妲己の巻・2

「私は紂王のおっしゃることを受け入れました。国が滅ぶことを受け入れずに、全力であがく彼を支援したいと思ったのです」

 玉藻前は静かに語る。


「……どうしてですか?」

「その時の彼の眼差しがあまりにもまっすぐでしたので」

 ひょうすべの質問に、てらいのない答えが迷わず返ってくる。


「それから紂王は、君主としての義務を懸命にまっとうされました。私も彼の妻として可能な限りそれを支援しました。時に、一軍を率いる役目を任されて働いていたこともあります」

「……へ?一軍を率いる?」

 玉藻前の涼やかな声で語られる話に、黙して聞き入っていたひょうすべは間の抜けた声を上げる。


「ああ、そういえば殷の第23代王・武丁の奥さんの婦好も軍勢を率いていたらしいね」

 お茶を飲んでいた酒吞童子が、目を丸くしているひょうすべに説明する。

「へえ……そうなんですか。知らなかった……」


 とひょうすべは言いながら、その様子を思い浮かべる。

 女性ながらに、鎧をまとい武器を携えて軍を指揮する――女性将軍といってもいいだろう。

(なんか凛々しくてかっこいいなあ……)

 などと感想を抱いたひょうすべは、ふと別のことを考えた。

 妲己。稀代の悪女。美貌によって首を滅ぼした妖女。

 そうした退廃的なイメージとはかけ離れた、滅びゆく国を救おうと必死に戦った女性将軍。


 自分が妲己について、知っていたことは紂王を惑わして悪政を敷かせていたことと、様々なむごたらしいことをさせて楽しんでいた『悪女」であるということぐらいだ。

 紂王についても、むごたらしい刑を執行してそれを妲己と共に楽しんだ暴君であるというイメージしかない。

 

 だがそれは、果たしてどこまで本当のことなのだろう。

 よく考えてみれば殷を滅ぼした国が自分たちのやったことを正当化するために流した虚偽の情報ではないのか。そんな疑問が脳裏に浮かんだ。


「どうしたんだ?具合でも優れぬのか?」

 黙り込んで考え込むひょうすべに、それまで黙していた大嶽丸が涼し気な声で問いかける。

「あ、いえ。その……」

 ひょうすべが脳裏に浮かんだ疑問を言葉にして伝えると、酒吞童子が頷く。


「ああ、考古学の研究では、紂王や妲己の暴君像や悪女像は創作であるという見方が強まっているらしいね。そういえば『歴史はいつでも敗者に背を向けて、勝者を正しいとするものだということを忘れてはならない』って格言があったかな。あれ誰のだっけ?」

「シュテファン・ツヴァイクという人物ですね。オーストリアの作家です」

 酒吞童子の問いかけに、玉藻前がよどみなく答える。


「ともあれ、それでも殷という国が滅ぶという天の決定は揺るがず、国は滅びました。必死に戦った殷の軍は大敗してしまい、紂王は自殺なさいました」


 一国が滅んだいきさつを、ひたすら淡々と語る玉藻前の声は鈴の音色のように澄み切っている。その玲瓏とした響きの底に淡い翳りをにじませて。


「そして私も、周の武王により殺されました。いえ……正確には通常の武器では私は殺せぬのですが、私は殷と紂王を救うことができなかったことに茫然自失となり、剣で斬られてそのまま、倒れました。これ以上戦う気力を無くした私は、傷の修復もせず死体のようにぴくりとも動きませんでした」


 そう言って、玉藻前は淡い桜色の唇を閉ざした。

 彼女は、自分が国を滅ぼした悪女としてそしられたこと時代はさして気にしていない様子だった。


「そうして私は、殷が滅んだ後何もできなかったことを悔やみながら、しばらく狐の姿に戻って過ごしていました」

 そう言って玉藻前はふうと吐息をついた後に、ひょうすべに視線を向ける。


「これで、殷が滅んだいきさつは終わりです」

「……えっとあの、すみません。辛いことを話させてしまって」

「いえ。私よりつらい思いをしたのは、紂王や殷の人々ですので」


 ひょうすべは申し訳なさに顔を俯けて詫びるが、『国を滅ぼした悪女』という汚名を押し付けられた玉藻前は、変わらず淡々と澄んだ声で答えが返ってくる。


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いきなり濡れ衣着せられました。 緑月文人 @engetu

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