Flag3.フラグ建築士

「…よう。元気か?」

そう言って病室に入ってきた俺を、沢木は怪訝な表情で見ていた。

俺は沢木の見舞いに来ていた。結局、マリアの地獄の特訓は連日に及び、解放されたのは特訓から一週間経った今日だった。

「お前、どうしたんだそれ?」

俺を指差しながら首を傾げる。まあそりゃそうだろう。体中包帯だらけ、顔のあちこちに青タンを作り、杖をついていなけりゃまともに歩けやしない。病院送りにされた自分よりも重傷を負っているヤツが見舞いに来たら、俺だって驚くさ。

「…まあ、色々あってな」

ベッドの脇にあるパイプ椅子に腰掛けようと膝を曲げると、酷使された筋肉達が悲鳴を上げた。狂気の筋トレによって、俺の全身の筋肉はほぼ断裂状態なのだ。俺は思わず転げ回りそうになるのを堪えながら、座る事を静かに諦めた。

「お前、マジで大丈夫か?」

「だ、だ、大丈夫だぁ…」

凄まじい痛みに顔を歪ませ、俺は必死にやせ我慢を言った、体中から嫌な汗が吹き出し、危うく痙攣を起こしそうな膝を奮い立たせた。沢木はそんな俺を見て更に首を傾げていた。

「なぁ、お前一週間も何やってたんだ?学校休んでたんだってな」

「…誰から聞いたんだ?」

「千川原美夜」

「誰それ?」

はぁ、と沢木は大きなため息をついた。

「一週間前に転校してきた子だよ。お前が理由も分からず休んでるから、俺んとこに来てるんじゃないかって毎日来てたんだよ」

「あーアイツか」

千川原美夜、一週間前に俺が通学途中の曲がり角でぶつかった女子だ。千川原とぶつかった瞬間、俺は素早く塀に飛び乗り身を隠した。万が一顔を見られれば、面倒ごとに巻き込まれるのは明白だからだ。狙い通り、千川原は俺に気付かず、怪訝な表情を浮かべつつ去って行った。俺はホッと胸を撫で下ろしたが、おかげで学校には遅刻した。

そんな事があったから、千川原が俺たちのクラスに転校生として入って来た時も特に驚きはなかった。俺にとってはいつもの事だからな。まあ、沢木を始め、男子連中は歓喜の声を上げていたが。千川原は緊張する様子もなく、ニコニコしながらクラスメイトの顔を見渡していたが、俺の顔を見るなり、『あ!』と声を上げ、真っ直ぐに俺を指差した。クラス中の視線が、俺と千川原に集まる。何度も体験した、既視感のあるシーンだったが、俺は内心動揺を隠せなかった。顔は絶対見られてないはず。だが、千川原は明らかに俺と面識があるような反応を見せた。授業中も俺の斜め前に座る千川原からの視線をビンビン感じていた。

『ねえ、君』

案の定、休み時間が始まるなり、千川原は俺に話し掛けてきた。俺は無視を決め込んでいた。次の授業の準備をし、まるで何か用事があるかのように足早に教室を後にした。だが、千川原は一筋縄ではいかなかった。彼女は俺がどこに行っても付きまとい、執拗に俺を質問攻めにしてきた。

『アタシとどっかで会った事ない?』

『名前は何て言うの?』

『どこに住んでるの?』

矢継ぎ早に話し掛けてくる千川原、徹底的に無視する俺。彼女はしつこく、トイレの中にまで俺を追ってきそうな勢いだった。俺が無視すればする程、彼女は桃色の頬を膨らませながらムキになって俺を追いかけ回してきた。

『無視しないでよ!』

業を煮やした千川原は、俺の肩を掴み教室のど真ん中でそう叫んだ。

『ねえ!今朝アタシとぶつかったのって君でしょ?』

唐突に核心を突いてくる千川原。

『…何だよそれ、知らねーよ。つーかさっきから何なんだよお前』

『君がアタシを無視するからでしょ!?』

教室中の視線が俺達に集まる。詰め寄る千川原、それをはぐらかす俺。もしぶつかったと認めたら絶対面倒事に巻き込まれると分かっていたから、俺は全力でそれを否定した。はたから見たら、痴話喧嘩するカップルにも見えたかも知れない。俺を見る男子達(沢木を筆頭に)の羨望と殺意の込もった視線を感じながら、俺は彼女の疑いを否定し続けた。正直言って、めちゃめちゃ疲れた。

「それにしてはお前、嬉しそうじゃないな。アイツの事、可愛い可愛いって散々言ってたくせに」

俺がそう言うと、沢木は横目で恨めしそうな表情で俺を睨んだ。

「何言ってんだよ、それってお前に会う目的で俺の所に来てるだけだろ?嬉しくもなんともねーよ」

「そう言うもんか?」

「そう言うもんだ」

もう一度大きなため息をつくと、沢木は何かを思い出したようで急に血相を変えた。

「それよりお前!あの時どうして一人で逃げたりしたんだよ!?」

沢木は俺に噛み付かんばかりの勢いで身を乗り出してきた。普通に動けている所を見ると、もうだいぶ体の状態は良いらしい。

「そりゃお前がこう言ったからだろ、《ここは俺に任せて…》」

そこまで言いかけて、俺は思わず口を覆った。…危ない危ない。

事情を知らない沢木は目を丸くして俺を見ている。俺は先日のマリアとの会話を思い出していた…


***


『いいですか勝一、むやみやたらと《フラグ発言》をしてはいけません』

『…フラグ発言?』

すでに満身創痍となり、意識も朦朧としている俺に、マリアはいつも通りの冷やかな視線を送った。

『例えば、《俺、この戦いが終わったら、故郷の婚約者と結婚するんだ》』

『ひっ!?』

その言葉に、俺は咄嗟に体を丸め身を守った。またあの耳をつんざくようなクラクションが聞こえたような気がした。激痛が走ったが、そんな事には構っていられない。

『…あれ?何も起こらない?』

『それは私がフラグを制御しているからです』

冷酷な美女は、無様な俺の姿を見ても眉一つ動かさない。

『熟練されたフラグ・クラッシャーは、自分のフラグをある程度制御する事が出来ます。しかし、貴方のようなフラグ量だけが無駄に多いフラグ建築士、尚且つそれを制御出来ないような未熟者は自身の言動に特に注意を払う必要があります。うっかり口にした言葉が、他人を巻き込む重大な死亡フラグになる可能性がありますからね』

そう言うと、壁に無数に並べられた武器の中から何か細長いものを取り出した。指先一つ動かすだけで全身を駆け巡る痛みに耐えながら、俺はやっとの思いで顔を少しだけ上げた。瞬間、白光りした閃光が一閃、ヒュンと鼻先を通り抜け、金属音と共に床に突き刺さった。冷たいひとすじの汗が額を流れていった。

『貴方はまさに、この抜き身の日本刀のような存在。このまま放置すれば、無自覚に人を傷付ける凶器となる』

マリアは日本刀を静かに引き抜くと、片膝をついて、倒れこむ俺の顔を覗き込んだ。

『隊長が貴方をここに連れて来た事、今は少しだけ感謝しています』

そう言うと、俺の顎をその白く細い指で強引にしゃくり上げた。ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐる。同時に、冷たく鈍い光沢を放つ日本刀が、俺の首筋に当てられた。ひんやりとした刀身の感触に、首の皮一枚を隔てて脈打つ血液まで冷たくなっていく気がした。下手に動けば、この刀は俺の頸動脈を簡単に切り裂いてしまうだろう。

そして、マリアは口角を少し上げ、微笑みのようなものを浮かべながら言った。

『もし、貴方がフラグ・クラッシャーに相応しくないと判断したその時は、私が貴方を始末してあげますからね…』


***


「おい、勝一!」

その言葉に俺は顔を上げた。ふと額に手をやると、ビッショリと汗をかいていた。あの時のマリアの顔は、冗談や誇張を言っている表情ではなかった。俺は身震いし、発言には十分気を付けようと改めて気を引き締めた。

「お前、本当に大丈夫か?」

「…ああ、とりあえずこの前は悪かったな」

「き、急に素直に謝るなよ、気味悪いな。それで、結局お前…」

不意に、ドアをノックする音が聞こえた。

沢木は顔をしかめて、「また千川原だぜ」と言って、ドアに向かった。包帯を巻いているとは言え、何の支えもなく歩いているのをみると、やっぱりもう問題はなさそうだ。

「はいはい、今開けるよ……って、え……え!?」

突然すっとんきょうな声を出して、沢木がドスンと尻餅をついた。

病室に入ってきたのは、千川原ではなかった。

「お久し振りね」

「も、も、も、もどか様ぁーーー!?」

腰まである艶めかしい黒髪、ツンと上向く長い睫毛に、猫目で大きな瞳。厚ぼったいピンク色の唇を少し尖らせ、橘もどかは明らかに不機嫌そうな面持ちでそこに立っていた。

「な、な、なななんで、もどか様が俺ごときの病室にィ!?まさか、俺のお、お、お見舞いに…?」

感涙に咽び泣く沢木に向かい、橘はチラリと視線を送り、言葉を掛けた。

「あなた、もう具合は良いの?」

そう言われた沢木は、今にも気絶しそうな恍惚の表情でブンブンと首を縦に振った。橘はいかにも興味がなさそうに沢木から視線を外すと、俺をまっすぐに見つめた。

「では、少し席を外してくれる?私はこの人に用があるの」

「俺に?」

一転、沢木の顔がまるでこの世の終わりを見た表情に急変した。ムダに表情豊かな沢木の百面相はよく見ていたが、ここまで劇的な変化は初めて見たので、不謹慎にも俺は少し吹き出してしまった。幸い、当の本人には聞こえていなかったようで、沢木はおずおずと立ち上がると、腰を屈めて橘の顔色を下から伺った。その姿はまるで、女王様のご機嫌を必死に取ろうとする哀れな従者である。

「…あ、あの、お言葉ですがもどか様、ここはその、僕の病室でして、その…」

言い終わる前に、橘の鋭い一瞥に、沢木は小さな悲鳴を上げて黙り込んだ。

「さっさと消え失せなさい。私はあまり気が長い方ではないの」

その言葉にもはや顔面蒼白となった沢木は、振り返る事もせず自分の病室を去って行った。…哀れ沢木。後でジュースでもおごってやろう。

「それで、俺に用って?」

俺が声を掛けると、橘は肩から下げていた鞄から何かを取り出し、何も言わずに俺にそれを差し出した。それは一枚の写真であり、写っていたのは、綺麗に整頓された机の引き出しであった。…何だこれ?

「良い写真でしょう?最高級のYUMEMARO一眼レフで撮影したものよ」

得意気に鼻を鳴らす橘。YUMEMAROと言うのは、安い物でも十万は下らない、プロ志向の高級カメラのみを扱うブランドだ。それだけあって、確かに良い写真だ。カメラに対する知識は全くないけど、ピンボケもしていないし、細部まで鮮明に写し出されている。

「いや、だからこの写真がなんなんだよ?」

写真の質の良さは分かったが、意図が全く分からなかった。これを俺に見せて一体どうしようと言うのか。

すると、橘は急に俯いて何やら小さく呟いた。

「…取り消しなさい」

「何だって?」

キッ、と顔を上げると、橘は顔を真っ赤にして叫んだ。

「私が整理整頓しないと言った、あなたの言葉を取り消しなさい!」

そう大声で言ったかと思うと、俺の顔を見るなりまた俯き、「と言ったのよ…」と、消え入りそうな声で呟いた。

「お前、もしかして俺が言った事気にしていたのか?」

橘は何も言わずに頷いた。俺はそんな様子を見て、思わず笑い出してしまった。橘は顔を真っ赤にして俺を睨んでいた。

「お前、図太そうに見えて結構繊細な所あるんだな」

「し、失礼な!?とにかく、私はこの通り綺麗に整理整頓したわ!さあ、早く取り消しなさい!」

「ああ、取り消す。悪かったな。お前の事、見直したよ」

そう言って軽く頭を下げると、逆に橘の方が狼狽えた様子でそっぽを向いた。

「分かればいいのよ。…ところであなた、一週間もどこに行っていたの?それにその怪我は?」

ギクリ。聞かれるとは思っていたが、今の今まで忘れていた。

マリアから、フラグ・クラッシャーの事は一切外部に漏らさないように厳命されているのだ。約束を破れば、一体何をされるのか見当もつかない。

「風邪引いて寝込んでたんだよ。この怪我は、咳き込んだ時に階段から落ちて…」

「嘘。それは嘘よ」

「な、何でだよ?」

「だって私、あれから一週間、人を使ってあなたを探し回っていたんだもの。一週間前、あの、何とかと言う友人と別れてからあなたの消息は掴めなかった」

…流石、橘財閥のお嬢様。自分の名誉のためにはそこまでするのか。と言うより、名前すら覚えてもらっていない沢木が可哀想。

「そして先程、この病院を見張っていた部下から連絡を受け、こちらに急行したのよ。教えて、あなたはこの一週間、どこで何をしていたの?」

俺は答えに窮してしまった。下手な誤魔化しは逆効果だ。何とかうまい言い訳を考えないと。俺は頭に手を当てて苦笑いした。その時、腕に巻いていた包帯の結び目が解け、はらはらと肘の方まで垂れてきた。怪我の応急処置は伊凛がやってくれたのだが、その処置はかなり適当であった。まあ子供だから仕方がないと諦め、俺は自ら包帯を巻いたのだが、やはり自分では上手く出来なかった。

すると、橘が俺に向かって手を差し出した。

「腕、見せて頂戴」

「え?ああ」

彼女は俺の手を取ると、手早く器用に包帯を巻き直した。時折、「キツくはない?」と問い掛けながら、あっという間に巻き直してしまった。先程とは全く違い、完璧な仕上がりだった。

「へー、お前、結構器用なんだな」

「『もどか』よ」

「え?」

「『お前』ではなく、『もどか』と呼びなさい」

俺の事を下から見上げる格好になった彼女は、頬を赤く染めながら俺を睨み付けた。大きな瞳は潤み、白色の室内灯に照らされ、キラキラと輝いていた。

「『様』はつけなくていいのか?」

俺がからかうと、彼女はすねたように口を尖らせた。

「あれは皆が勝手にそう呼んでいるだけ。ちゃんと名前で呼んで欲しいの。…その、あ、あなたには…」

何やら口ごもる彼女の様子が可笑しくて、俺はクスリと笑った。彼女はまた俯いて、俺の返事を待っているようだった。

「分かった。ありがとな、助かったよ、もどか」

そう言うと、もどかは電流に撃たれたように顔を上げ、嬉しそうにニコリと微笑んだ。今まで見た事のない彼女のその表情に、俺は少し照れて思わず頬をかいた。

「私もあなたの事を名前で呼ぶわ、勝一さん」

「俺の名前、知ってたのか?」

「気になる事はとことん調べる性格なのよ、私は」

小さくピンク色の舌を出し、片目をつむってみせる。意外にお茶目なヤツだ。そう言ってもどかは俺に背を向け、病室のドアに手を掛け、背中越しに言った。

「勝一さん。あなたがこの一週間何をしていたのか、言いたくないのだったらもう聞かないわ。言いにくい事なんて誰にでもあるもの。ただ…」

彼女は振り返ると、不敵な笑みを浮かべた。

「私に目をつけられたからには、これ以上秘密を作れるとは思わない事ね」

そう言ってもどかは病室を後にした。

これはまた面倒な事になりそうだ。それにしても、ただのワガママなお嬢様だと思っていたが、結構優しい所あるんだな。沢木に対しては虫けらのような扱いだったが。

…そう言えば、沢木の事をすっかり忘れていた。アイツも一応怪我人だ、早い所呼び戻してやろう。

俺は病室のドアに手を掛けようとした。

その瞬間、内開きのドアが勢い良く開いた。

「へ?」

頑丈なドアは、俺の体を簡単に弾き飛ばした。受け身も取れず、床に叩きつけられた俺は、全身を駆け巡る激痛に声にならない悲鳴を上げた。

「あー!見つけたぞ!福泉しょーいちぃー!」

痛みに悶える俺の耳に、甲高くでかい声が飛び込んできた。この声、顔を見るまでもなく誰だか分かった。

「ち、千川原ぁ…お前なぁ…!」

栗色の髪をツインテールで束ね、頬を桃色に染める小柄な丸顔童顔。美少女転校生として、転校初日から学内の話題をさらった千川原美夜である。

「ずーっと君の事探してたんだからね!そんな所で寝っ転がってないで、アタシの話を聞いてよー!」

…誰のせいで寝っ転がってるんだと思ってやがる。喉まで出かかった言葉を飲み込み、俺は無言で体を起こした。全身の痛みよりも、キンキンと頭の中に鳴り響く、コイツの声の方が煩わしい。

「…話って何?」

千川原は、俺の目線に合わせて身を屈めると、鼻先がくっつきそうな程、顔を寄せて俺を凝視した。

「やっぱり君でしょ、アタシにぶつかったの」

千川原の温かい吐息が俺の唇に掛かり、俺は赤面して思わず顔を背けた。

「だから違うって言っただろ?」

「ウソだー!絶対そうだもん!」

千川原は更に俺に近づき、俺の顔を強引に自分に向けようとした。堪らず俺はその肩を掴み、彼女を引き剥がした。

「人違いだってこの前散々言っただろーが!それにお前、ぶつかったヤツの顔を見てないって言ってだろ?」

「それはそーだけど!君の顔を見た時にピンっと来たの!あ、この人だって!」

「そんな根拠もない意味不明な直感で俺に付きまとうな」

「根拠ならあるもん!」

妙に自信ありな様子で、千川原は叫んだ。

「…何だよ、その根拠ってのは?」

千川原は自分の胸に手を当て、自信満々な顔で言い放つ。

「女の勘よ!」

俺は思わず脱力してしまった。本当に何なんだよこの女。呆れたヤツだが、確かにぶつかったのはこの俺だ。絶対に見られていない自信はあったが、身を隠すようになってから見破られたのはコイツが初めてだ。こう見えて、本当に勘は良いのかもしれない。

「だーかーらー!」

そう言って千川原は無理矢理俺の腕を引っ張り始めた。

「いてて!おい止めろ!何するつもりだ!?」

「一回君にタックルすればハッキリするから、早く立ち上がってよ!」

「馬鹿かお前は!俺は怪我人なんだぞ!?」

「大丈夫!痛くしないから!」

「意味不明な事言うな!痛いに決まってるだろうが!?」

必死に抵抗する俺に、負けじとしがみつく千川原。その内に俺達はもつれ合う形でバランスを崩した。

「危ない!」

俺は咄嗟に千川原の後頭部に左手を回して抱き起こそうとしたが、間に合わずそのままベッドの上に倒れ込んでしまった。千川原の下敷きになった左手の激痛と共に、むにゅ、と右手に何か柔らかい感触を感じた。

「…痛っ…!千川原、大丈夫か?」

俺がそう問いかけると、俺の体の下にいる千川原は、顔を真っ赤にして俺を見つめながら硬直していた。どうやら怪我はなさそうだ。俺は千川原を抱き起こそうと、右手に力を入れた。

「あっ…」

また柔らかい感触を感じたのと同時に、千川原は何やら湿っぽい吐息を上げた。

…これは、もしかしなくてももしかすると…

恐る恐る目線を下げた俺の目に飛び込んで来たのは、千川原の形の良い膨らみを鷲掴みにしている俺の右手であった。千川原は何も言わずに、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で恨めしそうに俺を睨み付けていた。

「おーい勝一ィー!聞いてくれよ!さっきもどか様が俺にお見舞いの…」

勢い良く開いたドアから、満面の笑みで病室に入って来た沢木は、俺達の姿を見て持っていた紙袋を床に落とした。落ちた弾みで中から出てきたのは何やら高そうなチョコレート箱だった。

そのまま呆然と俺達を見つめる沢木の目には、今の状況がどう見えているのだろうか?自分の病室の、自分のベッドの上で、自分の友人が、美少女転校生の胸を揉みしだいているこの状況が。

無言で立ち尽くしていた沢木は、やがてワナワナと肩を震わせ始めた。

「…やっぱりお前の事なんて大っ嫌いだッ!バカヤローーーーー!!!」

涙と鼻水でいっぱいにした凄まじい形相で叫ぶと、沢木は病室を飛び出していった。俺は今日、唯一の友人を失ったかもしれない。

「…離して」

千川原は先程までとは打って変わって、小さな声で呟いた。俺がそうっと千川原から体を離すと、彼女は無言で起き上がり、乱れた制服を整え始めた。いつもと違う雰囲気に、俺は焦りと恐怖を覚えた。

「あ、あの、誤解なんだよ…俺はお前が怪我をしないように、その…」

慌てふためいた俺が何を言っても、千川原は何の反応も示さず俯いていた。その事が俺の恐怖心を更に掻き立てる。いっそビンタでもされる方がマシだ。

…そうだ、こう言う時に言い訳するのは男らしくない。潔く覚悟を決めよう。俺は千川原に向かって、深々と頭を下げた。

「千川原、俺が悪かった。お前の気の済むようにしてくれ」

千川原は無言で立ち上がると、俺の前に仁王立ちした。俺は歯を食い縛り、瞼を強く閉じてその時を待った。すると、頬にそっと、温かく柔らかい掌が添えられたのを感じた。

…ビンタじゃないのか?俺は薄目を開けて状況を確認しようとした。目の前に千川原の顔がある。そのままどんどん彼女の顔が、俺の顔に近付いてくる。

…これではまるで―

「な、何してんだお前!?」

咄嗟に身をよじると、千川原は桃色の頬に赤みを加えた真剣な表情でこう言った。

「…責任、取りなさいよ」

「せ、責任?」

「アタシの、お、お、お…おっぱい触ったんだから、責任取って結婚しなさいよ!」

この時の俺の驚きを、どう伝えれば表現出来るだろうか?

事故で胸を揉みしだいた相手に、ビンタではなくプロポーズを受けた俺の驚きを。

「何でそうなる!?あれはわざとじゃないって―」

「ママが言ってたもん!『女の子は、一番最初におっぱいを触られた男の子と結婚するもの』だって!」

「そんなふざけた風習、日本にはない!」

「ママもそーやってパパと結婚したって言ってたもん!」

「そんなアホな事やってるのはお前んとこの家族だけだ!!」

ギャーギャーと不毛な言い争いをしていた俺達は、肩で息をしながら睨み合った。

「とにかく!」

千川原は床に転がっていた自分の鞄を拾い上げると、ビシッと俺を指差した。

「ぜーったいに責任取ってもらうからね!覚悟しなさいよ!しょーいち!」

それだけ言うと、俺を睨み付けながら走り去って行った。俺は何だかもう、途方に暮れていた。


「お前やるアルなー。隊長の言った通りアル」

突然背後から声が聞こえた。驚いて振り向くと、病室の開け放たれた窓から、伊凛がニヤニヤしながらこちらを見ていた。

「どうやってここに…ここ病院の三階だぞ?」

「どうって、飛んで来ただけアル」

さも当然のようにそう言うと、伊凛はひょいと部屋に入って来た。まあ、もう何回もこの連中が飛び回っているのを見ていたし、今更驚きはしないのだが。

「お前、誰かに見られなかっただろうな?」

「ん?何でそんなこと気にするアル?」

「普通の人間は空を飛んだりしないからな」

「へー、不便アルな、人間って」

お前も人間だろ、と心の中でツッコミを入れる。伊凛は物珍しそうに病室を見渡すと、ベッドの上に飛び乗った。

「あいやー、それにしても鮮やかだったアルなー。さすがフラグ建築士アル」

先程と同じ、何かしら意味を含んだにやけ面で伊凛は俺を見た。フラグ建築士って言うのは、十田と初めて会った時に彼が俺を指して言った言葉だ。それにしても伊凛のこの微妙にムカつく表情が気になる。

「どういう意味…」

「あー!ちょこれーと!」

急に声を上げて伊凛は俺の脇を走り抜けると、地面に転がっていたチョコレート箱を手にして、目を輝かせた。

「なーなー、これ食って良いアルか?」

無邪気にはしゃぐ伊凛は、俺の返事も聞かずに包装紙をバリバリと剥がしていく。ま、別に構わないだろう。どうせ沢木のものだし。

「なーなー!このちょこれーと、何でイチゴの形してるアル?」

伊凛はチョコレートを一粒取り上げると、興奮気味に問い掛けてきた。確かにそのチョコレートは、丸々と大きなイチゴの形をしている。

「イチゴをチョコレートでコーティングしてあるんだよ。中身はイチゴだ」

そう言うと、伊凛は一際目を輝かせて飛び上がった。

「やったアル!伊凛はイチゴ大好物!」

ヨダレを垂らしながらその一粒を口に放り込むと、伊凛は雷に撃たれたように目を見開き硬直したかと思うと、やがてぶるぶると震え出した。

好吃ハオチーー!」

突然、声の限りに中国語を叫び始めた。良く分からないが多分、美味しいとかそう言う意味だろう。

「すげーアル何これこれ何アルまじちょうやべぇはんぱねぇーアル!天才!これ作ったヤツ天才!…んー!超好吃チャオハオチーーーー!!いちごをちょこれーとで包むとか普通ありえねーアル!!」

パタパタと部屋の中を走り回りながら、ムシャムシャとチョコレートを貪り食う伊凛。その姿はまるで大好物を与えられた犬のようである。今にも千切れんばかりに振りまくる尻尾が見えてきそうだ。こんなに喜んでもらえたら、これを作ったヤツとやらもきっと本望だろうよ。

「おい、ここ病院なんだから静かにしろ」

「お前にはやらねーアルからな」

「いらねーよ。それよりさっきの、どういう意味だよ?」

「んー?ああ、そうだったアルな」

伊凛は指先にこびりついたチョコをチュパチュパとしゃぶりながら、ベッドの上に座り直した。

「さっきお前が立てたのは典型的な、《恋愛フラグ》と《友情フラグ》アル。こんな短時間にこんなに立てるなんて驚異的アル」

そう言って、食べ終わったチョコレート箱を後ろに放り投げる。何て行儀の悪いガキだ。

「お前がその気になれば、あの女達、まとめて「手ごめ」に出来るヨ」

俺は思わず咳き込んでしまった。伊凛はそんな俺の様子を不思議そうに見ている。

「て、手篭って…ガキの癖に難しい言葉知ってやがるな」

まあ、この様子からするとちゃんとした意味は理解していなさそうだが、言いたい事は分かった。

つまり俺は、先程の俺自身の言動によって、もどかと千川原、二人の女の子と仲良くなれる『伏線』を張ったという事だろう。

「だけど俺、別に好かれようと思ってした訳じゃないぞ。むしろ逆に嫌われるような行動だと思うが…」

「チッチッチッ…分かってねーアルな。これだから素人さんは…はぁ」

わざとらしく大きなため息をつく。このガキ、ひっぱたいても良いだろうか?

「つまりそれが、パンピーとフラグ建築士の違いアル。普通の人間は一本のフラグを立てるのにめちゃめちゃ努力が必要アル。恋愛フラグで言ったら、運動したり着飾って容姿をみがく・高価なプレゼントで気を引く・良い車やブランド品を身につけて金持ちアピールをする等々、涙ぐましい血のにじむよーな苦労をして、よーやくフラグが立つか立たないかって話になるアル。そもそも出会いを引き寄せるのにも運が必要だしナ。だけど、お前みてーなフラグ建築士にはその必要がないアル」

チョコまみれの指で俺を指し、伊凛は話を続ける。

「何故なら、フラグ建築士はその出会いとフラグを同時に引き寄せるからアル。自分の望む、望まないに関わらず、お前の取った行動がそのまま相手の好意向上に繋がるアル。それが、フラグ建築士の才能ヨ」

…確かに、思い当たる節はある。人間関係が煩わしく、わざと嫌われようと思った行動が逆効果になった事が今まで何回もあった。今回の件にしたって、ぶつかった千川原から隠れた事、もどかに教科書を貸さなかった事、沢木を見捨てた事が原因である。

「いや待て。って事は沢木のは、友情フラグだって事だろ?考えてもみろよ、それはないんじゃないか?俺アイツに嫌われたみたいだし」

「お前、今まで何回アイツに『嫌い』って言われてル?」

「……」

「そーゆー事アル。本当に嫌いなヤツには『嫌い』なんて言わねーダロ?『嫌い嫌いも好きのうち』ってヤツアル」

「…それを言うなら『嫌よ嫌よも好きのうち』だよ」

じゃあつまり、千川原が胸を無理矢理揉まれておいてプロポーズしてきたのも、もどかが急に優しくなったのも、沢木がアホなのも、アイツらがおかしいのではなく、俺がフラグ建築士だった事が原因だと言う事なのだろうか。何だか頭が痛くなってきた。

「フラグ・クラッシャーは、今言ったフラグがうまくいくよーに陰から手助けする事も仕事の一つアル」

「手助けって具体的には何をするんだ?」

そう言うと、先程まで饒舌に語っていた伊凛が、急にベッドに寝っ転がって大の字になった。

「…めんどくせーから説明したくねーアル」

どうやら飽きてしまったようだ。心なしか一瞬、そう言った伊凛の顔が曇ったような気がした。

「ところでお前、何しにここに来たんだ?」

その言葉に伊凛は凄まじい勢いで跳ね起きた。

「やっべぇー!忘れてた!マリアからお前を呼び出すよーに言われてたアル!一時間以内に戻らねーと殺されるアル!」

「殺されるって…大げさだな」

「殺されるのはお前アル」

「何で俺なんだよ!?で、残り何十分位あるんだ?」

「えーと、残り五分アル」

「…バカかお前!五分で戻れる訳ないだろうが!?本部まで車で三十分は掛かるぞ!?」

本当に殺されはしないにしても、遅れればどんな制裁が待っているのか。

…あの女ならやりかねない。俺の焦燥を余所に、伊凛は悠々とベッドから飛び降りて胸を叩いた。

「任せろヨ!伊凛なら「ヨヨイのヨイ」でひとッ飛びアル!」

「それを言うなら「チョチョイのチョイ」だ!」

「そうとも言うのカ?」

「そうとしか言わねーよバカ!」

「バカって言うナー!バカって言うヤツがバカだって隊長が言ってたアル!」

「どうでもいいからとっとと行け!」

「うるせーヤツアルな!お前重そーだから伊凛の足につかまれヨ!」

言われた通りにその細い足首を掴むと、彼女と俺は凄まじい勢いで飛び上がり、病室の窓から飛び出した。

「お!おいコラ!もうちょっとゆっくり飛べー!!」

「うるせーナ!マリアに殺されても良いアルか?」

「その前に地面に叩き付けられて死んじまうだろーが!?」

「男のくせにグダクダ言うんじゃねーアル!」

高速道路を時速百㎞で走行している車の窓から顔を出した時のような圧倒的風圧と、下を歩く人々が豆粒に見える程の高さを飛んでいる恐怖とに、俺は必死で格闘していた。ちょっとでも気を抜けば、地面に叩きつけられて一巻の終わりだ…!

尚も凄まじい早さで飛ぶ伊凛は、本部とは逆の方向に向かっていた。

「どこ行くんだ!?本部はそっちじゃないだろ!?」

「あれ?お前ニュース見てねーアルか?」

「見てねーよ!何の話だ!?」

「立てこもり事件アル」

またまた素っ頓狂な事を抜かす伊凛。吹き荒ぶ風に向かって俺はやっとの思いで叫ぶ。

「だからなんだってんだよ!?」

「武装集団が大型ショッピングセンターを占拠して、たくさんの人質と一緒に立てこもっているアル」

強烈な風音に遮られ、伊凛の話した事はほとんど聞き取れなかった。

ただ、この一言だけは、やけにハッキリと俺の耳に届いた。

「FCD、出動アル!」

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