第27話 異様な出来事
自室のベッドで眠る彼女を見て、僕はいつかの夜の事を思い出す。
卒業式後の夜、雪の降る路上の上で倒れていた詩織をここまで連れてきた。
あの時も同じように、彼女を抱えて路地を必死で駆けていたな。
彼女の頬に手の平をそっと添えると、そこから炎が生まれることはなかった。
やはり何かの見間違いだったのだろうか?
防衛本能が働いて相手を故意的に燃やしたとでもいうのか?
驚異的な治癒能力、施設長室で見た不死鳥の資料、詩織が倒れていた時周りの雪が溶けていたこと、そしていつか灯台で見た炎を纏った鷲のような生物。
全てが繋がっているとするなら、その答えはもう一つしかなかった。
彼女の寝顔を確認して、僕は部屋の扉を静かに閉める。
散らばっている酒類の空き缶や瓶を手で押しのけ、リビングの床に座り込む。
街灯の光が窓越しに差し込んでくれたおかげで、電気を点けなくても室内は薄暗くぼんやりと物の輪郭を捉えることができた。
ダイニングテーブルの上に灰皿と煙草、ライターと母の喫煙セットが用意されており、久しぶりに僕はそれに手を付けることにした。
高校生になって以来、初めての喫煙だった。
箱から一本煙草を摘まんで口元へ運び、ライターで火を点ける。一息吸うと煙が胃に重くのしかかって拒絶反応を起こし、すぐにゴホゴホと咽た。
頭がクラクラし、視界が狭まってくる。久しぶりの煙は苦くてまずい、何も快楽を与えてくれないただの有害物質だった。
それでも今の僕にとってはその苦痛が癒しのように感じた。
現実逃避にも等しい、自傷行為で目の前に置かれた状況から少しでも距離を取りたかったのだ。
僕達はこれからどうなってしまうのだろう。
不可抗力かどうかは定かではないが、詩織は前田を確実に殺めてしまっただろう。
八谷達は一連の現場を目撃し、それから何も行動を起こさないはずがない。
警察が動くのは確実で、ここを訪ねてくるのも時間の問題だろう。
僕と彼女は離れ離れになり、せっかく実った初恋は最悪の結末を迎えてしまう。
いや、ここで僕の求める願望は二の次だ。
殻に籠り人目を避けて過ごしていた彼女が、せっかく無邪気に笑える日々を過ごせるようになったのに。
それらを失ってしまう事が、なによりも怖かった。
煙草をフィルターぎりぎりまで吸い、僕は灰皿にそれを押し付けた。
室内は独特な匂いが充満し、肌にべたつくようだった。
彼女を連れて、ここから逃げよう。
そう決心して、僕は立ち上がる。
逃げ場のない無謀な逃避行に過ぎないだろうが、黙って彼女を引き渡すくらいなら僕も道連れにしてほしかった。
部屋のドアノブに手を掛けようとした時、ポケットに入れてある携帯がブルブルと震え始めた。
画面を見ると知らない番号で、手に持ったまま出ようか出まいか逡巡とする。
警察だろうか?それとも八谷達か?
着信はしつこいほど続き、出てくれるまで鳴らし続けると言わんばかりだった。
とりあえず出てみて、声は出さず相手の出方を見てみるかと思った。
画面をスワイプし、携帯を耳に当てる。数秒の沈黙があった。
「・・・俺だ」
その出方から、電話の相手が誰なのかが一瞬で分かった。
デジャブ染みたものを感じ、名前も名乗らずぶっきらぼうな切り出しは特徴があった。
「綾瀬さんですか」
「あぁ・・・これから逃げるんだろ?」
どうやら僕の考えていることは全てお見通しらしい。
その上で、彼は電話をしてきたのだ。
「はい、察しがついているということは、僕を止めるために電話をかけてきたんですか?だとしたら無駄ですよ」
「いいや、逃げたいなら逃げろ。誰にどう言われようとな」
「言われなくてもそうしますよ」
ならなぜ綾瀬は僕に電話をかけてきたんだ?檄の言葉を送るためだとでもいうのか?
「警察はまず火災調査から乗り出しているだろう。だからまだそちらには行かないはずだ」
彼はそう言ってこちらの不安要素を取り除き、電話を切られないようあまり間を開けずに話し続ける。
「俺が電話したのは、あいつの事を話そうと思ったからだ」
「・・・綾瀬さんの、ですか」
「あぁ。あいつが養子だってこと、いつか話しただろ」
「えぇ・・・少し前に」
あれは詩織が建築現場の資材に押し潰された日、寝かせて置けば治ると信じられないことを言われ、渋々僕は彼と二人部屋で待っていた時の事だ。
「もう十年以上も前の話になる。この施設を経営しはじめ、軌道に乗り始めた頃だった。職員の一人が玄関の前で赤ん坊が捨てられていることに気が付いた。
時々いるんだよ、病院や路上、他人の家に赤ちゃんを置き去りにするような奴が。
今では赤ちゃんポストなんて捨て子を受け入れる措置があるものだが、当時そんなものはなかった。俺はその身元不明の赤ちゃんを引き取った。
本当の親が現れるまで、この子を保護しようと思った。結果的にはいつまで経ってもそんな奴は現れなかったがな。
そしてその捨てられていた子供っていうのが、あいつの事だ」
「捨て子、だったんですか・・・」
事情がありそうな親子関係だとは思っていたが、まさかそういうことだったとは。
彼は浅くため息を吐く。
「酷い話だろう。あいつは本当の両親の名前どころか顔すら覚えていなかった。自分の誕生日も、どこにいたのかも、今までどうしていたのかも。何も覚えていなかった。
俺はそれがショックやストレスによって記憶喪失を引き起こされたものだと思っていた。あいつの異様さに気付くまでは、そう思っていたんだ」
毎回無機質で抑揚のない話し方をする彼が、この時は声を震わせ重苦しい雰囲気を電話越しに感じさせていた。
「ある日、あいつは小学校のクラスメイトの一人をやけどさせた。
近くにいた別の生徒の話だと、口論になって相手があいつに掴みかかった瞬間、被害者の生徒は悲鳴を上げてのたうち回り始めたらしい。
現場に火の元はなかったし、所持品でも原因になりそうなものは見つからなかった。さらに妙だったのが、悲鳴を聞いて教員が駆けつけた時、あいつは気を失って倒れていたんだ」
そこで僕は廃工場で火だるまになった前田の事を思い出す。
防衛反応が働いた時、反射的に触れた相手を燃やす。その後消耗したように彼女は気を失う。
その流れはかなり類似していた。
「幸い相手は軽いやけどで、将来的に痕が残るまでは至らなかった。しかし肝心な、そうなってしまった原因というのが今一つ見つからなかった。
第一、いくら喧嘩になったとはいえ虫も殺せない程か弱いあいつが、やけどを負わせたという事実に俺はいまいちピンと来なかった」
「同感です。綾瀬さんが、意図的に相手を傷つけるなんて信じられません」
前田は、悪意を持って彼女に詰め寄ろうとした。それが引き金になり、彼女の中にある何かが暴走したのかもしれない。
「他にも、同じ小学生の時期、道路に飛び出した猫を庇ってダンプカーに轢かれたことがあった。すぐに救急車に運ばれ病院に駆け込んだが、あいつの容態は救急車の中で急激に回復し、病院に着いた頃には重症どころか傷痕一つ見つからなかった。医師も目を疑っていた。
こんな事があるはずがないと。現場にはあいつの血痕が確かにあるのに、当の本人はピンピンしているものだから、事故調査もある意味難航していたよ。元気に笑顔を向けてくるあいつを見て、俺は安心した気持ちよりも不気味さの方が際立って感じた。この子はおかしい、人間じゃない。
仮にも俺はあいつの父親で守らなくてはいけない立場なのに、こいつは化け物だと思わずにはいられなかった」
「それが、きっかけだったんですか?彼女を人間の姿を模した不死鳥と疑い、調べ始めたのは?」
「・・・いや、確かにあいつは普通の人間じゃない。だからといってすぐに不死鳥と
断定できるはずもない。あいつの異様な要素から特徴の似た生き物を調べていたら、たまたま不死鳥に辿り着いただけだ。はっきりいって、ありえない話だ」
「でも、あなたのノートには不死鳥に関することが熱心に調べ上げられていた。それも最近、おそらく机上に置いていたそのノートが床に落ちていた」
「・・・そうだ。不死鳥に限らず、俺はまだあいつが理解を超えた悪魔のような存在という可能性を捨てきれていない。だからあのノートを眺めては、未だに俺はあいつの正体が何なのか考えを巡らせていた」
しかしどれだけ考えても答えが出るはずもない。彼女自身も、力の正体が何なのか見当もつかないのだから。
「話が長引いたな。要は俺が言いたいことは、あいつが危険な存在であることははっきりしている。
あいつもそう思っているから、人との関りをなるべく無くして細々と生活していたんだろう。そしてこうなってしまった以上、もう何もしないわけにはいかない。分かるだろう?」
彼が次に言おうとしていることが、僕には察しがついた。
それは彼自身にとっても苦渋の選択に違いない。
「あいつを、殺せ。これ以上被害が出る前に。それが、本人にとっても一番いい」
「・・・お断りします」
そう言うと、スッと息を吸い込む音が聞こえる。
「まぁ、そうだよな」
彼の言いたい気持ちも、分からないわけではなかった。
世間一般的に見て、彼女の存在は脅威でしかない。その事は僕達以上に、彼女自身が痛感していることだ。
〈私と、関わらない方がいいと思いますよ〉
そう言っていた彼女の陰りのある表情が思い返される。
きっと彼女は、自身の異質な面に気付いていながらもこの世界で生きていきたいと強く思っていたからこそ、人との関りをなるべく避けて生活していたのだろう。
僕のしてきたことは、そんな彼女にしか分からない努力をことごとく台無しにして、ついにはこのような状況へ陥いさせ生きようとした場所を奪ってしまったのだ。
だからこそ、僕に彼女を殺す権利はない。あるとすれば、それは彼女の方にある。
「きっとあいつは、お前に殺されることを一番に望むだろう。唯一思いを寄せた恋人に、自分の最期を委ねることができるなんて。今の状況下で、これ以上ない幸せな結末だと俺は思う」
「・・・あなたは、本当にそれでいいんですか?殺すことが一番なんて、他にも方法があるとは思わないんですか?」
「そんなものはない」
「ちゃんと考えてください。綾瀬さんは、あなたの娘でしょう」
「考えた結果だ。それに、あいつと俺は血の繋がりもない紛いものの家族に過ぎない」
「だからって・・・他に方法が」
「じゃあ他にどうしろってんだよ!?」
僕は言葉に詰まる。
普段冷徹な彼が怒声を上げたからではない。
彼の言葉に初めて、感情が籠っていたからだ。
「他に方法?お前とあいつが一緒に逃げたところで捕まるのは時間の問題だ。捕まった後、あいつは自責の念に負けて自ら死を選ぶだろう。
だからせめて、少しでも救いのある方法を考えた結果がこれだ。一人孤独に思い詰めて死んでいくよりも、お前に最期を託した方がいいと思ったんだ。
今後のお前の人生に、重荷を背負わせることは重々承知している。俺は、本物でないにしても父親として、あいつの事を第一に考えたつもりだ」
その後、彼は言葉に詰まったように喋らなくなる。
要するに彼は、現時点で詩織の心を一番救えるのは僕が彼女を殺すことだと、考え抜いた末そんな結果に辿り着いたのだろう。
本物も偽物も関係ない。彼は、おそらく不器用ながらも十年以上彼女の家族であり続け、つい一か月ほど前に出会った僕なんかよりも彼女の事を理解しているのだ。
たとえ恋人とはいえ、僕から言える事なんて正直説得力の欠片もないだろう。
それでも。
「・・・僕は、綾瀬さんと逃げます。たとえどこにも救いがないとしても、僕は彼女の傍にいたい」
それが僕の、考え抜いた結論だった。
身勝手で、どこまでも自己中心的でどうしようもないものだった。
詩織の幸せよりも自身の願望を優先したような、しかしそれがもし彼女の幸せにもなりえるのなら、それは一つの愛の証明になる。僕はそれに賭けたかった。
彼は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
「いつか、こんな日が来ると思っていたよ。あいつと出会った、あの時から」
その呟くような言葉から、彼がどれだけ彼女の為に身を粉にして日々を生き抜いてきたかがひしひしと伝わってくるようだった。
「なぁ、あいつに伝えておいてくれないか?俺はお前を愛していた。たとえ血は繋がっていなくても、本物の娘のように大切に思っていたと」
「・・・いいえ、その必要はないと思いますよ」
そう言った僕に、彼は言葉の意味を理解できていないようだった。
「彼女、ああ見えて鈍感じゃないですから」
僕が笑いながら言うと、彼はフッと小さく吹き出した。
「あぁ、確かに。そうだったな」
初めて聞いた彼の笑い声は、込み上げてくる悲しみや喪失を堪えているようで辛そうなものだった。
詩織とまた会えることはもうないかもしれない、その可能性が彼の心を締め付けているのだろう。
「涼川澪。あいつを・・・詩織の事を、任せたぞ」
「はい・・・分かりました」
返事をして、数秒後すぐに電話は切れた。
普段冷徹なイメージが定着したお堅い施設長の心の奥底はただ娘を愛した一人の父親だった。
娘のせめてもの幸せを願って僕に詩織を殺してくれと頼むのは、どれだけ荒れた心境の末辿り着いた答えなのか想像もつかなかった。
ここから先はきっとどう転んでもどうしようもない結末しか待っていないだろう。
誰も幸せになれない、悲しみ以外の何も生まない。
そう分かっていても僕は、その先へ強引に進もうとしてしまう。
結局僕のやって来たことは、ただ状況を掻き乱し続けた愚行に過ぎないのだろう。
僕はただ、詩織が好きだった。それだけなのにな。
煙草を新たに一本取り出して咥える。
この一本が終われば、すぐに彼女を連れて街を出よう。
決意の末ライターを着火し、苦い煙を勢いよく吐き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます