TR-39 - Please, Please, Please Let Me Get What I Want

 部屋に戻るとテディはヘルメットを床に置き、レザージャケットを脱いで無雑作にソファに引っ掛けた。ラグに直に坐り、テーブルの上に置きっぱなしだった煙草の箱を手に取り、箱のふちをぽんと叩いて一本振り出し、口に咥える。

「やれやれ。今度はニコチン中毒になったか」

 慣れた仕種を見てそう云うと、テディは煙草に火をつけながら苦笑した。ルカもその顔を見ながらふっと笑みを溢し、そこに立ったままハング窓の下辺りに視線を移した。

 ほんの六時間ほど前――ここに同じように立っていたときは、完全にテディが死んでしまったと思いこんでいた。あの世界が色も音も温度も失ったような、もうこの世になにを求めることもないような果てしない絶望感を、ルカは一生忘れないだろう。

 ロンドン同時爆破事件のときはただの不安でしかなかったが、今回はその不安を通り越し、自分にとっては現実になっていたのだ。愛情がもうなくなってしまったのかと悩んだ日々も、今となっては莫迦らしい。あんな思いを愛もなにもなくてするわけがない。ルカは思った――自分が失くしたのは愛ではなくて、執着だ。

 振り返ってテディを見つめる。テディは煙草の煙を燻らせながら、なにか考えこむように俯いていた。その様子を見てルカはしょうがないな、とテディの前にしゃがみこんだ。するとテディは一瞬目線を上げ、逸らし、なにかをごまかすように灰皿を取って煙草を消した。

 テディが自分になにか話があるのだということは、ついてきてと云われた瞬間からわかっていた。ひとりでは持てない荷物があったとしても人を頼ろうとしないテディが、着替え程度のことでついてきてくれと云うわけがない。

「……あのさ、ルカ……」

 やっとテディが重い口を開いた。ルカは「うん?」と胡座をかいて、わざと緊張感のない返事をした。

「変なこと聞くけど……、俺ってルカにとって、どういう存在……? いや、もう別になんとも思ってないならそう云ってくれればいいし、一緒にバンドでやっていければ、俺はそれだけでもいいんだ。けど、ちょっと……」

 テディは無理に笑おうとするかのように、口角を上げた。「ちょっと、訊いてみたかったんだ……。その……やっぱり、もう俺たちってだめなのかなって……だめならもう一回、はっきり云われたくて」

 ルカは暫しの間テディの顔をじっと見つめていたが、やがてはぁ、と深く溜息をついて項垂れた。

「ユーリとはなにがだめだったんだ」

「え……」

「ユーリの奴が云ってたんだよ。手をあげたからもうふられたってな。でもおまえ、そんなことで切れたりしないだろ」

「それは、だから……。俺がそれを云う前に、俺の質問に答えてくれよ……」

「いやだね」

「え?」

 ルカはふん、と外方を向いて、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。

「吸うの? 癖になっても知らないぞ、ヴォーカリストが」

「おまえにそんなこと云われてもな。――俺は今からこの懐かしのゴロワーズ・レジェールに火をつける。で、昔のように吹かし始める。そのあいだに、おまえは肚に抱えてること全部云っちまえ。そうじゃなきゃ俺も云わない。わかったか?」

「なんだよそれ」

「いいから」

 ジッポーで煙草に火をつけると、ルカはふーっと煙を吹きだした。ちらりとテディの顔を見て、わざと煙草が早く燃えるように吸って吐いてを繰り返す。

 それを見て呆れたように天井を仰いで頭を振り、テディはルカの手から煙草を取りあげ、自分で吸い始めた。

「なにやってんだよもう……、人が真面目に話そうと思ってたのに」

「じゃあさっさと話せよ。こっちはもう答えを用意してるんだから」

 飄々とした態度でルカがそう云うと、テディは悪戯いたずらがばれた子供のような顔をした。

「ほら、さっさと云ってみろ」

「……やり直したい」

「なにを」

「……答えは用意してるんじゃなかったの?」

「今のじゃ失格」

「……もういいよ……」

 ソファに凭れて煙草を咥えたまま目を閉じたテディに、ルカは「あー、わかったわかった。悪かった」と云って這い寄った。

 咥えている煙草を今度はルカが取りあげ、一口吸って灰皿に置く。

「煙草の味ってこんなだったかな」

「うん? どんなだった……?」

 ルカは手を伸ばして、左目に貼られたガーゼの下辺りにそっと触れた。

 頬を撫で、顎に手をかけるとルカはゆっくり顔を近づけて口吻けた。何度か角度を変えて重ね、テディが手を頭にまわしてきたのを感じると深く舌を差し入れる。

 お互いに突いたり吸ったりしながらじっくりと味わうと、もうおしまい、の合図のようにぷっくりとした下唇を触れあわせ、ふたりは名残惜しげに離れた。

「……俺、これでもいちおうルカのこと好きらしいんだ……」

「なんだその云い方。いちおうとからしいとか……ちゃんと愛してるって云えないのかよ」

「だって……俺がそんなこと云ったって、ルカ、信じられる? 俺、浮気はするし、なんでもやりたい放題だし、わざと怒らせるようなことはするし……」

「だから、俺はもう怒らないだろうが」

「……だから、もうなんとも思われてないんだと思ってた……」

「うん、そういうことなんだなってちょっと前に気づいた」

 ルカはテディの隣で、ソファに頭を預け仰向けに躰を伸ばした。「でも、おまえのそれは病気みたいなもんだから、いくら反省したって直らないだろ? 俺がなにを云ったっておまえがもう絶対しないって誓ったって、今までだってなんにも変わらなかったじゃないか。だから、もういいやって思ってたんだ。でも、ほんとはあまりいいことじゃないんだよな……俺がよくても、おまえがおまえ自身をどんどん厭になるんじゃ困るしな。それに、やっぱり心配だった。ユーリと一緒にいるとき以外はな」

 ユーリの名前をだすと、テディはソファに凭れたまま横を向いてルカを見た。

「短気で手が早いのが玉に瑕だけど、ユーリにはおまえを安心して任せられたんだよ。なのにおまえはふっちまったって云う……で、考えたんだ。おまえの相手はひとりじゃきっとだめなんだよ。ユーリでも俺でも、ひとりとつきあってるとまた同じことの繰り返しになる。だから、オープンリレーションシップでいこうかと」

「は……?」


 オープンリレーションシップとは、簡単に云えば婚姻、または恋人関係にある当事者同士の合意の上で、それ以外の相手とも関係を結ぶことである。

 たとえば、互いに自分以外にも恋人を持つことを容認し合うケース、三人でそれぞれ関係をもつケースなど、ルールやかたちは様々だ。同じようなカップルやグループとスワッピングを愉しんだり、売春が合法な国ではカップルでセックスワーカーを買うというケースまである。


「どういうこと? それって……俺が浮気するならルカもするとか、そういうこと?」

 テディがそう訊くとルカは吹きだした。

「違う違う……そんなのなんの意味もないだろ。おまえが俺とユーリ、ふたりの恋人を持つんだよ。って云うとなんか癪だな……俺が恋人で、あいつはファックバディだっけか。前云ってたな。それでいいじゃないか。ただし、他の男は一切禁止な。俺もユーリも心配でしょうがないから。偶にスリーサムでやりたきゃそれも付き合うさ。いいアイデアだろ?」

 テディは凭れていた背を起こし、まじまじとルカの顔を見下ろした。

「……冗談じゃなくて真面目に云ってる?」

「大真面目」

「だってそんなの……ユーリが相手なら平気なのか?」

「あいつはおまえのこと本気だし、おまえも結構好きだろ? だからなにも心配することはないな」

「そうじゃなくて……なんで平気かって訊いてるんだけど」

 自分が平気かどうかなんて、そんなことは二の次なのだ。ルカは思った。自分にとって大切なこと、いちばんに考えるべきことは――

 ルカは訝しげに自分を見るテディを、愛しげに目を細め、見つめ返した。

「そりゃ、おまえを本当に愛してるからだよ。おまえがなにをやったって、誰と寝たって、俺はおまえがそうしたくてしてるんならちっともかまわないんだよ。おまえがハッピーでいられるんなら、俺以外の誰かとどこか遠くへ行っちまったっていいくらいなんだ。それが本当におまえの意思ならな。ユーリなんていちばん身近で安心な相手なのに、なにをどう気にしなきゃいけないことがある?」

 テディは唖然としてルカの顔をじっと見つめた。

「俺を……愛してるって……? わからないよ、愛してるのにどうして……。俺がユーリのほうを愛してるって云ったらルカ、どうするんだよ……」

「そうなのか? じゃあ俺のほうがファックバディか。別にちっともかまわないさ、おまえがユーリか、他の誰かを愛してるとしても、俺がおまえを愛してることには変わりない。

 ただ、おまえがまた当てつけなのかただの発散なのか知らないけど、滅茶苦茶な遊び方するのはやっぱり、だめだ。俺やユーリがいやだからじゃなくて、おまえ自身によくないからだ。他の男と寝たり俺から離れてどこかへ行ったりしたくなったときは、ユーリのところへ行け。逆でも同じだ……ユーリの奴が短気おこしてまたおまえに手を上げたら、俺のところに逃げてくればいい。それでうまくいかないかと思うんだけどな」

 テディはぽかんとしたまま、脱力したようにまたルカの隣で仰向けになった。

「――いかれてる」

「ああ、いかれてるとも。おまえに合わせてるんだから当然だろ」

「……そこまで云う……」

「俺は云うよ。俺にしか云えないだろ。おまえはどこか壊れてる。だから、おまえが悪いんじゃない。俺は、おまえ自身が嫌ってるおまえのだめなところもなにもかも、ひっくるめて愛してるって云ってるんだ。だからもういい加減観念しろよ。まったく……何回愛してるって云わせるんだ」

「……そうだな……。何回も云われすぎてなんか、なんの重みもない……」

「おい」

 テディはふっと笑って、両手を目の上で組んだ。「嘘だよ。……俺も愛してるよ、ルカ」

 呼ばれた名前は涙声になっていた。ルカは眉一つ動かさない。テディが涙を零したって、本気で愛してると云ったって、きっと自分の心を打つことはないだろうとルカは思った。そのぐらい麻痺していなければ、テディとやっていけはしないのだ。

 今こんなふうに話をしても、テディはきっとまた同じことを繰り返すだろう。うまく自分とユーリのあいだで収まってくれればいいが、ふたりから逃げたくなることもあるかもしれない。ふたりの愛情を同時に測ろうとすることがあるかもしれない。

 それがわかっていても、テディと離れようとは思わない。

 いかれているのは、本当は自分のほうなのだとルカは思う。たかだか二十三、四歳でこんなに醒めた恋愛観を持つのもどうなのだろうと思わなくもないが、これがテディと生きることを選んだ自分の人生ならしょうがない。

 これからもずっと、自分は彼の傍に在り続ける。それは恋人という立場に限ったことじゃない――不安定なテディの揺れを程良い距離で支え、長くバンドを続けていくほうが、恋愛よりもっと大事なことなのだ。

 ルカは起きあがってふぅ、と息をつくと、テディに云った。

「そろそろユーリに持っていくトラックスーツかなにか見繕えよ。おまえも着替えるんだろ?」

「ああ、うん……」

 テディは手の甲で目元を拭いながら起きあがり、ルカを見た。ん? と首を傾げながら、見つめ返した灰色の瞳に吸いこまれるように顔を近づけ、軽いキスをする。

「さ、さっさと戻ろう……ところで、今夜はあのゲストルームは、誰と誰が使うのかな」

 テディは少し考えてから答えた。

「……俺と、ユーリかな」

 予想通りの答えに、ルカは口許だけで笑った。照れ隠しか、でなければ早速、自分の反応を試したか。存分にやればいいとルカはあらためて思う。こんなことくらいで自分は揺らいだりしない。そうでなければ、テディを支えることなどできはしない。

「そうか。ユーリはあの怪我だしな、ちゃんと世話してやれよ」

「うん」

 立ちあがって、相変わらず畳みもせずに放りこまれているバスケットの中の衣服を漁る後ろ姿を見ながら、ルカはふっと笑うと煙草の箱を取って開け、一本振りだし口に咥えた。

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