影に雨粒
ふじ
第1話
私を見つめたその子供は、紅葉のような小さな手を広げて私の肩に触れようとして、宙を掴んだ。雨上がりの日差しが子供の目の中に入って、きらりと光った。泣かないで、と思いはしたがそれが言葉となって紡がれることはなく、かわりに私は子供に向かって励ますように微笑んだ。ひらひらと、私の前を白い蝶々が通り過ぎた。
私には、幽霊が見える。
かと言ってずっと見えていたわけではなく、家柄が、とか言うファンタジックな話でもない。
あの日——針のような雨が絶え間なく街を包んでいた日は、私が目をかけていた本の発売日だった。コンビニで五〇〇円均一で売っているビニール傘を無造作に引っ張り出し、私は本屋に向かった、はずだった。
大通りの交差点で信号待ちをしていた時、誰かが悲鳴を上げたような甲高い音が私の耳を襲って——。そこからの記憶は非常に不鮮明なのだ。それまでの、小さな水たまりを踏んでしまったことなどの些細なことは鮮明に覚えているのに。
ただ気がついたときにはまたその交差点にいて、何故かあの鬱陶しい雨は止んでいた。東の空が白く燃え、朝日が私を照らしていた。交差点の近くには、花束やジュースが置いてあった。
そして、私のまぶたには幽霊が映るようになっていた。
彼ら彼女らは、喋ることができない。人間に触れることができるかはまだわからない。物を掴むことをできるのかもまだわからない。身体はなんら生きている人間と変わらない。死ぬ前の身体か、望んでいた時代の身体かも分からないが。そして、なんらかのことが起きると、幽霊たちは無数の光に分解されて、消えていくのだ。
これらが、私が家に帰るまでに調べた幽霊たちの真相。頭の中で改めて整理してみると、分からないことだらけだ。真相、と言えるのかも怪しい。しかし、ただ一つ確かなのは、幽霊はいる、と言うことだ。現に私のすぐ横にも、首輪をした柴犬の幽霊が私の横をテクテクと歩いている。私は右下に視線を落とした。茶色いもふもふとした毛並みの可愛らしい顔に浮かんだ、ビー玉みたいな黒い目が、私の顔を貫いた。幽霊になっても、犬は可愛い。
自分の家につき、普段と変わらずポケットに手を突っ込んで鍵を探った。しかしいくら探っても金属の硬い感覚はなく、小さく息をついて私はドアに手をかける。
開かないだろう、とたかを括っていたのに、ドアは拍子抜けするほど簡単に開いた。
ドアの開閉音が騒がしく響いた。
さっき散歩してきたばかりだし、と思って部屋のリビングのソファに沈み込む。テレビの横にあった家族の写真に視線が飛んだ。
去年、家族で広島に行った時の写真。もう二度と会うことのないお父さんが、ここでは雲ひとつない夏の空のような笑顔を浮かべている。
徐にテレビの電源をつけて、ぼんやりとテレビを眺める。三日前に起こった飲酒運転のニュースをしていた。どうやら、歩行者にぶつかったまま逃げていったらしい。そのニュースは、犯人が捕まった、というものだった。
ニュースを見ながら、玄関でのことを思い出す。
家がある通りが見えたとき、黒い服に身を包んだ人影が見えた。肩ぐらいの長さの茶色の髪、丸まった背中。あれは——お母さん?
黒い服といえば——と本屋の帰り道に見てきた景色を思い出す。通りすがる大体の大人は黒い服だった。葬式があったんだ、と思って、反射的に親指を隠した。違うとわかっているのに。
——霊柩車が通ったら、親指を隠さなな。
私が五歳ぐらいの頃、お父さんが教えてくれたこと。
つまらなくなってきて——もともとニュースも見るのはつまらない、と分かっていたのだが、私はテレビの電源を消し、家に居ても——と思って玄関に向かった。
雨上がりの外は、特有の生臭い匂いと湿度九十パーセントを兼ね備えていて、それらのダブルパンチをくらって私はおもわず顔をしかめた。
庇から落ちてきた雨粒が、太陽の光を乱反射させて私の頬に落ちた。口の近くに落下したので、舌で掬いとる。神様の涙の味のような、少し悲しい味がした。
家の近くをぶらぶらと歩いていると、ご近所のお家の窓を中年の男性が見つめていた。私は、怪訝そうにその人に近づく。
何をしているのか聞きたくて、それでも話しかけられなくて、その人の後ろに立った。
私の気配を感じたのか、彼は徐に私の方を振り向いて、線のように細い目を大きく見開き、そして困ったような顔をして見せた。
——この人、幽霊だ。
なんとか言葉を口外に投げようとしたが、結局はなんの言葉も出てこずに、首を四十五度傾けた。
彼は何かを悟ったのかのように、弱々しく、風に吹かれて花冠を垂れるように頷き、そしてカーテンの隙間をソーセージのような指で指した。中年の女性と子供が、ポッキー型の風船でチャンバラをして遊んでいる。
そんな暖かい風景の後ろには、はにかんでいる彼の写真が飾られていた。写真の前に、もみじ饅頭が置かれている。
——お父さんなんだ、この家族の。
幽霊になっても尚、子供と奥さんを大切に思っている。いいお父さんだな、と思って頬が緩んだ。
そして、私はゆっくりと周りを見渡した。思っていた通り、何も見えなかった。
通りに出て、またあてもなく歩いていると、小さな公園が見えた。子供の頃、よく遊んだ公園だ。懐かしくなって近づくと、ある男子の姿が目の中に吸い込まれてきた。
彼の顔が、ぱあっと反射灯を当てられたようにはっきりとする。——コウスケくん。私の心も、ぱあっと光り輝いた。
決してとびきりかっこいいわけでもない。頭脳明晰でもなければ、スポーツ万能でもない。それでも、私は彼のことが好きだった。他人を慮って、相手の気持ちを理解しようとして。よく失敗しているけど、そんなとこも含めて好きだった。
私は、自分で言うのもあれだけれども、普通の人よりも少しだけ容姿が端麗だった。今までも、何人もの異性から愛を告げられてきた。それでも、お付き合いする、といったことはしようとしなかったし、まずできなかった。
私は結構なコミュ症なのだ。
コミュ症。人よりも、コミュニケーション能力が劣っていること。こんな性格のせいで、コウスケくん——初恋の相手にも、ほとんどと言っていいほど話していない。遠くから眺めるだけ。それだけでも、私の心は満たされる様だった。
何度も、彼は私に話しかけようとしてくれた。
それでも。言葉に詰まって、いい返事を脳内で推敲して、相手が傷つかないか考えて。心の中の別の私は、早く早くと急かし立てている。そんなことをしているうちに、コウスケくんは「ごめんね、話すの苦手なんだね」と悲しそうに言って、席へ戻っていってしまった。
そんなコウスケくんが、公園のベンチに腰掛けている。なぜか制服だ。日曜日のはずなのに。
少し近づいて、目を見張った。
彼の目には、薄い涙の膜があって、その膜は涙の重さに耐えきれずに重力に素直になって、彼の頬を濡らした。
——なんで?なんで泣いてるの?
そんな思いは煙の様に広がって、瞬く間に私の心を埋め尽くした。
私の気配を感じたのか、彼が私の方に首を捻った。目が合う。顔が熱くなっていくのを感じる。
彼は何も言わずに、視線を私から公園の砂にむけた。
——無視された!
束の間の気持ちの昂りは分厚い雲に覆われて、悲しみの渦ができた。彼は、そんな人じゃなかった。少なくとも、前までは。
私が驚きを隠せずにいる中で、彼はぐしゃっと頭を掴んだ。彼の涙が落ちる音が聞こえた気がした。かさ、と彼が手にしていた紙が落ちた。風に舞い、私の足元へと飛んでくる。掴み上げた。お葬式の連絡の紙だった。
——え、私の?
みぞおちを打たれたように声は出ず、その代わりに私の手が震え出した。穴が開くほど、その紙を見つめる。けれども、何度も見たところで私の名前は変わらない。
驚きと、悲しみが心の中で織り成されている中で、確かに、と納得していた自分がいた。
幽霊が見えるようになったこと。お母さんたちが黒い服を着ていたこと。コウスケくんが、私の存在に気がつかなかったこと。
少し湿った薄いその紙には、私が本屋に行った日の三日後が記されていた。
少しだけ、気持ちが楽になった気がした。ゆっくりと、彼の元へと近づいて、隣に座る。生きている頃は、恥ずかしくてできなかったのに。
本末転倒な気がして、少し笑みがこぼれた。そして、彼の肩を撫でようとして、私の腕は彼の肩を突き抜けた。結果はわかっていたつもりだった。それでも、いざ自分がそうなると、寂しさが突風のように私を襲った。
晶、とコウスケくんが私の名前を呟いた。驚いて、隣を見る。好きだったのに、と彼の口から言葉が漏れた。驚きで、私は金魚のように口をパクパクとさせる。
私の目から透明な水滴が瞬きと一緒にはじき出された。何滴も、何滴も涙が溢れた。それでも、なぜか悲しい気持ちはしなかった。
彼の身体に触ることはできないし、もう二度と言葉が届くことはない。でも、もし神様がいるのなら。私の願いを聞いてくれるのなら。十秒だけでもいい、彼に触れられて、彼に言葉が伝わるようになりたかった。今なら、どんなことでもできそうだった。
彼のまぶたから、新しい涙がこぼれ落ち、公園の砂を固めた。
「私も、ずっとずっと好きだったよ」
聞こえるはずはないのに、なぜか言葉がこぼれ落ちた。
雨上がりの太陽は私たちを照らしていて、まるで舞台の上のスポットライトみたいだった。
柔らかい風が私たちを包み込んで、いつまでも離さなかった。
私の指先が、季節外れのイルミネーションのように光り輝き出した。
影に雨粒 ふじ @Jun18999345
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