ今までどこ行ってたんだ?全然見掛けなかったけど」

「野暮用を片付けていたのさ。それより、君の方こそ何をしているんだね?今の時間、大浴場はマリア君が利用している筈だが?」

「ただの散歩だよ」

「はっはっは!大丈夫だ。同じ男同士、隠さずとも分かる」

隊長は豪快に笑って馴れ馴れしく俺の肩を抱くと、そっと耳打ちしてきた。

「浴場の隣の物置に我輩が空けた特製のノゾキ穴がある。今ならマリア君の入浴シーンがバッチリ見えるぞ」

「ノゾキじゃねーよ!断じて違う!」

このおっさんは相変わらずのようだ。俺は呆れてため息をついた。隊長は暫く大口を開けて笑っていたが、やがて目を細めて俺を見た。

「勝一君。時間があるなら、一つ昔話に付き合って貰えないだろうか?」

「昔話?」

「なに、時間は取らせんよ」

そう言うと、大浴場の入口の脇に設けられたソファーに腰掛け、俺を促した。隊長は少しの間、虚空を見つめていたが、やがて訥々と語り始めた。

「…今から十五年前、我々フラグ・クラッシャーが隆盛を極め、世界の平和に寄与していたと思い上がっていた頃の話だ」

辺りは静まり返り、空調の僅かな稼働音が聞こえるのみだった。

「そもそも、我々FCとFPは同じ組織だったのだ。同じ正義を持ち、同じ思想の下に戦っていた。かつての東西冷戦時、各国政府は武力、経済、技術競争において他国より優位に立つため、フラグ・クラッシャーの力を利用した。冷戦終結の影には、我々フラグ・クラッシャーの暗躍があったのだ」

隊長が話す内容は、教科書やテレビでは見た事も聞いた事もない、突拍子のないものだった。しかし、この人達の力を実際に見て、実際に体験した俺には、疑う余地はなかった。

「冷戦終結後、急速に力を持った組織は二つの思想に別れた。これまで通り、目の前の人々を救っていこうと言う保守派、積極的に政治に関与し、国家レベルでフラグを行使し世界を動かそうと言う改革派。最初はほんの小さな争いだった」

隊長が言葉を切ると、温風を吐き出す空調の音がやけに耳を突く。俺は、隊長の話にすっかり聞き入っていた。

「…しかし、改革派の一人が、自らの強力なフラグ力を背景に実権を握り、保守派の粛清を断行した。不意を突かれた保守派は瞬く間に壊滅し、生き残った者達は地下に潜った。彼ら改革派はその後、フラグ・パニッシャーと名乗り、我々保守派を殲滅すると宣言した。それがFPの起源だ」

対FC暗殺組織フラグ・パニッシャー。二週間前、俺と隊長を襲ってきたキャリコはその組織に属していると言っていた。ヤツの狙いは、隊長の命とFCDの壊滅、つまりマリアさんや伊凛の命をも狙っていると言う事だ。俺は静かに、拳を握り固めた。

「当然、我々保守派は彼等に反撃した。しかし、もはや改革派に対抗し得る力はなく、我々は無謀な対抗手段に出た。それが……」

そう言うと、不意に隊長は目を伏せた。俺には思い当たる事があった。強大で圧倒的多数の敵に、微力な力で対抗する手段。俺の脳内に、けたたましいクラクションの音が響き渡った。

「…フラグ・テロ」

俺がそう呟くと、隊長は静かに頷いた。

「そうだ。保守派は強大になった改革派に対抗するため、改革派に対してフラグテロを行った。…そしてそれは我々が守るはずだった、罪無き無辜の人々をも犠牲にした」

隊長が拳を握り締める。無数の傷跡が残る、大きな手だった。

「十五年前のあの日、我輩はモスクワに潜伏し、決行の時を待った。仲間達が次々と倒れ、人々の悲鳴が轟くとある街中で、我輩は両親の亡骸の傍らで泣き叫ぶ、一人の赤ん坊に出会ったのだ。その赤ん坊こそが、マリア君だ」

胸に、鋭い何かが突き刺さった感覚がした。

「気付いた時には、我輩は彼女と共に海を渡っていた。仲間も、正義も、自らの罪も置き去りにして、な」

辺りが静まり返った。空調の音も耳に入らない程、俺の心は乱れていた。マリアさんは、生まれて間もなく両親を失った。恐らく、両親の顔すら覚えてはいないだろう。

…マリアさんは知っているのだろうか?その原因が、自らが所属する組織の隊長が関わったテロによるものだと。怒りなのか、戸惑いなのか、良く分からない感情が俺の胸に渦巻いていた。

「言い訳はしまい。我輩は大罪人、生涯を掛けても償う事は出来ん」

俺は昂る感情が抑えつけながら、やっとの思いで口を開いた。

「…その事、マリアさんは?」

隊長は俺に目を向けると、深く頷いた。

「マリア君は全てを知っている。全てを知って尚、我輩に付いて来てくれている」

そう言うと、隊長は俺に問い掛けた。

「何故だと思う?」

その真っ直ぐな瞳は、どこかマリアさんのそれに似ていた。俺は混乱する頭で考えた。

マリアさんは、FCの過去の過ちによって全てを失い、その当事者の一人である隊長の元で育てられた。そして全てを知った上で、自らフラグ・クラッシャーとなる事を選んだ。過酷な訓練を強いられ、時に命を落としかねない危険な任務をも遂行しなければならない険しい道を、あえて彼女は選んだのだ。

…分からない。俺には分からなかった。なぜマリアさんがその道を選んだのか、その理由が。俺なら、例えそれが運命だと言われても、到底受け入れる事は出来ないだろう。

俺は小さく首を振った。すると隊長は深く息を吸い込み、ハッキリと言った。

「それが、彼女が自ら決めた『使命』だからだ、勝一君」

「…使命?」

「『目の前の人々を救う』マリア君も、そして伊凛君も、その使命を貫くために命を懸けているのだ」


『私はフラグ・クラッシャー。目の前の人々を救う、それが私の使命だからです』


燃え盛る炎の中、傷を負った体でマリアさんはこう言った。自分の身を顧みずに、誰かのために命を懸けて。

あの時の記憶が、甦ってくる。

「……そんなに大事なのかよ?」

段々と迫り来る、灼熱の炎。

「……そんなに大事な事なのかよ?」

誰かの、助けを求める声。

「……使命ってのが、そんなに大事な事なのかよ…」

俺に、助けを求める声。

「使命ってのは、命を懸ける程大事なものなのかよ!?」

俺は、大声で叫んだ。もう、沸き上がる感情を抑えきれなかった。心臓の鼓動が早くなり、手が震え、息が苦しい。

隊長はただ俺の事を見つめていたが、暫くして口を開いた。

「肯定して欲しいとは言わん。しかし、理解して欲しいのだ。流されるまま運命に身を委ねる事と、自ら覚悟を決め運命を切り開く事は、全く意味が違うのだと」

「…運命を、切り開く事…?」

隊長は頷いた。そして俺から目を逸らさず、彼は言った。

「君にこんな話をしたのは、君ならば分かってくれると思ったからだ、勝一君。五年前の世界同時テロ、そこで大切な者を失う痛みを知った君ならば」

その言葉に、俺は思わず目を見開いた。隊長は変わらず、俺の目を見ている。

「……知ってたのか」

「政府関係者に知り合いが多くてね。それにあの時、我輩もあの場にいた」

そう言うと、隊長はおもむろに俺に向かって頭を下げた。

「君には済まない事をした。我輩を許して欲しい」

「隊長が謝る事じゃないよ。あれは……」

そこまで口にして、俺は言葉に詰まった。すると、隊長が俺の肩にそっと手を置いた。

「勝一君、我輩が君にフラグ・クラッシャーになれと言ったのは、もちろん君を苦しめるためでは無い。君には素質がある。強く、優しい戦士になれる素質が。そして…」

隊長はニカリと頬笑む。その手は、ずしりと重くて、温かかった。

「これは《フラグ》だ。勝一君」

「フラグ?」

「そう、フラグだ」

隊長は力強く頷いた。

「これは我輩から君に送る、大きなフラグだ。これを回収するのは骨が折れるだろうが、君ならば必ず、回収してくれると信じている。このフラグはきっと、君自身をも救ってくれるはずだ」

隊長はまたニカリと微笑んだ。この人の笑顔はどこか、人を元気付ける力があるような気がした。

「さてと…」

一つ伸びをして、隊長は立ち上がった。

「後は君が決める事だ、勝一君。我輩は止めはしない。ただし…」

そう言うと、片目をつむってウィンクした。

「ノゾキは程々にしたまえ、若者よ」

「…だからノゾキじゃねーよ」

俺が呆れてそう言うと、大口を開けて笑いながら隊長は去って行った。再び、静寂が戻ってくる。俺は大浴場前に備え付けられている時計を仰ぎ見た。まだ眠るには早過ぎる。

…キャリコが戦いを仕掛けてくるまで、後、二週間ある。例え鼠の手だろうと、鍛えれば少しは皆の役に立てるだろう。

俺は頬を一度二度叩き、トレーニングルームに向かった。



「こりゃあ、参ったなぁ」

無数のサイレンが鳴り響く中、老人はすっかり真っ白になった頭を掻きながらボヤいた。

「一体、何なんですかね…これ」

傍らに控える若い女性は、『それ』を凝視しながら言った。老人は頭を掻きながら苦笑する。

「さあてね、俺っちにも分からんなぁ。まあ、怪我人は出てないみたいだからなぁ、一般人には」

「一般人には?」

「まあ、良く分からんって事さ」

すると、彼等の後ろから複数の警官が慌ただしくやって来た。

「源さん、鑑識の結果出ました」

「おう、ご苦労さん。で、どうだった?」

「…それが、妙なんですよ」

中年の警官は、そう言って首を傾げた。

「爆薬が使用された形跡はないし、原因がなんなのか、まるで見当がつかないそうですわ」

「まあ、そうだろうな」

老人は、足下のすぐ側に穿たれた大穴を眺めた。

「…本当に何なんですかね?この大穴。でかいもので直径五十メートル、深さもかなりあるそうですよ」

若い女性は、恐る恐るその大穴を覗き込んだ。クレーターのような大穴の底は真っ黒に焼き焦げていて、僅かに黒煙を上げている。

「鑑識の話だと、まるで複数の巨大な雷の塊が落っこちたようだって話でした。全く漫画ですわ、そんな与太話」

そう言うと、先程から大穴を興味深そうに眺めていた若い男性警官がノンビリとした声を上げた。

「もしかして、でっかい怪獣が食後に軽くトレーニングでもしたんじゃないですか?ほらこう、口から電撃吐いて」

それを聞いた中年警官は、彼の頭をぱしりと小突いた。

「馬鹿野郎、お前は漫画とアニメの見過ぎだ。そんな事、ある訳ねーだろ」

「怪獣の食後のトレーニング、ねぇ」

老人は、辺りを一望して呟いた。

「良い線突いてるかも知れねぇな、それ」

「…源さん?」

跡形も無く消え去った廃工場跡地に突如として現れた、複数の巨大な大穴。北風が強く吹き荒れる荒野に、源老人の呟きは呑み込まれていった。



「痛っ…!ちょっと調子に乗りすぎたな…」

俺は痛む体を引き摺りながら、深夜の廊下を歩いていた。時計の短針は、丁度真上を指している。隊長の話を聞いてから気合いを入れ直した俺は、トレーニングルームで習得したばかりの技を少しでも上達させようと自主練をした。

スカイ・フラグもフラグ・ライトニングも、一度コツを覚えれば容易く発動出来たが、完全にコントロールするのにはやはりまだ時間が掛かりそうだ。

まだ皆のように早くは飛べないし、マリアさんのような形状変化も試行錯誤の結果少しだけ形が変わった程度だった。だけど、自分なりにフラグ力の使い方が身に付いて来たような気がする。

フラグ力と実現力は、俺の精神状態に深く関係しているらしい。例えば、治癒フラグは便利だが、多用するとフラグ力を大量に消費し、精神力に影響が出る。例えるなら、疲れが全く抜けない寝起きの朝、と言った感じだろうか。傷は治っても、集中力が途切れ注意力も散漫になる。それは、マリアさんの地獄の基礎訓練で良く学んだ。精神力が減れば、フラグ力だけでなく体力も消耗される。だから、フラグ力の使い所はよくよく考えなければならない。

ボロボロの体を引きずって辿り着いたのは、先程の大浴場だった。傷付いた体と心を同時に癒すには、温泉に浸かるのが一番だ。ここの薬湯は香りも良く、痛め付けられた心身を回復させるには持ってこいな場所なのだ。

この時間はとっくに男湯の時間だ。ゆっくりとお湯に浸かって明日に備えよう。脱衣場で服を脱いだ俺は、タオルを片手に浴場のドアを開いた。湯気が立ち込める浴場内に、シャワーの音が響いていた。隊長が入っているのだろうか?すると、湯気の合間から人影が見えた。やはり、隊長が先に利用していたようだ。

「隊長、どうしたんだ?こんな時間…に……?」

立ち込める湯気から現れたのは、隊長ではなかった。そこにあったのは真っ白に透き通る肌、スラリと伸びた手足、いつもは束ねている髪を下ろし、一糸纏わぬ姿で立ち尽くしているマリアさんの姿であった。

「え!?ひゃあ!?え?マ、マ、マ、マリアさん!?なんでこんな時間に〜!?」

上擦って変な声が出た。マリアさんは俺に背を向けたまま、微動だにせず佇んでいた。濡れそぼった、腰まで伸びた彼女の金髪から、水滴がポタポタと零れ落ちている。俺は凄まじい速度で回れ右した。このままでは間違いなく殺される。

「し、し、失礼しました!!」

「お待ちなさい!」

マリアさんの一喝に、俺は硬直してしまったように動けなくなった。…終わった。短い俺の人生は今、終わりを告げた。

シャワーの吹き出る音が響く。マリアさんは、怒鳴り付けるでもなく、俺を呼び止めたまま何も言わなかった。

「…あ、あの、マリアさん?」

俺は後ろを見ないようにして、彼女に呼び掛けてみた。返事はなかった。それ程怒っているのだろうか?そもそもなんで、こんな時間にマリアさんがここにいるんだろうか?

「……勝一、貴方に見て貰いたいものがあります」

ようやく口を開いたマリアさんの言葉に、俺の心臓は早鐘を全力で打ち始めた。

こ、こ、こ、この展開は、まさか……!?

俺は恐怖と期待の入り交じった心持ちで振り返った。マリアさんの透き通るような柔肌が目に入る。彼女は、徐にその長く美しい髪を肩に掛けた。髪で隠れていた彼女の背中が露になる。

「…あ、それは…」

そこにあったのは、肩から腰の方にまで曲線を描くように刻まれた、大きな古傷であった。何か巨大な物で切り付けられた跡のような、痛々しい跡だった。

「やはり、見たのですね。あの時」

マリアさんが口を開いた。その口調からは、彼女の心情を窺い知る事は出来なかった。

そうだ、俺は確かに見た。マリアさんが俺を庇って切り付けられたあの時、その一端を。

「醜いでしょう?」

マリアさんは平然とした調子でそう言った。

「これは五年前、とあるデパートで負った傷です」

シャワーが床を叩き付ける。温かいはずの湯気が冷たくなっていく気がした。

「世界同時テロ、日本で狙われたのは開店したばかりの当時最大級と言われたデパートでした。FPと思われる複数の人間が立てた死亡フラグによって、デパートは全焼しました。しかし、奇跡的に客や従業員に死亡者は出ませんでした。それは、隊長と私が逃げ遅れた人々の救出に尽力したからです」

マリアさんの声は大浴場の壁に反響して、エコーでも掛かっているかのように響いて、まるで別人の声に聞こえた。

「私は隊長と別行動をとり、人々の救護に当たりました。その時、突然天井が崩れ私と同じ年頃の子供が下敷きになりそうになった所を庇い、この傷を負ったのです」

俺は、マリアさんの話をただ聞いていた。彼女は一切俺の方を見ようとしなかった。

「すぐに治癒フラグを使えば、傷は残らなかったかも知れません。しかしそれでは救護に支障を来す可能性がありました。私は痛みを堪えて無我夢中で任務を続行しました。気付いた時には、FCD本部の救護室にいたのです。隊長が悲しそうな顔で何度も私に頭を下げていたのを覚えています」

淡々と語るマリアさんは、今どんな表情をしているのだろうか。こちらから全く分からない。突然、マリアさんが笑い声を上げた。今まで聞いた事のない、マリアさんの声だった。

「…勝一。貴方は私を綺麗だと言いましたね。これを見ても、貴方は同じ事を言えますか。こんなに醜い、汚らわしい傷を負った女を」

俺には、なんと答えれば良いのか見当もつかなかった。マリアさんは、俺にこの傷を見せて一体どうしたいのだろうか。

ふと、俺の脳裏に、初めてこの傷を見た時にマリアさんが見せた怯えた目が浮かび上がってきた。マリアさんは、きっとこの傷を誰にも見られたくなかったのだと思う。けれど、今彼女は俺にその傷を晒している。彼女は一体何を望んでいるのだろう。

気付いた時には、俺は彼女に歩み寄っていた。そっと、その背中に触れてみる。触れた瞬間、マリアさんは一瞬身を固くしたが、俺を咎めようとはしなかった。

マリアさんの背中は意外な程小さかったが、鍛え込まれて固く引き締まっている。肌には瑞々しい弾力があり、絹のように滑らかだった。

古傷は近くで見ると深く抉られたような窪みになっていて、その箇所は他の真っ白い肌とは違い、赤みがかっていた。触ってみるとツルツルとした感触があった。

初めて触れる、女性の肌。しかし俺には、緊張感とか、嫌がられたらどうしようとか、そんな気持ちは一切なかった。

俺はただ一心に、こう思った。

「綺麗だ」

その言葉に、固まっていたマリアさんの肩が小刻みに震え始めた。

「……嘘よ!」

マリアさんは肩を震わせて大声で叫んだ。

「…嘘、嘘、嘘!この大嘘つき!!貴方は一体どこまで私を惑わせれば気が済むの!?」

語気を強めて、マリアさんは俺をなじった。悲痛な叫びだった。

「貴方のせいよ!全部貴方のせいなの!私は戦士なのに……もう大丈夫だと思っていたのに!!貴方があんな嘘をつくから…!私は…私は…」

その後はもう、言葉にはならなかった。マリアさんは慟哭を上げて、激しく肩を震わせた。その背中は、とても華奢で弱々しくて、今にも壊れてしまいそうだった。

俺には、なんと答えれば良いのかなんて分からない。だけど、この言葉だけは伝えなければいけないと思った。

「嘘なんかじゃありません。だってこれは、『証』じゃないですか」

「……証?」

マリアさんはか細い声でそう言った。彼女には見えないだろうが、俺はそっと頷いた。

「これは、他の誰かのために、身を呈して命を懸けたマリアさんの、『優しさの証』じゃないですか。だから、すごく綺麗です」


シャワーの音が俺達を包む。俺はマリアさんの傷に触れながら、それ以外の言葉を探せずにいた。

この人は、本当に不器用で優しい人だ。例え自分が傷付いても、誰かを責めたり憎んだりもせず、全て自分の背中に背負い込んでしまう人なんだ。そう思うと、彼女の背中が堪らなく愛おしく見えて、胸が苦しかった。

「……昔、隊長に近所の市民プールに連れて行って貰った事がありました」

マリアさんが小さな声で口を開いた。

「以前そこを通り掛かった時に、私と同い年くらいの子供達が楽しそうに遊んでいるのを見て、羨ましく思ったのです」

呟くように語るマリアさんの一言一言が、俺の胸に突き刺さってくる。

「私はそれまで一度も、隊長に何かをねだったり、どこかに連れて行って欲しいと頼んだ事はありませんでした。頼み方が分からず、おどおどしながらプールに連れて行って欲しいと切り出した私に、隊長は満面の笑顔で快諾してくれました」

脳裏に、しどろもどろになりながらお願い事をする幼いマリアさんと、それを嬉しそうに見つめる隊長の顔が浮かんだ。

「その日の晩は、嬉しくて眠れませんでした。隊長が買ってくれた可愛らしい水玉模様の水着を抱いて、私はベッドの中で朝になるのをじっと待っていました。そして翌日、私は隊長の手に引かれ、プールに訪れたのです」

そこまで語って、不意にマリアさんは黙り込んだ。俺は声を掛ける事も出来ず、ただマリアさんの言葉を待っていた。

「……プールに着いた私は、隊長と別れ、水着に着替えるために更衣室に入りました。すると、服を脱いだ私の後ろから誰かの声が聞こえた………『何あの傷、気持ち悪い』と。驚いて後ろを振り返ると、同い年くらいの女の子達が、わ…私の背中を指差し顔をひそめて…」

最後の方の言葉は、あまり聞き取れなかった。マリアさんは苦しそうに背中を丸めた。

「…それを見たら、頭が真っ白になって…怖くなって…私はタオルで傷を隠して更衣室から飛び出しました。暫くしてから、隊長が来ました。私がいつまで経ってもプールに来ないから心配したのでしょう。隊長は私に何があったのかと尋ねましたが、私は何も話しませんでした。ただ、泣きながら、プールに入りたくないと言いました。そうしたら隊長はそれ以上何も聞かずに、私の頭を撫でました。……とても…とても…悲しそうな顔で……」

マリアさんは顔を覆って嗚咽を漏らした。

「……それから、この傷を見る度に、あの時の彼女達の汚いものを見るような目と、隊長の悲しげな表情が頭に浮かんで、涙が止まらなくなってしまった……私は戦士なのに…涙なんて流してはいけないのに…。弱い…私は弱い人間なのです……」

そんなマリアさんの背中を見ていると、息が詰まりそうな程、胸が苦しかった。俺は何も言わず、考えていた。

マリアさんはその時、どんなに嬉しかったのだろう。眠れなくなる程楽しみにして、買ってもらった水着を持ってプールに出掛けた時。

隊長はその時、どんなに喜んだのだろう。ワガママ一つ言わない、我が子のように大切にしていたマリアさんから、ほんの小さなお願いをされた時。

たった一言の心ない言葉が、その幸せを一瞬でぶち壊してしまった。そのたった一言が、マリアさんにその背中の傷よりも、深い心の傷を負わせてしまった。

許せなかった。何よりも、マリアさんのために何もしてあげられない、自分自身が。

「…泣く事は、弱さじゃない」

不意に俺の口を突いて出た言葉。

「…涙を流すのは、明日もっと強くなるための準備なんだ」

昔、泣き虫だった俺に送られた言葉。幼い頃の記憶。

「これ、親父の受け売りです。親父は妹が産まれてすぐ出てっちゃいましたけどね。あの頃は良く分からなかったけど、今では俺もそう思います」

マリアさんに届いているかは分からない。それでも俺は伝えたかった。

「マリアさんは、強い人です。それに、すごく優しい人です。頼りないかも知れないけど、俺の言葉、信じて下さい」

マリアさんは何も言わなかった。やっぱり、俺の言葉なんて届かないのかも知れない。俺は天を仰いで、彼女に掛けるべき言葉を探した。

突然、胸に衝撃が走った。驚いて胸元を見ると、少し黒味がかった鮮やかな金髪。マリアさんが、俺の胸に飛び込んで来たのだと分かった。マリアさんの柔肌が、俺の肌にピタリと密着している。よくよく考えたら、俺達は何も着ていなかった。

「マ、マ、マリアさん!?流石にこれは…!」

慌てふためいた俺がそう言うと、マリアさんは呟いた。

「…お願い…お願いします。少しだけ、このままでいさせて下さい…」

マリアさんは俺の胸に顔を埋めたままそう言った。同時に、俺の胸にポタリと温かい雫が溢れ落ちたのを感じる。

俺は本当に、この人を怒らせたり悲しませたりしてばかりだな、と思った。

出来れば、この人を笑顔にしてあげたい。

この涙を、幸せな涙に変えてあげたい。

気の効いた言葉を掛けてあげられたら、その小さな肩を抱き締めてあげられたら、どんなに良いだろう?

意気地のない俺は、ただ彼女に胸を貸して、突っ立っている事しか出来なかった。

「ア」

不意に、後ろから声が聞こえた。振り返ると、そこにいたのは紅白の派手な水着を身に付けている伊凛だった。

「…い、伊凛?なんでお前がここに…」

俺が言い終わらない内に、俺とマリアさんを交互に見て目をパチクリさせた伊凛は、一目散に身を翻して叫んだ。

「隊長〜!お兄ちゃんとマリアが風呂場で裸で抱き合ってるアル〜!!明日はお赤飯ダヨ〜!!!」

「伊凛〜ッッ!!シャレにならねーからやめろ〜!!!」

俺は大浴場から駆け出した伊凛を追って浴場を飛び出した。マリアさんの事が気にかかるが、とにかく今は伊凛の誤解を解かねば、俺とマリアさんの名誉に関わる。

俺はタオル一枚を身に付けて、伊凛の後を追った。



嵐のような二人が大浴場から去って行ってから、私はふと、鏡に映る自分の背中を眺めてみた。傷は変わらずここにあるけれど、心の中はとても穏やかだった。

「……本当に、変わった人」

不意に、先程の二人のやり取りを思い出して、私は思わず笑ってしまった。

久し振りに、本当に久し振りに、心の底から笑えたような、そんな気がした。

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