トロイメライは泣かない
清水ハイネ
序
1.
その日は肌寒く、細かい雨が降っていた。
長かった受験生活を終えた樹は、経済学部に進学した。仕送りは月五万、学費別。都心で生活するには、若干足りないが、受験を控えた妹のことを考えるとこれ以上は出せない、と父は言う。元々学費を自分で賄う可能性があったので、それを思えばかなりいい条件だった。
二つ下の妹は薬学部を目指しており、部屋に籠もりがちだ。その実漫画と小説を読みあさっていることは公然の事実だが、ストレスがかかっているのだろうと見逃されている。
妹と彼との扱いの差は、今に始まったことではなかった。ただ、それを不満に思ったこともないし、今後それを問題にするつもりはない。結局は自由とのトレードに過ぎない。
「……時々、遊びに行っていい?」
「来るときは事前に言えよ、」
上京前日、部屋を訪れてそういう妹の頭を、樹は軽く撫でた。母のいなくなったこの家で、一番息がしづらいのは彼女に違いない。母の死亡保険金が自分と妹の学費になるのだから、皮肉なものだ。
そういう事情もあり、生活のためにバイトをすることを前提に、樹は東京にやってきた。
ワンルームに拘った彼には、月六万の家賃がのしかかった。駅から二十分、wi-fi完備、自転車置き場付き。かなり安い方だろう。残りの家賃一万に、食費と水道代・光熱費をバイトで賄うだけと思えば、そこまで負担でもなかった。
授業が終わればバイト先に直行し、閉店まで仕事をする。友人からの誘いは数回に一度乗られればいい方だ。
バイト先は家からほど近い喫茶店。店主は五十ぐらいに見える。祖父の店を継いだという建物はかなり古かったがよく手入れされており、俺はその空間を気に入っていた。
客はまばらだが収益はギリギリプラス、昔からの固定客で成り立っている。バイト代だけを見ればもっといいバイトはあっただろうが、夕飯代わりの賄いと作業の少なさが魅力で、空き時間を見つけてはレポートを書いた。
彼女は、いつも樹の前の時間でシフトに入っていた。必然的に、彼の賄いを作るのは彼女の仕事だった。
「どうぞ」
「ありがとう」
左胸の名札には『美子』と書かれている。
彼女は、名前の通り美しい人だった。初めて出会ったのは面接に通った後、店長から姪だと紹介された時だ。優しく微笑んで頭を下げるた彼女は儚げで、樹は思わず目を奪われた。
そんな彼女は、ひどく秘密主義だった。あまりおしゃべりでない彼女が話しかけてくることは少なかったし、樹はそんな彼女に対し、どう話しかけていいものか悩んだ。
彼は、彼女がどこに住んでいて、今何歳で、どうしてここで働いているのかも知らなかった。本人いわく裏方思考らしく、ホールには出たがらなかったし、店長もそれを考慮した。不思議なことに、常連客でも彼女のことを知る人物はいない。
「ミコさんは、普段はなにをしているんですか?」
「本を読むくらい、かな」
彼女は、それ以上何も言わない。彼も、もっと押せばいいのに、どう話を繋ぐべきかも分からず、そのままカレーを口に運んだ。どんな本を読んでいるかくらい、聞いてみればいいのに。
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