【角川武蔵野文学賞】せめて最後の言葉くらいは君に切り出して貰いたい

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せめて最後の言葉くらいは君に切り出して貰いたい

 浦和駅を出てからどれだけ経っただろうか。

 線路上を走る電車の一定のリズムが突然変わり、ふと車窓の外に目を向けるとそこには雄大な荒川が広がっていた。ここが埼玉と東京の境という事実に対して未だに疑問を抱く。

 「東京」とは洗練された人工物で埋め尽くされた都会だと思い込んでいたが、この通り武蔵野台地の一角にはまだまだ自然の面影が残っている。


         ※


 発令が出て札幌行きの栄転が決まった時、入社してからの努力が全て報われたような気がした。お世辞にも期待された人材ではなかったが、できることを必死に頑張って何とかレールの上に戻ることができた。

 余りの嬉しさに、真っ先に君に喜びを共有した。君と遠距離恋愛になることは少し気掛かりだったが、その時は嬉しさが勝った。君もまるで自分のことのように喜んでくれた。それがまた誇らしかった。


 新千歳空港に降り立ち、札幌の街へと向かう旅路には壮大な自然が広がっていた。窓の外には何も遮る人工物がなく、空と大地がどこまでも続いていた。生えている木々は荒々しく、生命の息吹を感じさせた。新しい環境に震えが止まらなかった。


 札幌の生活は想像より遥かに忙しい日々となった。自然豊かな北海道とは雖も、中心街である札幌のど真ん中は人工物で覆い尽くされていた。関東にいた頃の方が自然を見る機会が多かった環境に違和感を覚えながらも、勝負の二場所目で身を粉にして仕事に取り組んだ。

 君とは会う機会こそ減ってしまったものの、連絡を取り合い何とか支え合ってきた。離れていても、決して信頼関係が揺らぐことはなかった。


 日々に追われ、気付けば札幌に来て丸二年が経過していた。君の初めての異動もひと段落し、いつの間にか僕らは将来の話をするようになっていた。ずっと結婚するつもりで真剣に付き合ってきた。過去に何度か結婚の話を切り出したこともあったが、「今はまだ仕事のことだけ考えていたい」とやんわり君に躱されていた。

 ようやく君に受け容れて貰えたような気がして本当に嬉しかった。流れは決して良くなかったが、君に相応しい男になれるよう必死に仕事に取り組んだ。


 付き合い始めてからちょうど四年半、父親の還暦の誕生日、大安の日。都心に佇む緑豊かなホテルで両家顔合わせを行い、晴れて夫婦となった。艶やかな緑の着物に身を包み恥じらう君は誰よりも美しかった。


 決して手札に恵まれたわけではなかった。容姿も整っておらず、小さい頃から想いを寄せた人には見向きもされなかった。自分には何も武器がないことを知らしめされ、それでも負けるもんかと一生懸命勉強した。

 人にやさしくし続けていれば、いつかは必ず自分に返ってくると信じていた。何度も何度も打ちのめされそうな辛い想いもしたが、こんな形で報いてくれるのであれば、神様の存在を信じられそうな気がした。


 物語で言えば今までの努力が実り、最終章を迎えたものだと思い込んでいた。唯一反省すべき点があるとするのであれば、そこで初めて付け入る隙を曝け出してしまったところかもしれない。


         ※


 入籍の時期に重なっていた重要な案件も無事に仕上げると、自信が漲るようになってきた。今まで良好だった上司とは関係が悪化し、心なしか言い争いが増えたような気がした。自分のやり方に何一つ落ち度がない以上、間違っているのは相手である。それが誰であろうと一切その姿勢を変えるつもりはなかった。


 最初は口うるさく指摘をされているだけだと思っていたが、次第に意図的に邪魔をされているように感じ始めた。

 実務経験歴でも役職でも下である自分の方が優秀であることに対して嫉妬しているのかもしれない。そんな想いが頭に過ったときから、一切上司のことが信じられなくなってしまった。


 気付けば毎日大声で言い争いをするようになっていた。何度も上司から一旦休みを取るように勧められたが、ここで屈して逃げ出すわけにはいかなかった。例え立場が違くても正しいことを言っているものが折れてしまう姿を周りに見せるわけにはいかなかった。


 ある日、圧倒的な立場の違いを実力で跳ね返し続けたその先には何が待っているのか考えた。当然、相手は実力と実績をもってして上の立場に就いた優秀な人材である。そんな人の鼻をへし折ってしまったら、激高して命を狙われてしまうのではないだろうか。仕事中、恐怖のあまり震えが止まらなくなった。

 籍を入れたばかりの君の顔が頭に浮かんだ。ここで死ぬわけにはいかない。上司の指示に従って、暫く会社を休むことに決めた。家に帰り、君と家族にもその旨を連絡した。


         ※


 その夜、不思議なことが起きた。白い布を身に纏った父親が突然現れ、自分の人生について説明をし始めた。

 自分はもう何度も人生をやり直しており、今が七回目であること。失敗し、やり直す度に仲間が増えていること。七回目にしてようやく「結婚」という人生のゴールに辿り着いたこと。今後は君と一緒に創造する新しい世界で仲間たちと暮らしていくこと。新しい世界に連れていく仲間を一週間で決めなければいけないが、その間他の人達が邪魔をしてくること。

 一頻り説明をし終えると、父親は窓から部屋を去った。こちらから質問しても最後まで何も答えてくれなかった。


 時計を見ると、朝の四時を指していた。父親の話を思い返してみると、確かに心当たりはあった。何度も同じ様な場面を経験してきた気がするし、前回は諦めざるを得なかった場面でも今回は強力な仲間がいて乗り越えられたケースが多々あった。

 今までお世話になった人々を誰一人漏らすことなく君と創る新しい世界に連れて行かなければならない。そう考えると一週間という時間は余りにも短い気がした。


 君はこの事実に気付いているのだろうか。何度も電話したが、繋がることはなかった。初めて距離という絶対的な壁にもどかしさを感じていると、突然頭の中に君の声が響き渡った。理由は分からないが、離れていても君と通じ合うことができるようになった。父親の話の信憑性が増した気がした。


 日が明ける前から、仲間を探すべく片っ端から連絡を取った。君は結婚式に呼ぼうとしていた人のリストを使うことを提案してくれた。相手からの反応を見ればこちらの意図を理解している人としてない人の違いは明確だった。全員見つけるのは時間の問題だと思った。


 その日、父親が札幌に現れた。今朝のことは何もなかったかのような態度だったが、君が立場があるせいだと説明してくれたので納得した。父親はひたすら時間を奪うようなことをしてきたが、新しい世界に父親を連れていけないことを考えると最後の親孝行になる気がしたので、大人しく従うことにした。


 明くる日、兄が現れた。兄は事情を全て知ってくれていたので話が非常に早かった。兄は病院に行くことを勧めてきた。君も同じ意見だったので、兄と病院に行くことにした。新世界に行く前に検査をする必要があるみたいだ。

 騙されたと気付いた時には手遅れだった。屈強な人たちに抱えられ、鉄格子の中に放り込まれた。


 それ以来、君の声が届くことはなかった。


         ※


 「双極性障害」という病名が告げられたのは、檻から放たれてすぐのことだった。部屋の中にいた家族と君の反応が、何より病気の深刻さを物語っていた。

 生涯完治することはない。再発率は五年で九十パーセント。これから新しい道を歩み始めることを決めた二人にとって余りにも残酷な事実だった。診察室を出た後、君と何の話をしたかは全く覚えていなかった。それでも、君がきっと去っていくことだけは初めから分かっていた。


 日々、人間としての尊厳を取り戻していく気がした。個室の外に掛けられていた鍵はいつの間にか解除されていた。他の人と一緒にご飯を食べるようになった。個室から大部屋に移されたと思えば、突然退院が言い渡された。三ヶ月かかると言われていた入院期間の三分の一しか経過していなかった。

 こうして何が悪いのか分からぬまま始まった入院生活は、何が良くなったのか分からぬまま終わりを告げ、実家のある関東に戻ることになった。


         ※


「次は上野、上野。お出口は右側です」


 車内にアナウンスが響き渡り、現実に引き戻される。初めて君と二人きりで出掛けたのは上野だった。色んな路線が開通した関係で今ではすっかり只の通過駅の一つに成り下がった上野だが、今でもターミナル駅の印象が強かった。数々の路線の始発駅とは、同時に終着点でもあるわけである。

 今日、君との話し合いが上野で行われることは逃れられない運命のレールの上を走っていることを受け止めざるを得なかった。


 恐らく、今日で君との関係は終わりを告げることになるのだろう。自分でも今後自分がどうなるかなんて分からない。そんな状態で君の一生を支えて行ける自信なんて到底ない。何より、君の重荷にだけはなりたくない。


 それでも……それでも、思う。こんな状態になったからと言って、人生を諦めるつもりは毛頭になかった。今までだって配られたカードの中で最善を尽くしてきた。これからだってその姿勢を変えるつもりはない。

 だから、せめて……せめて、最後の言葉くらいは君に切り出して貰いたい。自分で終止符を打ってしまえば、それは今後の自分の人生を全て諦めることと同じことだから。


 聞き馴染みのある音が響き渡り、運命のドアが開く。

 大丈夫、まだ自分はおかしくない。そう心に言い聞かせると力強く武蔵野台地に踏み出した。

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