Flag5. 二つの素質

「古狸共め…僕の邪魔をするなと、あれ程釘を刺しておいた筈だ」

ニュース番組から繰り返し流される、大型複合施設ミューズ占拠事件。金髪の少年は憎々しげにテレビを睨み付けた。日課のトレーニングを終え、温かいシャワーを浴びて得た爽快感も一挙に吹き飛んでいった。

「ヤツらの狙いは一体なんだ?今更ロクロー・ジューダの力を推し量る必要などあるまい。あの男の強さは、ヤツらが一番良く知っているのだから」

カーテンを開くと、遠くの空が赤く燃えていた。最上階に位置するこのスウィートルームからは、ミューズから上る火の手も良く見える。

「セバスチャン」

少年が虚空に呼び掛けると、どこからともなく銀髪の紳士が現れた。すらりと伸びた筋肉質な手足に、黒のタキシードを身に纏い、灰色の左目には古びたモノクルが鈍い輝きを放っている。

「お呼びですか、坊っちゃま」

「FPの動向を探れ。不審な動きがあれば逐一報告しろ」

「かしこまりました」

その一言の後、紳士は瞬く間に姿を消した。少年は燃え盛るミューズを睨み付けながら、低い声で唸った。

「誰にも邪魔はさせない…誰にも…!」


***


『伏線(ふくせん)』とは、物語や劇作上の技術の一つであり、物語上において未来に起こる重要な出来事を、様々な形で前もって明示、あるいは暗示しておく手法である。読み手や聴衆の倦怠感を回避するため、あるいは感動を引き起こすために用いられる。人物だけではなく、物や情景などによっても伏線が張られる事もある。最近の傾向では、『フラグ』と表現される場合もある…』


「何読んでんだ、お前?」

黙々と本を読む俺の後ろから、沢木が顔を出して来た。沢木は俺の読みかけの本を取り上げて、そのタイトルを読み上げた。

「『物語を作るためには』…?」

沢木は首を傾げながら分厚い本をパラパラと捲る。

「何これ?珍しく図書室なんかにいると思ったら、お前小説家にでもなるつもりなのか?」

俺はため息をついて沢木に向き直った。煩いヤツに見付かってしまった。

「違うよ。勉強だ、勉強」

「何の勉強だよ?」

「伏線」

「伏線?」

「フラグの事だよ」

「フラグって何だよ?」

俺はもう一度、ため息をついた。沢木は尚も首を傾げている。まあ、俺自身ちゃんと理解していないので、コイツが分からないのも無理はない。

「興味深い話ね、私も混ぜてくれる?」

突然、隣の席に誰かが腰掛けた。

「も、も、も、もどか様ーーー!!?」

沢木の突然の奇声に、図書室中の視線が集まる。受付カウンターからは、体格の良い司書さんの鋭い睨みが飛んで来る。

「煩いわよ、勝一さんの友人A。図書室では静かにしなさい」

ピシャリともどかが叱責すると、沢木は小さくなって席に腰掛けた。ちゃっかり、もどかの隣の席に。どうやらもどかの中では、沢木は単なる俺の『友人A』と言う扱いらしい。 鼻の下を伸ばしてもどかを仰ぎ見る沢木を見て、俺は三度目のため息を漏らした。

「伏線、ね」

もどかは俺の脇に積み上げられた本を手に取ると、まじまじとそれを見つめた。

「勝一さん、あなた伏線に興味があるの?」

「興味って言うか、良く分からないから知りたくてな」

「私が教えてあげましょうか?」

「お前、知ってるのか?」

「ええ、良く知っているわ」

ああ、そうか。確かもどかは学年トップの成績だったはずだ。やっぱり頭が良いヤツは物知りなんだな。

もどかは口元に笑みを浮かべると、不意に俺に顔を近付けてきた。ふわりと、甘い香りが俺の鼻腔をくすぐる。

「小説風に説明するなら、こうなるわね」

どこか妖艶な雰囲気を漂わせ、もどかは俺の膝にそっと手を置いた。

「…もどかは胸の高鳴りを感じていた。それは言わずもがな、何者にも代えがたい愛しい人を、目の前にしたからである。彼が自分に宛てた『恋文』、そこに書き殴られていた激しい愛の言葉が、もどかの胸を火照らせる。沸き上がる抗いきれない熱情が、もどかの体を支配していた。二人は言葉もなく互いを見つめ合う。やがて、もどかの瑞々しい唇は、まるで吸い寄せられるように…」

もどかのピンク色の唇が、段々と俺に迫ってくる。俺は慌てて彼女の肩を掴んだ。

「も、もう大丈夫だ!良く分かった!」

「…ここからが良い所なのに」

もどかは拗ねたように唇を尖らせた。ふと周りを見渡すと、図書室中の視線が俺達に集まっていた。皆、一様に顔を赤らめている。反対に、沢木は真っ白いミイラのような顔になっていた。

「伏線とは、今私が話した出来事が起こり得る予兆、前兆の事を表すものよ。この場合で言えば、『恋文』がそれに当たるわね」

もどかは何事もなかったかのように解説を始めた。沢木はまだミイラのままだ。

「つまり、私にラブレターを送ると言う『伏線』を張る事で、私と主人公との間に『恋が芽生える』と言う未来を、読み手に予測させると言う訳よ」

流石は優等生、話が分かり易い。

「ただ、伏線には『ミスリード』と言うパターンもあるから要注意ね」

「ミスリード?」

「つまり、私との間に恋愛する伏線を張っておきながら、その伏線を回収せずに違うメス豚と恋愛するって事よ。…そんなの絶対に許さない…!」

「いてて!?もどかっ!膝!俺の膝つねってる!」

「あっ!ご、ごめんなさい!」

もどかは慌てふためいて俺に頭を下げた。無意識だろうが、彼女が俺の膝をつねっている時、とてつもなく恐ろしい顔をしていたのは内緒だ。

もどかは顔を赤らめて一つ咳払いをした。

「さっき勝一さんが言っていた『フラグ』と、今話した『伏線』はほぼ同義よ。まあ、人によっては解釈に違いがあるようだけれど」

「ふーん、そうなのか」

本を読んでいる時よりは理解が深まったような気がする。だが、俺にはまだまだ多くの疑問があった。

「じゃあ、ちょっと聞きたいんだけどさ」

「ええ、良いわよ。何でも聞いて頂戴」

「人が空飛んだり、手から電流出したり、タンクローリーを投げ飛ばしたり、大怪我を一言で治したり、屋上から飛び降りたけどたまたま掘った穴から地下水脈が吹き出して助かったりするのも『フラグ』なのか?」

「………え?」

…しまった。つい素直な疑問を口にしてしまった。もどかは鳩が豆鉄砲をくらったような顔で俺を見ていた。

「ギャハハハー!何だよそりゃー!?そんな漫画みたいな事起こるわけねぇだろ〜?」

いつの間にか回復していた沢木が腹を抱えて笑い始めた。かなりムカつくが、気持ちは分かる。改めて口にしてみると、嘘みたいな出来事ばかりだ。

「黙れ、友人A」

もどかがドスの効いた声で言うと、沢木はピタリと動きを止め、真っ白な顔で俯いた。その迫力は図書室中の空気を一瞬で凍りつかせた。

「…その、勝一さん」

不意に、もどかがおずおずと切り出した。慎重に言葉を選びながら俺を見つめる姿はまるで母親を探す子猫のようにいじらしくて、俺は思わず頬を掻いた。それにしても、この豹変ぶりはスゴい。

「あなたが言った事は確かに突拍子もないけど、最近の物語には『超展開』と呼ばれる、いきなり別世界に飛ばされたり、突然超能力が使えるようになったりする、荒唐無稽なストーリー展開もあるのよ。だから、もしかしたらそれらの事も、フラグと言えるかもしれないわ」

必死に俺のフォローをしてくれるもどかには悪いが、これは実際に起こった事なのだ。と言っても、誰も信じちゃくれないだろうけど。

「フラグの事だったら、アタシが教えてあげるよ!しょーいち!」

突然、後ろから誰かが抱き付いてきた。危うく引っくり返りそうになるのを何とか堪える。

「ち、千川原ー!危ないだろーが!?」

「えへへ、怒ってるしょーいち可愛いなー!」

千川原は悪びれもせず満面の笑みを浮かべていた。

「フラグって言うのはねぇ、例えばー、トーストを口に咥えた遅刻癖のある美少女と通学中に曲がり角でぶつかって恋が芽生える!少女漫画で言えばこれがお約束!」

「随分と具体的な事例だな」

「そうだよー!だって、アタシとしょーいちもそーやって恋が芽生えたんじゃない!」

そう言って再び俺の首に抱き付いてきた。抱き付くと言うより、ほとんど羽交い締めにされている感じだ。

「……ちょっと良いかしら、千川原さん?」

先程から俺達のやり取りを青筋を立てて睨み付けていたもどかが、聞いた事のないような低い声で千川原を呼んだ。

「んー?あなた誰?」

千川原は、もどかの負のオーラを全く感じていないかのように目を丸くした。

「…橘もどかよ。同じクラスなのに覚えていないの?」

「そーなんだ!アタシ、同じクラスの人しょーいちの事しか覚えてないから分からなかった!」

「転校して来てから一週間近くも経っているのに?」

「うん!アタシ、基本的にしょーいち以外眼中にないからー!」

もどかの圧倒的な迫力をモノともしない、この千川原の天真爛漫さは、ある意味尊敬に値する。て言うか、同じクラスになってから一年近く経つのに、沢木の名前を覚えていないもどかは人の事言えないと思うのだが。

「と、とにかく!いつまで勝一さんに抱き付いているつもりなの!?早く離れなさい!」

「いーんだよ、だってアタシとしょーいちは『婚約者』なんだからー!」

その言葉に、千川原以外の時が止まったような気がした。

「な、何言ってんだお前は!?いつ、俺とお前が婚約者になった!?」

「しょーいちがアタシのおっぱい触った時」

「てぇめぇー勝一!!あの時だな!?俺のベッドの上で千川原と乳繰り合ってた時だな!?」

「コラ沢木!人聞きの悪いこと言うなー!」

「うるせー!もどか様だけでなく千川原まで!お前の事なんか大っ嫌いだー!」

突然復活した沢木も加わり、もう滅茶苦茶だった。ちなみに、今度はもどかが真っ白いミイラになっていた。

「フラグと言えば、アタシは《恋愛フラグ》も好きだけど、《ライバルフラグ》も好きだなー」

唐突に話を戻す千川原。コイツの自由度には全く付いていけない。

「あ、それ俺も分かるわ!」

沢木が手を叩いて千川原に同意した。沢木よ、お前の頭の残念さは千川原とお似合いかも知れないな。

「死闘の後にさ、負けた方が『殺せ…』って言うんだけど、勝った方は『また闘おう!』って言って、熱い握手を交わすんだよなー!」

「そうそう!それで主人公がピンチになると颯爽と現れて、『お前を殺すのは俺の仕事だ!』とか言って助けてくれるんだよねー!胸熱の王道展開ー!」

「何だよそれ?『お前を殺す』なんて物騒な事言ってるヤツが助けてくれるなんておかしいだろ?」

俺がそう言うと、沢木と千川原は互いに目を合わせため息を漏らした。

「…はあ、しょーいちは何にも分かってないなぁー」

「コイツ、普段漫画とか全然読まないんだよ。許してやってくれ」

二人は憐れみの目で俺を見つめてきた。コイツらぶっ飛ばしても良いかな?

「あのねぇしょーいち、相手の言葉をそのまんま受け取っちゃダメなんだよ?ライバルは、ほんとーは主人公の事が大好きなんだけど、素直になれないから『殺す』って言っちゃうの」

「そうそう、その台詞を翻訳すると『お前がいなくなったら嫌だから、死なないでくれ』って意味なんだよ」

俺には全然理解出来ない。ピンチの時に『お前を殺すのは俺だ』とか言われたら怖いだけだと思うが。

…あれ?この台詞、どこかで聞いた事があるような気がする。

「……勝一さん」

不意に、俺の隣で固まっていたもどかが呟いた。いつもの強気な姿は影を潜め、焦燥しきったような声だ。

「ど、どうした?」

声を掛けると、もどかはブレザーのボタンを外し、両手で前開きに広げると、俺に向かっておもむろに胸を突き出して来た。薄い生地のブラウスから、決して大きくはないが、整ったラインを描くライトブルーの双丘が透けて見える。彼女は耳まで真っ赤にして、瞳にはうっすらと涙を浮かべた表情で言った。

「…い、いいわよ?」

「な、何が?」

「さ、触っていいわよ?私の……」

…コイツはどうやら何かとんでもない勘違いをしているようだ!

「もどか、聞いてくれ。お前はとんでもない勘違いを…」

「む、胸を触らせたら、婚約出来るのでしょう?私は勝一さんだったら、いいわよ?」

「コラー!何勝手な事してんのよー!?」

「オイ千川原!原因はお前だろーが!」

「も、も、も、もどか様!では、そのお役目は私めが…!」

「アホ沢木!お前は黙ってろ!!」

「あいやー、伊凛のとそんなに変わらない大きさアルなー」

「バカ伊凛!お前はいつも余計な事を………え?伊凛?」

顔を引き吊らせて振り返ると、そこには良く見知ったアルアルチャイニーズ娘がいた。

「你好、勝一!」

満面の笑顔で元気一杯に手を挙げる伊凛。その口元から、彼女の特徴的な白い八重歯がキラッと光る。

「ニーハオ、じゃねーーー!!お前こんな所で何してんだ!?」

「うるせーナ、迎えに来てやったってのにヨー」

「…しょーいち、この子誰?」

「…勝一さんの妹さんかしら?」

「…いや確か勝一は…」

怪訝な表情で伊凛を見る三人。俺が口を開く前に、伊凛が俺を見ながらニヤリと笑って言った。

「《伊凛は、勝一の愛人アル》」

そのとんでもない言葉に、今度は三人揃ってミイラになった。

「バ、バ、バ、バカヤロー!!!何とんでもない嘘言ってんだ!?」

「あれ?一緒に戦う仲間の事を日本語で『愛人』って言うんじゃないアルか?伊凛の辞書にはそー書いてアルけど?」

「言わねーよ!その辞書今すぐ持って来い!燃やしてやるから!」

ガタッと、もどかと千川原が揃って立ち上がった。

「あ、あの、二人とも聞いてくれ…!コイツが言ってる事は滅茶苦茶で…」

二人は一様に、目に涙を溜めて俺を睨み付けていた。

「…見損なったよ、しょーいち」

「…あんまりだわ、勝一さん」

俺の言葉も聞かず、二人は図書室を飛び出して行った。

「勝一」

振り返ると、沢木が虚ろな目をして立っていた。

「俺、お前の事大っっっ嫌いだわ」

そう言い捨てて、沢木は図書室を後にした。今までアイツに言われた言葉の中で一番ダメージを受けたかもしれない。ふと周りを見渡すと、図書室中の人間が俺を軽蔑の目で見ていた。俺はしばらく、この光景を夢に見てうなされる事になりそうだ。

「あいやー、勝一が困ってたからフラグへし折ってやろーかと思ったらやり過ぎちゃったアル。不好意思ネ」

「ぶーはおいーす、じゃねーよ!!フラグ・クラッシャーどころか、俺の人生がクラッシュするわ!」

「あははは、勝一上手いこと言うアルねー!」

「うるせー!大体お前は……ん?今なんて言った?」

「え?上手いこと言うアルって…」

「そうじゃない。さっき俺の事、『勝一』って呼んだだろ?」

「ん?勝一は勝一ダロ?」

「そうじゃなくて。ずっと俺の事を『お前』って呼んでたのに何で急に…」

「あー、その事アルか。まあ説明してやるけど、場所変えた方が良くないカ?」

伊凛に促されて周りを見ると、図書室中の視線が俺達を睨み付けていた。どうやら煩くし過ぎたようだ。司書さんなんてカウンターから身を乗り出して、今にもこちらに飛び掛かって来そうな雰囲気だ。

「とりあえず外出るアル」

俺と伊凛は、殺伐とした図書室を後にした。もうしばらく図書室には行けないな、と思った。



「もう大丈夫かなって、思ったアル」

俺と伊凛は、本部近くに停車するバスに乗っていた。伊凛は当然、空を飛んで帰る事を提案したが、俺がそれを断固拒否した。伊凛はブー垂れていたが、イチゴを買い与えたらころっと態度を変えた。お子様は扱い易くて非常に助かる。

「何が大丈夫なんだ?」

学校の近くから本部付近までを繋ぐこの路線は、利用客も少なく車内は人もまばらだ。俺達は一番後ろの五人掛けの席を占有していた。

「勝一は、勝手にいなくなったりしないって思ったアル」

イチゴを頬張りながらそう言う伊凛の横顔が夕焼けに照らされている。

「隊長が連れて来たFCD候補は勝一だけじゃないんだヨ。他にもいっぱいいたアル」

「いっぱいって何人位だ?」

「んー、五十人くれーかナ?」

「そ、そんなにいたのか…?」

「一番多かったのは軍人、次に格闘家、ヤクザ、ギャング、公務員とか、勝一みてーな学生もいたアルな」

何だか凄まじい面々だ。学生や公務員は置いといて、軍人や格闘家なんて俺なんかよりもずっとフラグ・クラッシャーに向いていそうな気がする。

「その人達って今どうしてるんだ?」

「さあ?知らねーアル。どっか行っちゃったカラ」

「どういう意味だ?」

「みんな続かねーアル。大体三日でいなくなるアル。ソイツらの教育は、隊長が直接したり、伊凛やマリアが持ち回りでやってたんだけど、FCDに入る訓練は厳し過ぎてみんな逃げちまうアル」

その気持ちは俺も良く分かる。俺自身、何度死にかけたか分からん。

「昔ナ、伊凛が教育してた人で一週間頑張った人がいたアル。伊凛嬉しくて、やっと仲間が増えるって思って楽しみだったアル」

そう言うと、伊凛は不意にイチゴを摘まみ上げる手を止めた。

「…だけど、マリアが教育係になったら一日で逃げちゃったアル」

段々と沈み行く夕日が影を増していく。伊凛の横顔が少しずつ暗くなっていった。

「伊凛、マリアに怒ったアル。マリアは厳し過ぎるって。そしたらマリアに、『あの程度の訓練で音を上げるようではFCDは務まらない、伊凛は甘過ぎる』って言われちゃっタ…」

伊凛の手元にある箱には、イチゴがまだ幾つか残っていた。それには手を付けず、伊凛は話を続けた。

「その人ネ、とても優しい人だったアル。伊凛の事を心配して時々頭をなでてくれたり、伊凛の事をほめてくれたりする……お兄ちゃんみたいな人だったアル」

箱の中にあるイチゴが、バスの揺れでコロコロと転がる。

「…それから伊凛、新入りの名前覚えるのやめたアル。覚えてもどーせいなくなっちゃう、伊凛の事置いて逃げ出しちゃうって思ったからアル」

バスはゆっくりとした速度で走行している。いつの間にか、車内の乗客は俺達だけになっていた。

「分かってるアル。マリアが厳しくするのは、伊凛のためアル。もしその人が仲間になっても、訓練についていけなかったら、いつかは任務で死んじゃうかもしれないモン。そうなったら伊凛が傷つくって思ってるから、マリアは厳しくしてるって分かってる……だけど、やっぱり寂しいヨ」

イチゴが、悲しげな表情で伊凛を見上げている。そんな気がした。

「マリアも、隊長も、いつも伊凛に嘘つくアル。任務で怪我しても大丈夫って言って笑うし、辛い時も何にも相談してくれないアル。伊凛が小さくて弱っちいから、二人は嘘つくんダ。そんな時の二人は……嫌いヨ」

俺が最初に本部に行った時、伊凛は滅茶苦茶にはしゃいでいた。諦めてはいても、きっと心の中では新しい仲間が増える期待に胸を膨らましていたに違いない。だけど、その期待は何度も裏切られて、伊凛の心は傷付いていったんだ。

マリアさんがあんなに俺に厳しかったのも、もしかしたら伊凛がこれ以上傷付かないように、出来るだけ早く俺を追い出そうとしたからなのかも知れない。

伊凛の言う通り、マリアさんも隊長も、伊凛に嘘を付いているのかも知れない。

でも、だからこそ。

「違うよ」

「…エ?」

「二人が嘘を付くのは、伊凛が小さくて弱いからじゃない」

俺にも、覚えがある。

「二人が嘘を付くのは、伊凛の事が大切で、守りたいからだ」

大切な人に嘘を付く時、その人が考える事はきっと、大切な人を守る事、ただそれだけだ。

「マリアさんも隊長も、伊凛の事が大好きなんだよ。口にする言葉だけが全てじゃない」

それは、いつしか俺が忘れてしまっていた、遠く、優しい記憶。伊凛のこの素直な想いが、俺にそれを思い出させてくれた。

「伊凛もそうだろ?マリアさんや隊長の事、本当は好きなんだろ?」

暮れかかった夕日が、伊凛の頬を染める。彼女は俯き、はにかみながら呟いた。

「……大好キ」

俺は俯く伊凛の頭を撫でた。とても、懐かしい感覚がした。

「……ネェ、勝一」

「ん?」

「イチゴ、分けてやるアル」

「いいのか?」

「うん、伊凛がイチゴを分けてやるなんて百年に一度、アルかないかヨ?有り難く食べるヨロシ!」

にしし、と微笑む伊凛。そのイチゴは俺が買ったんだが…。まあ、百年に一度の機会なら、有り難く頂戴しよう。

真っ赤に熟れたイチゴは、伊凛の横顔に良く似ていた。



私は、戦士だ。

人々の命と幸せを守る戦士だ。


生後間もなく両親を失った私は、十田隊長に拾われ、遠く日本の地で育てられた。隊長は、時にいい加減で破廉恥な所もあるが、私を慈しみ、実の娘のように大切に育ててくれた。

物心が付いた時から、私は自分を鍛え上げる事に固執していた。いつも誰かのためにその身を投げ出して戦う隊長の背中が、とても眩しかったからだ。

幼い私は、脇目も振らず訓練に明け暮れた。隊長は私に、学校に通うよう強く勧めたが、私はそれを拒否した。勉強は自力でも出来たし、何より学校に通っている暇など私には無かった。少しでも早く隊長の背中に追い付きたい。その事しか頭に無かったのだ。

だから、私には友達と呼べる人は一人もいない。同年代の子供と遊んだ事だって一度も無ければ、遊びたいとも思わなかった。FCD本部とFCとしての任務だけが、自分の世界の全てだった。

五年前の世界同時テロ以降、FPの関連が疑われるフラグ・テロが多発した。その調査のため、私は隊長と共に世界中を飛び回った。その時に出会ったのが伊凛だった。貧しい農家に生まれた彼女は、両親に捨てられ、過酷な状況の中、たった一人で生き抜いていた。出会った当初、彼女は私や隊長の事も敵視していたが、今では立派なFCDの仲間であり、家族のような存在だと思っている。

伊凛は、よく笑い、よく怒り、よく泣いた。コロコロと表情を変える彼女を見て、私は戸惑った。感情を表に出す事は戦士にとって禁忌であり、特に涙を見せる事など、まさに弱さの象徴だと考えているからだ。戦場で弱さを見せれば、たちまち命を失う。それは、自ら定めた使命を放棄する行為にも等しい、忌むべき事だった。

私は伊凛が涙を流す度に、厳しく叱責した。それから、彼女は泣く事を堪えるようになった。あの子が最後に涙を流しているのを見たのは、あの子が『お兄ちゃん』と呼び、慕っていた男が逃げ出した時だった。口ばかり達者な軽佻浮薄の男であり、伊凛や私に対して邪な感情を抱いていた最低の人間だった。二度と伊凛の前に姿を表さない事を条件に、命だけは助けてやった。そんな最低な男でも、伊凛にとっては特別な存在だったのだろう。本当の理由を話せるはずもない私に、伊凛は泣きながら抗議した。あの時程、伊凛の顔を見るのが辛かった事は無かった。


だから、今私の目の前で倒れ伏せているこの男も、当然同じ輩なのだろうと思っていた。口では大層な事を言いながら、少し厳しくすればすぐに逃げ出す軟弱者。軽薄な笑みを浮かべ、裏では平気で人の心を傷付け踏みにじる最低の人間なのだと。私の事は構わない、ただ、伊凛を傷付ける輩は絶対に許さない。

そして、隊長が言った、『超一流のフラグ・クラッシャーになれる素質を持つ男』と言う言葉も私には納得出来なかった。私が生涯を賭けて追い求める存在に、こんなふざけた、やる気の無い男が成れるはずはない。そう思った。

…だが、この男は他の有象無象の輩とはどこか違った。私がどんな無理難題を押し付けても、この男はそれをやり遂げた。弱音や文句を吐きながら、それでも決して逃げ出そうとはせず、私に食らい付いてきた。ほんの少しだけ、この男に対する見方が変わった。

先日のミューズ占拠事件、私はこの男を任務から外すよう隊長に進言した。この男を足手纏いだと思ったのは事実だが、ここで死なせるには少し惜しいとも思った。実際、この男は実力も無いくせに、様々な場面で出しゃばり、私の足を引っ張った。それでもこの男は、人質を救おうと必死になっていた。

『あんたは俺の師匠だろーが!?』

この男は、私まで救おうとした。あの程度の攻撃など、私一人なら造作もなく対処出来た。けれど、この男は身を呈して、私を守ろうとした。命を落とすかも知れないのに、私に逆らって子供を救いに行った。同年代の男の子に怒鳴られたのは、あの時が初めてだった。

『俺の事、信じてくれよ』

そう言って階段を昇って行くこの男の背中に、ずっと追い続けたあの大きな背中が一瞬重なって見えて、とても、とても……


悔しくて、羨ましかった−



「この程度で音を上げるとは、情けないですよ勝一」

俺はうつ伏せに倒れたまま、顔を上げる事も出来ずにいた。伊凛と共に帰って来た俺を待っていたのは、いつも以上に厳しいマリアさんの地獄の訓練(と言う名のシゴキ)だった。

「…マ、マリアさん…ちょっとタイムを…ブ、ブレイクタイムを……!」

マリアさんの地獄の訓練の中でも、特に最悪だったのは、今まさに行っている戦闘の基礎訓練だった。その内容は、マリアさんが良いと言うまでひたすらに、マリアさんに勝敗丸見えの勝負を挑まされると言う単調極まるものだった。

だけど当然、マリアさんは一切容赦しない。殴られ、蹴られ、転がされ、締め上げられ、投げ飛ばされ、叩き落とされ、ありとあらゆる攻撃を一方的に食らわされた挙げ句、限界が来たら治癒フラグで体を治し、再び挑まされると言う、地獄の無限ループであった。

息も絶え絶えである俺の必死の懇願に、マリアさんは大きなため息をついた。

「仕方ありませんね、一息入れましょう」

…あれ?俺は思わず顔を上げた。おかしい、いつものマリアさんなら、俺のこんな言葉など無視して、非情の一撃を加えるはずだ。

何故か、最近マリアさんがやたらと優しい。いや、厳しいのは相変わらずなのだが、俺に対する態度が少し柔らかくなった。この間の事件で、俺の事を少しは認めてくれたのだろうか?だとしたら…嬉しい。

「どうぞ」

顔を上げると、マリアさんがマグカップを差し出していた。トレーニングルームに備え付けられているコーヒーメーカーから持ってきてくれたようだ。

「あ、ありがとうございます」

マリアさんはコーヒーを俺に渡すと、そのまま俺の隣に腰掛けた。白い湯気の立ち上るコーヒーを一口すすると、切れた口内に染みて少し痛かった。不意にマリアさんが口を開いた。

「腕を上げましたね、勝一」

俺は驚いて隣にいるマリアさんを見た。こんな事を言うなんて、やっぱり最近のマリアさんは変だ。

「…いや、全然だと思いますけど。確かに最初の頃よりは体の痛みも少ないですけど、それはマリアさんが手加減してくれてるからですよね?」

「私は、手加減などしていませんよ。私の攻める力は同じ、ただ、貴方の攻撃の受け方、かわし方が上手くなっているのです」

マリアさんはそう言ってコーヒーを仰いだ。あのマリアさんに褒められている。それだけの事でこんなに嬉しいなんて、俺は実に単純な人間だと思った。

「正直、驚きました」

一呼吸置いて、マリアさんが口を開いた。

「貴方はすぐに逃げ出すものだと思っていたので」

マリアさんは褐色のコーヒーを見つめながらそう言った。マグカップから伝わる温もりが心地良かった。

「マリアさんのお陰ですよ。鬼のように厳しいけど、教え方は丁寧だし、さり気なく気遣ってくれるし。鬼のように厳しいですけど」

「…死にたいのですか?」

久々の、氷のように冷たい視線。ヤバい、素直に本当の事を言い過ぎた。俺の悪い癖だ。俺は必死に何か取り繕う言葉を探したが、不意にマリアさんがへの字に結んだ口元を弛めた。

「冗談ですよ。確かに私は貴方にだけ厳しくし過ぎました」

俺はほっとため息をついた。良かった、どうやら怒ってはなさそうだ。

…ん?ちょっと待てよ?『だけ』?

「…マリアさん、もしかして他の候補の人よりも俺には無茶な事やらせてました?」

俺が疑いの眼差しを向けると、マリアさんはあっさりと頷いた。

「はい。あんなメニュー、普段から鍛えている人間でもこなすのは不可能です。普通に考えれば分かるでしょう?」

「ひどい!マリアさんはやっぱり鬼だ!悪魔だ!本当は俺の事を殺すつもりだったんでしょ!?」

「人聞きの悪い事を言わないで下さい。あそこまで無茶な事をやらせれば、貴方はすぐに逃げ出すと考えていたのです。…ですが、貴方は逃げなかった」

マリアさんは真っ直ぐ俺の目を見つめた。透き通る青い瞳に見入られて、俺は思わず言葉に詰まった。

「何故、逃げなかったのですか?そうしようと思えばいつでも出来たはずです」

この人には、嘘は通じない。この真剣な眼差しを見て俺はそう思った。

「…嬉しかったんです」

「嬉しかった?」

「俺、ずっと人との関わりを避けていたんです。ほら、俺ってこんな体質じゃないですか、フラグ建築士、でしたっけ?」

マリアさんは小さく頷いた。

「俺、昔からトラブルに良く巻き込まれるんです。だから、俺が誰かと仲良くなると、その人にも迷惑掛けちゃうし、辛い思いをさせちゃったりするんです。それが嫌で、必要以上に人と関わらないようにしてたら、いつの間にか友達とか、ほとんどいなくなってました。今では沢木って言うアホなヤツだけです、俺と友達でいてくれるの。ソイツにもいつも迷惑掛けてますけどね」

乾いた笑いが口から漏れた。それでもマリアさんは何も言わずに話を聞いてくれる。

「昔から、何でこんな目に遭わなきゃいけないんだろう?ってずっと悩んでました。そんな時に隊長に言われたんです。『君の運命を知っている』って。半信半疑だったけど、誰でも良いから教えて欲しかった。俺の運命を、俺がなんでこうなってしまったのか、その理由を」

コーヒーはすっかり冷めてしまったが、俺の口は止まらなかった。

「そしたら、フラグ・クラッシャーになれって言われたり、キャリコってヤツが襲ってきたり、変なマンションに連れてこられて無理やり訓練させられたり、屋上から女の子を抱いて飛び降りたり、やっぱり大変な目に遭いました。……だけど、嬉しかった」

こんなに誰かに自分の話を聞いてもらったのは、いつ以来だろう。喋り過ぎて、口の中がカラカラに乾いていた。

「隊長がフラグ・クラッシャーになれって言ってくれた事、伊凛が俺を見て喜んでくれた事、マリアさんが訓練してくれた事、女の子が俺を信じてくれた事……誰かに必要とされるのが、自分の居場所があるのが、こんなに嬉しい事なんだって、初めて知ったんです。だから、逃げませんでした」

マリアさんは、とても優しい目で俺を見ていた。その目を見ていたら、全てを話してしまいそうで、俺は堪らず目を反らした。

「…隊長が言った事は、正しかったのかも知れません」

「え?」

「貴方には、超一流のフラグ・クラッシャーになれる素質があります。優れたフラグ・クラッシャーに必要な素質は二つあります」

マグカップを傍らに置いて、マリアさんは俺に向かってそのしなやかな指を二本立てた。

「一つ、『強い人』である事。二つ、『優しい人』である事」

マリアさんは姿勢を正して、俺の目を真っ直ぐに見つめた。

「貴方はその両方を兼ね備えています」

彼女のしなやかな金色の髪から、ふわりと優しい香りが漂った。

「貴方に初めて会った時、不思議な予感が頭をよぎりました。その時は、それがなんなのか分かりませんでしたが、今ならハッキリと分かります。貴方は素晴らしいフラグ・クラッシャーになる。私が保証します」

そう言ってマリアさんはニコリと微笑んだ。

それは、ミューズで女の子に見せた、俺の目を奪ったあの笑顔。光のように、輝く笑顔。

「勝一、私は必ず貴方を一人前のフラグ・クラッシャーにしてみせます。だから、今度は私の事を信じて下さい」

俺はマリアさんに向かって小さく頷くと、気恥ずしくて残ったコーヒーを一気に飲み干した。冷たくなったコーヒーはとても苦かったが、俺の頬はずっと熱いままだった。

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