第28話 どれだけ幸せだっただろう


 開き戸を二回ノックし、返事も待たずゆっくりと開ける。

 真っ暗な部屋の中、リビング側から差し込む外灯の光が伸びて照らし、彼女の姿をぼんやりと映し出す。

 ベッドの上で膝を抱え、蹲るように彼女は顔を薄いタオルに埋めていた。


「・・・綾瀬さん、起きていたの?」

 返事もなければ反応もない。小さな肩を震わせ、時折啜るような声が聞こえてくる。


「綾瀬さん・・・」


 僕は彼女に近づき目の前で立ち止まると、彼女は僕の手を取って引いてくる。

 咄嗟にベッド上に手をつき体勢を保ったが、彼女は両手で僕に勢いよく抱き着いてきた。


「涼川くん・・・どうして私はここにいるの!?さっきの人は、炎で燃えたあの人は、どうなったの!?」


 彼女の直前の記憶は、倉庫内で炎にもがき苦しむ前田の光景で止まっている。

 目覚めた瞬間押し寄せたその記憶に、混乱するのは無理もなかった。


「・・・分からない。分からないけど」


 おそらく焼死体になったか、重症に陥ったか。

 その悲惨な憶測をはっきりと伝えられるはずもなかった。

 その先を口にしない僕をはっと見て、彼女は察した様子で目に涙を浮かべていた。


「・・・ごめんなさい。私、なんてことを」


 嗚咽を漏らし、体中を細かく震わせながらむせび泣いた。

 彼女の背中を擦ってなだめようとするも、感情が決壊したように涙は止めどなく流れ続けた。


 しばらくの間僕達は抱き合い、長い時間が流れた後彼女の悲しみは第一波を終えたように一旦落ち着いてきた。

 僕は彼女の頭を撫で、耳元で小さく呟くように言う。


「逃げよう、綾瀬さん」


 彼女は僕の胸元から顔を上げ、憔悴しきった表情で僕を見る。


「逃げるって、どこへ?」

 クスリと笑って、彼女の手を取る。


「ここではない、どこかへ。大丈夫。僕もついているから」

 朗らかに言い笑いかけても、彼女は笑わなかった。

 たとえどこまで逃げようとここに踏み留まっても、救いようのないことくらい彼女にも理解できたはずだ。


「ちなみに、もう私と関わらない方がいいとか、あなたまで巻き込みたくないなんて言葉はもう通用しないぞ。僕達は付き合っているんだ。どこへ行こうと、どんな結果が待っていようと、僕は最後まで君の傍にいる」


 そう言って僕達は暗闇の中で視線を交わし合う。

 どれだけ拒絶されても懲りずに会いに来た僕だからこそ、今更彼女も何を言っても無駄だろうと諦めがついたのだろう。

 

 数秒置いて、彼女は「うん・・・わかった」と言ってくれた。

 僕は彼女の手を引き、ゆっくりと立ち上がらせる。

 まだ足取りがおぼつかない彼女に肩を貸し、僕達は玄関の方へ少しずつ歩いていく。

 

 レバーハンドルを引き、玄関ドアは普段よりも重さが増したように感じた。

 この先に思い描いていたような幸せは待っていない。

 それでもこの時の僕達は、前に進む他なかった。




 原付に乗り二人で海沿いの道を走っていく。

 深夜の道路は車通りもなく、普段よりも広大に感じる道を走り抜けていた。

 

 生暖かい風も広がる海と林を通じるおかげで涼しいものに変わり、走る度心地の良い風を切っていく。

 彼女は僕の腹部に両手を回して振り落とされないようしっかりと密着し、温かい体温と度々かすめてくる彼女の柔らかな髪や息遣いに僕の鼓動は高鳴った。

 

 これがデートだったら純粋に甘い記憶として刻み付けられていたのかもしれない。

 逃げ場のない逃避行は当然目的地が定まっているはずもなく、ただあの街から少しでも遠くへ離れることを先決に僕は原付を走らせていた。

 

 先行きの見えない不安は出発前の想像以上に押し寄せてきたが、彼女の存在を感じられるおかげでその気持ちもかなり緩和されていた。

 代わり映えのない夜道の先を見て、そこで非現実的な感覚を覚える。

 

 まるで世界から人が消えてしまったように、人の存在を一切感じない景色。

 いっそ二人っきりの世界で最後の瞬間まで一緒にいられたら、どれだけ幸せなんだろうな。

 

 いつもの僕なら馬鹿げた妄想だと鼻で笑っていただろうが、今は真剣に願ってしまうほど理想郷のようにすら思えた。

 しばらくして、彼女は風の騒音に負けないよう声を上げていった。


「ねぇ、あそこの海岸で休憩しない?」


 言われてみると、すぐ先には小さな子供を水遊びさせるのにちょうど良さそうなこじんまりとしたビーチがあった。

 まだまだ遠くへ走らせたい心境だったが、ここは彼女の申し出を優先することにした。


「分かった。そうしよう」

 バイクのスピードを落としていき、ウインカーを出して停車に備えた。


「ありがとう」


 聞こえるか聞こえないかくらいの細い声でお礼を言われる。

 不思議とその声色は悲しいものに聞こえた。

 

 きっと彼女はその瞬間を、ずっと狙っていたんだと思う。




 砂浜の上に立ち、闇の中で月明かりを反射しほのかに光る水面を見つめる。

 波の動きに合わせてゆらゆらと揺れ、砂浜は歩く度サクサクと子気味のいい音を立てた。

 

 先を歩いていた詩織はいつしか立ち止まり、両手を後ろに組んで振り向いてくる。

 楽し気に笑いかけてきて、「海、入ろうよ?」と朗らかな声で言う。


「つまり・・・この格好のまま入るの?」

 不思議そうに尋ねる僕に「そうだよ」と彼女は当たり前のように言った。

 靴を脱いで裸足になると、一歩一歩踏み出して足先だけ海につける。


「ひゃっ、つめたい!」

 顔を歪めて蹲る彼女を見て、僕は思わず笑ってしまう。


「大袈裟だな。むしろちょうどいいくらいじゃないの?」


「むっ。言ったなぁー」

 彼女は両手で水を掬い、すかさずこちらに思いっきり飛ばしてきた。

 宙を舞って拡散した水は僕の全身に降りかかり、反射的に「冷たい!」と声を上げていた。


「ほら、冷たいでしょ?」

 勝ち誇ったように彼女は笑う。


「確かに冷たいけど・・・よくもやったなぁー!」

 僕は彼女の方へ駆けだし、接近して同様に水をかけ返す。


「いやっ!ちょっと!」

 ムッとした表情で彼女は反撃してきて、小学生の小競り合いのように水かけ合戦が始まった。


 先に音を上げたのは彼女の方で、くるりと反転して一目散に逃げ始めた。

 その直後軟弱な砂に足元を滑らせたのか、水の中にバシャンッと立てて盛大に転んだ。


「綾瀬さん?大丈夫!?」


 彼女の元へ駆け寄り中腰になると、「隙あり!」と上体を起こして僕の手を掴み下の方へ引っ張ってきた。

 抵抗の術なく僕の体は引き寄せられ、次の瞬間には彼女と同じく音を立てて海に倒れていた。


 目を開けると無数の星が夜空に広がっているのが見えて、すぐ隣には詩織が同じ体勢で寝転んでいた。


「酷いなー綾瀬さん」


「ふふっ。涼川くんが意地悪するからだよ?」


 悪戯っぽく笑って、彼女は僕の手をそっと握る。

 互いの息がかすかにかかるくらいの距離で僕達は見つめ合い、突風が過ぎていったあとのように静寂な空気がゆっくりと僕達の時間を支配した。


 こんなことしている場合じゃないのに、一体何やっているんだろうな。


 姿勢を保持したまま動きたくない。このまま彼女と一緒に海の中へ沈んでいけたら、どんなに幸せだろう。


「ねぇ、涼川くん」

 先に沈黙を破ったのは彼女だった。笑みは消え、真剣な眼差しをこちらに向けてくる。


「私のこと、好き?」


 今更何を言っているんだと思ったが、彼女の表情は嘘偽りのない答えを求めているかのようだった。


「・・・好きだよ」

 そう言うと、また僕達は沈黙の中で見つめ合う。


 彼女は僕の答えに喜ぶわけでも、ほっと胸を撫で下ろすわけでもなく、目に涙を浮

かべて悲しそうに笑っていた。


「私も・・・好きだよ」

 呟くように言う彼女。

 今僕達の間で何が行われているのか、僕の理解は追いつかなかった。


「綾瀬さん?どうかし」


「詩織」

 遮るように彼女は言う。


「詩織って、呼んでほしいな?」


 上目遣いに悪戯っぽく言われ、僕は胸がドキッとする。

 何度も心の中で彼女を呼んでいた名前、今更抵抗を覚えるはずもなかった。


「詩織」


 そう言うと、彼女は満足そうに微笑みを浮かべた。

 手を背中に回してきて、僕の胸に顔を強く埋めてくる。


「・・・澪くん」


 初めて呼んでくれた僕の名前。

 家族以外の誰かからその名を呼んでもらえたのは、もしかしたら人生で初めてのことだったかもしれない。

 

 僕達は付き合っている、だからこそ名前で呼び合うこと自体何の不思議もないはずだ。むしろキスを最初に済ませてしまったことは今思えば不純だった。

 互いに恋愛初心者故の過ちだが、見方を変えれば僕達らしい恋人関係が築けたのかもしれない。


「澪くん、澪くん。ふふっ、まだいい慣れないや」


「言いづらかったら、いつも通りでいいんじゃないかな?」


「ううん、ダメ。一回前に進んだらもう戻れないんだから」


「そんなものなのか」


「そんなものなの」


 浅瀬で抱き合って寝転び、押し寄せてくる波が僕達の体温を少しずつ奪ってくる。

 この後バイクに乗って旅の続きを始めるのかと思い出すと、風邪を引くことはまず免れないだろうなと失笑した。


「あーあ、楽しかったなぁ・・・」


 そう言う彼女は、僕の胸に埋まったまま動こうとしない。

 このまま眠ってしまうのではないかと思うくらい全身を脱力させリラックスしている。

 

 髪の毛を解すように撫でると、彼女は気持ちよさそうに身を捩らせた。

 静寂に満ちた夜、自然の音に耳を澄ませながら、僕達は互いの体温を微かに感じ合う。

 

 安心感から訪れたのか次第に眠くなり、夢見心地な感覚に全身を包まれる。

 このままだと本当に眠ってしまいそうだったので、僕は上体を起こして座り込む形になる。

 彼女の手は、まだ繋がれたままだった。


「結局・・・私の正体はなんだったのかな?」

 虚空の空を見て彼女は問いかけるように言う。


「人を燃やして、驚異的な治癒能力があって、次は本当に炎を纏う悪魔の鳥にでもなってしまうのかな?」


 僕は彼女の手を握る力を強め、「詩織」と呼びかける。


「こんな危険な力は、葬り去る必要があるんだよ。私はきっと、この世界にいてはいけない存在なんだ」


「・・・違う、そんなわけないだろ」


 彼女は表情を歪めて目を潤ませる。


「本当に、そう言い切れるの?私のせいで酷い目に合う人達が、この先いるのかもしれないんだよ?」


 今にも泣きだしそうなその顔に、迂闊に期待を持たせるような発言は逆効果だと悟る。

 頭の中で狼狽し、どうしてあげるべきなのか分からなくなる。


「私の正体が得体の知れない化け物だとしたら、今澪くんと話している私は何なのかな?間違って生まれてしまった人格なのかな?人間の姿を装ってまで、生きる意味はあったのかな?」


 目を閉じ、深く息を吸ってゆっくりと吐き出していく。目をそっと開けた時、彼女はどこか吹っ切れたように笑っていた。


「分かんないことだらけだけど、たぶん私は、愛が知りたかったんだと思う。澪くんが、みんなが、それを満たしてくれた。だからもう、充分なんだと思う」


「・・・詩織?何言ってるんだよ?」


「澪くん、今までありがとう。こんな私の隣に最後までいてくれて。

 凍えるように寒かった春の夜、道端に倒れた私をあなたに助けてもらえたことはきっと運命だったんだなって今なら思う。

 

 私、幸せだった。本当に、幸せだった。

 覚えてるかな?いつか二人で話した夜のこと。

 不死鳥は自らの死を悟った時、体を燃やして灰になって、その灰の中からまた新しい命を形成して再生を繰り返していく。

 

 もし私が不死鳥だったら、その時は澪くんに燃やしてほしいって話。

 あの時は冗談のつもりだったけど、今なら本気でそう思う。

 

 えっ?ううん。そんなことないよ。

 好きな人に自分の最期を委ねることができるなんて、幸せだよ。

 だから澪くん、私を、今ここで。

 

 ・・・燃やして」

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