TR-35 - Sunday Morning

 テディの左目は時間が経つとともに赤から赤紫、あおぐろい紫色と変化し、まったく目が開けられないほど腫れあがってしまった。ユーリはテディに、痛みがあるあいだは冷やし、痛みが薄れてきたら湯で絞った温かいタオルをあて、また冷やすというのを繰り返すようテディに云った。昔、喧嘩で痣を作るのが日常茶飯事だった頃、誰かに教えられた方法だ。

 幸い視力や骨などに異常はなさそうだったし、ふたりともこういうことには慣れていた所為か、病院に行くほどのことはないと意見が一致していた。下手に外に出て、また写真を撮られたりしたらなにを書かれるかわからないという懸念もあった。

 サングラスや帽子で痣を隠すこともできただろうが、そのあいだは冷やしていられない。なのでテディにはおとなしくタオルを当てて横になっているように云い、ユーリはちょっと買い物に出ることにした。いつものことだがテディの部屋の冷蔵庫は空っぽで、ミネラルウォーターのストックはあるが、彼の好きなアップルタイザーやユーリの愛飲するスタロプラメンはもうなかった。

 罪滅ぼしも兼ね、ユーリは飲み物といっしょに朝食のパンや惣菜と、なにかフルーツを買ってくることにした。ビタミンCを摂ると痣の治りが早くなるとユーリは説明をしたが、テディはあまり有り難そうな顔をしなかった。アイスクリームとでも一緒に食べればいいと云ってやってようやく笑顔になってくれ、ユーリはほっとした。

 自分の甲斐甲斐しさが照れくさくなり、ライディングパンツに穿き替えながら、ユーリは早く痣を治さないとロニーにどやされるからな、と付け足した。テディにしっかり鍵をかけておけと云い、ドアの向こうでカタンとしっかり施錠される音を聞いてから、ユーリはヘルメットを手に出かけていった。


 中庭に駐めた愛車のスピードマスターを押して門を開け、裏通りにでると、視界の隅でなにかが引っかかるのを感じた。

 眉をひそめながら振り返り、ユーリは細い路地に並ぶ車を眺めた。朝の陽光がフロントガラスに反射している。眩しさに、ユーリはヘルメットを持った手を額の前に翳し、気になったらしい辺りを見渡した。

 だが、特になにも気がつくことはなかった。すっきりしないままバイクに跨り、ヘルメットをかぶろうとしたその時――カプチーノベージュのファビアのエンジンがかかって、きらきらと陽の光を跳ね返しながら動きだした。

 人が乗っていたのかと思いながら、ユーリは自分の脇を通り過ぎるその車に目をやり――運転席から覗くこちらを向いたその顔に、目を瞠った。

「あいつは……!」

 ユーリは急いでヘルメットをかぶり、バイクを発進させた。

 ファビアの跡を追って走りながら、そういえば昨夜もあの車を見たような気がするとユーリは思った。ありふれた車なのではっきりそうとは云いきれないが、これまで何度も自分たちの近くにあの車がいたような気がした――テディに不快なビデオレターを送りつけ、事務所にカメラを仕掛けたあの男が。

 車は何度も道を折れ、ユーリの視界から消えた。どうやらあの盗撮男は、この辺りの道を熟知しているらしい。しかし、それはユーリにとっても同じだ。ここがまだチェコスロバキアと呼ばれた時代に生まれ、ずっとこの地で育ってきたユーリにとって、この小さな街はすべて自分の家の庭みたいなものである。

 じわじわと距離を詰め、もう少しで完全に追いつく、と思ったところでまた車は細い路地へと折れ――ユーリが同じように曲がったとき、追っていた車は消えていた。

 その先の見通しのいい道にもどこにも、カプチーノベージュのファビアは見当たらない。ユーリはちっと舌打ちするとバイクをターンさせ、その辺りを注意深く見渡した。スプレーで落書きされた旧い建物が並び、中庭への門のないところもあるようだ。そのなかのどこかへ入ってしまったらしい。

 とりあえずこの辺りで消えたことは間違いない。ユーリはいったんテディとロニーに連絡をしようとヘルメットを取り、モバイルフォンを取りだした。

 先ずテディの番号をコールする。テディはすぐに電話にでた。

『はい?』

「ああ、俺だ。今パルモヴカの辺りなんだが、フラットを出たらあいつがいたんだ」

『あいつ?』

「あの気色悪いビデオレターの変態野郎だ。ファビアに乗ってた」

『あいつが? ……ファビア?』

「知らないか? ファビア。シュコダの車だ。ミルクティーみたいな色のやつだった。いいか、絶対に部屋から出るなよ。ルカに電話して来てもらえ。俺は今からロニーに電話する」

『え……でも、顔見られたらユ――』

「ばか、顔なんか気にしてる場合じゃ――」

 ユーリは言葉を切った。あの男が細い路地から顔をだし、ユーリに気づき走って逃げていくのが見えた。

「待て!!」と大声をだしながら、微かにテディの呼ぶ声が聞こえているモバイルフォンを閉じポケットに捩じこむと、ユーリはヘルメットもかぶらないままバイクでその男の跡を追った。

 小脇に抱えていたヘルメットが道に落下してこーんと音をたて、小さく跳ねながら遠ざかる。逃げる男を威嚇するように、ユーリはバイクのエンジンをを吹かした。男がまた細い路地に入っていき、逃すまいとそれに続く――その刹那、ユーリは立てられていた赤と白の通行止めを示す柵が迫るのを見た。

「――!!」

 バイクは避けようとバランスを崩しながら柵に突っこみ、派手な音をたてた。道を折れるために減速していたとはいえ、完全に横転したバイクは勢いよく柵を引き摺ったまま滑っていき、バイクから投げだされたユーリは道の端までごろごろと転がった。ユーリはなにが起こったかわからず、痛みもなにも感じなかった。感じるのは、天地もなにもわからない、自分がどうなったのかという混乱だけだ。

 頭に衝撃がきて、事故を起こしたのだとわかったのは、路肩の段差に倒れこんでいる自分に気づいたときだった。

「――けっ、ざまあみろ。俺のテディに手をだした報いだ」

 その声に、ユーリは顔をあげてなにか云ってやろうとしたが、それは叶わなかった。頭を動かそうとするとぐらりと周りの景色が回転するのを感じ、同時に視界があかく染まった。

 ああ、ヘルメットを脱いで走っていたんだと気づいたとき、既に意識は遠のき始めていた。起きあがらなければ、と伸ばした手はぴくりとしか動かず、くそ、と毒づこうとしても声にはならなかった。

 テディのところへ帰らないと、テディを護らないと――愛しい者の顔を思い浮かべ、テディと名前を呼ぶかたちに唇を動かすと、ユーリはゆっくりと血に染まったその瞼を閉じた。




       * * *




 中途半端に話を切ったユーリが気掛かりで、テディは目許を冷やしていたタオルを脇に置き、何度も電話をかけ直していた。

 だが、何度かけても電話は繋がらなかった。しょうがないので、やや気後れはしたがユーリに云われたとおり、今度はルカにかけてみる。ルカはコール音二回で、すぐにでた。

『はい? どうした、おまえからかけてくるなんてめずらしいな。なにかあったのか』

「うん……、実はついさっき、ユーリから電話があったんだ。例の、あのビデオの男がいたって」

『あの? ビデオの変態野郎がか!?』

「うん、フラットを出たらいたらしいんだ。電話してきたときはパルモヴカって云ってたから、バイクで追ったんだと思う。ファビアに乗ってたって――」

『追ってったのかよ! 大丈夫かあいつ……おまえ、絶対に外に出るなよ。部屋もしっかり鍵かけとけ』

「うん、そう云われた。で、その……ルカに来てもらえって――」

『わかった。すぐに行く。……けど俺、今、出先なんだ。ちょっと時間がかかるかもしれないから、それまで動かないで待ってろ』

「うん、わかった。……ごめん、ルカ」

 電話を切り、テディはもう一度ユーリにかけてみた。が、やはり繋がらない。なにかあったのだろうかと胸騒ぎを覚え、テディはふと目に入った煙草の箱に手を伸ばした。


 煙草は旨くもなければ、気を紛らわせる道具にもなりはしなかった。なにか役に立ったとすれば、灰皿のなかの吸い殻が増えていくのを見て、どのくらいの時間が経ったかわかることくらいだった。

 落ち着くこともできず、なにかないかといつもそこに置いている読みかけの小説を手にとってみるが、文章など頭に入ってくるわけがない。本をまたソファの肘掛けのところに伏せて置き、ただ指のあいだで燃やしているだけのような煙草が四本めを数えたところで――玄関のブザーが鳴った。

 ルカだ、ルカが来てくれた――意外と早かったなとほっとして、テディはタオルを左目に当てながら玄関の扉を開けた。が――ルカではなかった。

 テディはそこに立っている人物を見た瞬間、驚愕に大きく目を見開き、声もだせないまま一歩後退った。




       * * *




「――テディ?」

 ブザーを鳴らしても反応がないのを不思議に思い、ルカはそっとノブに手をかけた。

 鍵はかかっていなかった。あんな電話のあとで、しかもしっかり鍵をかけておくようにとも云ったのにおかしいなと首を捻りながら、様子を窺いつつ部屋に入る。

 広くはないエントリーホールを折れると、いつものように殺風景な部屋が目に入った。

 テーブルに置きっぱなしのマグ、ソファの肘掛けに伏せられている読みかけのペイパーバック。床に散らばった雑誌と、脱ぎっぱなしのソックス。乱雑なそれらとは対象的に、壁際にきちんと立て掛けられているベースやギター。いつもとまったく変わりはないそんな部屋のなかにひとつ、久しぶりに見るものがそこにあった。ゴロワーズ・レジェール。学生の頃、テディが好んで吸っていた煙草だった。懐かしいなと思いながらテーブルの向こうを見やってようやく、ルカはそれに気がついた。

 ラグも敷いていない、年季の入った無垢材のフローリング。部屋の奥、ハング窓の下あたりに仰向けに投げだされた躰。どうしてそんなところで寝てるんだ、と眉をひそめながら、ルカはゆっくりとそこへ近づいた。 

 おい、と声をかけながら引き起こそうとして、掴んだ手首にふと違和感を覚え――思わずびくりと離すと、それは人形の腕のように重力に従い、どさりと元の位置に落ちた。

「テディ……?」

 そっと頬に触れる。少しひんやりしているような気がした。

 窓が開いているのかと見上げたが、そんなことはなかった。

 テディ、おいテディと名前を呼びながら揺り起こそうとするが、人形のようにまったく動かない。ルカは思考停止したままもう一度、手首をそっと握ってみた。

 ――温もりはまだ感じるのに、心臓の動いている気配はなかった。

 ゆるゆると首を振りながら立ちあがる。なにが起こっているのかわからなかった。わかりたくなかった。

 自失の体で暫し立ち尽くす。再び名前を呼ぼうとしたが、ルカには呼ぶことができなかった。返事がかえってこないことを確かめるのが怖かったのかもしれない――既になにもかも手遅れであることを、心のどこかでは察していたのかもしれない。しかし、ルカはまだそれを認めることができなかった。

 混乱しながらも、必死に落ち着こうと深呼吸する。そして、ようやく声になったのは「いま救急車を呼ぶから……、電話……いま、電話を――」という、現実的な対処を為そうとする言葉だった。

 ポケットからスマートフォンを取りだし、震える指で155をタップしながらルカは、床の上のすらりとした躰を、その蒼褪めた顔を、もう一度見た。そして、もうあの目が開いて自分を見ることはないのだと、頭のどこかでそんな考えが過ったとき、緊急サービスの応答の声を聞いた。

 どうされましたか? との問いに対し、反射的に口を衝きそうになった言葉に、ルカは自ら打ちのめされた。

 ――死んでいる。

 言葉の代わりに嗚咽が洩れ、がくりと膝をつくと、ルカは震える手でスマートフォンを握りしめたまま泣き崩れた。

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