ダブルデッドライン
いちはじめ
ダブルデッドライン
コンビニで手早く夕食用のジャンクフードを買うと、彼は足早に家路についた。
今日は、定時で帰るつもりだったのだが、上司から仕事を押し付けられて、こんな時間になってしまった。
彼は、会社勤めで糊口を凌ぎながら、小説家を目指している。これまで、数々のコンテストに応募しているが、まだ佳作にさえも入選したことはない。
今書いている小説も、あるコンテストに応募するつもりだが、どうにもラストが決まらなくて悩んでいた。
応募の締め切りは、本日の日付が変わるまで。
彼は歩速を速めた。
アパートの自室に帰った彼は、シャワーを浴びると、食卓兼執筆場所であるテーブルに、ノートパソコンと創作用のノートを広げ、サンドウィッチを頬張りながら執筆を始めた。
――中盤でキャラクターたちの対立軸が反転して、無罪を証明するはずの証拠が、逆に有罪を証明してしまう。これでいいんだが、ラストがあっさりしすぎて、どうにも盛り上がりに欠けるな。
何通りも考えたラストを、もう一度検証しているが、やはりしっくりこない。彼は袋小路に入り込んでいた。
締め切りまであと四時間。
気分をリセットさせようと、彼は冷たいミネラルウォーターを一口飲んだ。冷たい水が口内から食道をなぞって、すっと胃に落ちていくのを感じた。するとそれに引きずられるように、頭の中で何かが顔を覗かせたような感覚がした。あっこれだと、それを引っ張り出そうと、まるで木に登って降りられなくなった子猫を、優しく捕まえようとするかのように手を伸ばした瞬間、インターフォンが鳴り、それは引っ込んでしまった。
――誰だ、こんな時間に! くそっ、もう少しで掴めるところだったのに。
ドアを開けると、小太りの中年女性が、小冊子を手に立っていた。
「こんばんは、こんな夜分に申し訳ありません。私、『仏に仕える巫女教会』から来た者で――」
「帰ってくれ、俺は今忙しいんだ」とドアを閉めようとしたが、彼女はドアの隙間に片足を差し入れ、澄ました顔で話を続けた。
「ほ~らそうやって、苛ついている。現代人は神への信仰を失くしたせいで、あなたのように――」
ドアを挟んで激しい攻防戦が繰り広げられている。彼女の力が思いのほか強く、なかなか決着がつかない。
「宗教に興味はないんだ、ほっといてくれ。それになんだ『仏に仕える巫女教会』って、仏と巫女と教会って矛盾しているだろう」
彼が腹立ちまぎれに放った言葉を、まるで待っていたかのように彼女は勢いづいた。
「そう、そこなんですよ。今、色々ある宗教は、人間が自分勝手に作ったものなんです。本当は、神は一つ。それが我々のたどり着いた真理で――」
もう埒が明かない。彼は力を少し緩めてドアの開度を大きくすると、――こんばんは、今日は遅いですね――と帰ってきたばかりの隣人に挨拶をするふりをし、彼女がそちらに気を取られた瞬間に主導権を奪い返し、強引にドアを閉めた。しばらく彼女はドアの外で御託を並べていたが、そのうちいなくなった。
なんてことだ、時間ばかりか気力も奪い取られたような気がした。
締め切りまであと三時間。
彼はもう一度冷たいミネラルウォーターを飲んでみたが、もはや何も浮かんでこなかった。
――こんな時は追いかけてはだめだ。固執すればするほど狙っているものから遠ざかってしまう。
彼はアイデアが浮かばない時や、構想を練る時に、よくヨガをする。ヨガと言っても本格的なものではなく、深呼吸といった程度のものだが。
彼は、ラグの上で座禅を組み、深呼吸を三分ほどゆっくり繰り返した。この時、頭の中を無にするのではなく、作品のストーリーをぼんやりとイメージする。するとそれが緩やかな坂を下るように回りだし、余分なものははじき出され、足りないところは埋まっていく。今、そのイメージはゆっくり止まりかかっていたが、回る勢いが戻りそうな気配もあった。
――もう少しだ。
とその時、固定電話の着信音がけたたましくなり、イメージは霧散した。
――今度は何だ! もう少しで回り切るところだったのに。
「もしもし、じいちゃんだよ」
そのしわがれた声の主は、遠く離れて暮らす祖父だった。
「どうしたの、こんな時間に」
「どうしたもこうしたもないべ。昼間お前が泣きながら電話してくっから、心配して掛けたんだ」
何の話だかさっぱり分からない。ボケ始めているのだろうか。
「何のこと言ってるの、じいちゃん」
「何の事って、取引先の社長のお孫さんを孕ませて、示談金がいるって泣きついてきたでねえか」
「はあ? 取引先の社長のお孫さんを孕ませた? 俺がそんなことするわけないだろう」
「でもおめえ、中学の時に同級生の女の子孕ませて、えれい騒ぎになったでねえか。またやったのかと思って」
「何言ってんだよじいちゃん。あれは彼女の狂言だったじゃないか、忘れたのか」
どうしようもなく怒りが込み上げてきた。
「そうだったかのう。ワハハハ」
「笑い事じゃないよ。それ、オレオレ詐欺だぞ」
「おらもそう思って、電話切ったんだども、その後弁護士から電話があって、ホントなんだべさあと驚いたんだあ」
「まさか、お金払ったんじゃ……」
「いやあ、まずは相手様にお詫びをしてからだと思って、相手様の電話番号を聞いたんだども、その弁護士は、窓口は私ですの一点張りで……、それで、それを教えてもらおうと思って電話してんだ」
もう勘弁してくれと思いながらも彼は、そんな事実はないこと、それはオレオレ詐欺であることを、くどいほど祖父に説明して電話を切った。そしてすぐに両親に連絡を取り、事の顛末を伝え、祖父へのフォローとケアーを頼んだ。
一連の手当を終え、どっと疲れが出た彼はその場にへなへなとへたり込んでしまった。
締め切りまであと一時間半。
気力を振り絞って立ち上がった彼は、体を投げ出すように椅子に座ると、再びパソコンに向き合った。
――まだ時間はある、何としてでも完成させるぞ。
再び思索にふけっていると、二組の足音が部屋の前を横切り、隣の部屋に入っていくのが聞こえた。隣の住人が帰ってきたようだ。
彼は嫌な予感がした。
しばらくして、その予感が外れていないことを知らされた。
安普請の壁を通して、女性の喘ぎ声がしてきたのだ。最初は遠慮がちな小さな声であったのが、次第に大きくなり、しまいには誰憚らぬ絶叫へと変わっていった。
『……ああ~、いい、いいわ……』
『もっと強く……、奥まで突いて~』
そのまま官能小説に引用できるような言葉のオンパレードである。
心が千々に乱れた彼は、何も手を付けられなくなり、耳をふさいでテーブルにうつ伏した。
――よりによって、何故、今夜なんだ。何で俺の邪魔をする。
隣はついにクライマックスに到達したのか、女性の叫び声が一段と大きくなった。
『ああああ~、いく~、いっちゃう~』
――どこへでも行ってしまえ、二度と帰ってくるな――、と心の中で罵声を浴びせた瞬間、突然頭の中を覆っていた靄が一気に晴れ、ラストが見えた。
――行ってしまう。帰ってこない。そうだ、ラストはこれだ。
犯人は宇宙飛行士で、彼は今まさに宇宙に旅立とうとしている。しかもそれは地球から4.5光年離れた恒星への探査飛行で、二度と帰ってくることのない旅なのだ。今捕まえなくては永遠に取り逃がしてしまう。
彼はこのラストに合わせて、大急ぎで小説の手直しを施した。そしてラストの一行を原稿にこう打ち込んだ。
宇宙船打ち上げまであと五分
彼がすべてを終えたのは、応募締め切りのきっかり五分前だった。
ダブルデッドライン いちはじめ @sub707inblue
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