エピローグ 5年後
「アスカー、買い物行くぞー」
イブキが玄関からリビングの方に向けて声を張り上げる。しかしアスカはいまだ返事をしない。まだリビングのこたつの中でぼんやりしている。
イブキは軽くため息をつき、もうとっくに履いていたスニーカーを脱いでリビングに戻ってきた。
「ほら、たまには外に出ろ」
こたつを剥ぎ取ると、アスカと目があった。まだ少し虚な部分が残っている。
イブキは居た堪れなくなって、アスカの身体を優しく起こしてやる。
「行こう、な?」
随分小さくなった肩をやんわりと掴みながら、言い聞かせるようにささやくと、アスカは少し感情を取り戻したようで、
「ああ」
と応えて立ち上がった。
イブキはその、俯いた横顔を見ながら思う。
お前がお前に戻るまで、俺はずっと側に居るからな。
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イブキが証人として証言台に立ったあの日を、コトは思い出している。
ナミとコトはあれから裁判にかけられた。
少年院に入れられると言うことはなかったが、未だ、人々に白い目を向けられている・・・。
二人は大学生になった。大学は別々だが、休みの日なんかは、しょっちゅう会って情報交換や勉強をする。
離れることも考えた。ただ、お互いにとって良くなかったのは、共依存という関係性だけだったということも、理解できた。
それを直せたら、二人はまた幼馴染兼親友に戻れるはずだ。
大人達もそれをわかってくれた、と二人は思うことにした。
二人は、過ちを二度と繰り返さないよう、政治家を志すことにした。
もちろんそれは茨の道だ。世間は二人を二度と許しはしないだろう。
ただ・・・愚かな過ちを犯したからこそ、見える景色もあるのではないか、と二人は思う。
ある日、ナミとコトは公園のドームに座っていた。
何かの拍子で話が幸福善心党のことになった。二人はそのあまりに宗教じみた胡散臭いネーミングを揶揄って笑い合っていたが、ふと、コトが笑いを引っ込める。
不思議がったナミに、コトは呟き、即座に冗談めかして笑った。
「君に演説の才能がなければよかったのに・・・なんてね」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
朝の木漏れ日が屋根に差し込む。
水瀬の声が家の中で響く。
「ご飯よ、いい加減降りてきなさい」
水瀬は2階に向けて声を張り上げた。毛布にくるまってむにゃむにゃ言っているコトに、起きる気配はない。
「わかったよ母さん。あと5分だけ・・・」
コトは、水瀬の家に引き取られた。
姉を亡くした悲しみと、実の母親がやっと自分と向き合ってくれたことと、母親が今までしてきた仕打ちへの怒りが絡み合って、コトの心境は複雑だった。
コトとて、わかっていた。水瀬が悪いわけではない。
生まれた時から異常があったコトは、病院で緊急治療室に入れられた。水瀬の二人の子供達、ハルとコトは、主にコトのせいで不気味がられ、怖がられた。
木の呪いは幼いコトにも、何か奇妙な雰囲気を焼き付けていたのだろう。
周りの人々の恐怖心が、水瀬と姉弟を引き裂いた、こういう言い方が、一番近かった。
コトがやっと階段をドタドタと降りてくる気配がする。それを待っている間、食卓についた水瀬はぼーっと前を見つめる。見えるのは台に乗った炊飯器だけだ。
見えないハルに向かって手を伸ばした。
何もできない自分を悔いているのだ。母親になれなかった自分、母親になるほど強くなれなかった自分を。
水瀬には、滲んできた涙を流す資格すら、なかった。
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治安維持協会の会長は辞任した。そもそも今回の騒動で人々を守ることができなかった治安維持協会は、責任を取れと世間から強く要求されてきたのだ。会長が辞めるのは風潮から言っても当然だった。
これから、この組織のあり方は、人々によってまた新たに考えられていくものとなる。
謎のケダモノについてはいまだに調査が進められているが進展はない。
また、この一連の騒動の全てを知っているアンズも、今は公にしようとは思っていない。
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この街やケダモノに襲われた地域は、建物や経済の復興に立ち上がった。
マキはまだ戻らない。
アスカは精気を失った。
ハルは亡くなった。
アンズの周囲には暗い影が大きくなった。
得たものなどなく、失ったものはあまりに大きかった。
ハルをしのんで、毎年春になるとあの大木の元でお花見をする。
5年間、一度も中止はなかった。
それは彼ら彼女らの習慣となった。
・・・・・・・・
汗が滴る。
私は頬を拭い、掌で風を仰いだ。
あの大木の元に向けて、歩いている。それも、彼女の体をおぶって。
マキの体は、驚くほど軽い。
5年間、マキの体を探し続けていた。
他の人が、ケダモノから人間に戻ったと聞いたので、私は決して諦めなかった。
なぜマキだけが人間に戻らないのかという理由はわからないけれど、私もマキの体さえ見つけることができれば、魂をその体に入れられるのではないかと考えた。
そして今、ついに見つけたマキの体を背負っている。
なんとマキの体は、この街から10kmも離れた洞窟の中にあったのだ。
そろそろ森の最上部だ。
あの、昔は大木だった木が見えてくる頃だ。
治安維持協会の協力にはとても感謝している。
マキを一緒に捜索してくれた。
私の視界が開けた。5年前とほとんど同じ景色だ。右側に向かって歩いていきながら、木に話しかける。
「ただいま」
すると、小さな声が私の脳内だけに返ってくる。
『アンズ、それは・・・』
私は痩せ細ったマキの体を、地面にそっと降ろす。
悲しくなった。マキはまるで骸骨のようで、骨が浮き出ている。
「マキの体、やっと見つかったよ。これで・・・戻ってこられる?」
私は、幹を見つめる。心臓が音を立て始める。
もしマキがこの体に戻ってこられなければ、私は一体どうすればいいの。
戻ってこられる保証なんてどこにもないのだ。
「ありがとう」
すると、マキの声が変わった。
私の頭の中に響いてくる様なものではなくて、本当に耳から聞こえた。
私は視線を、幹から下へと下ろしていく。
地面に横たわったマキを見る。
「あ・・・ああ・・・」
言葉が出てこなかった。
マキの瞳は、あの頃と全く変わらない。
黒くて強い色だ。
私は上体をかろうじて起こしたマキを、ぎゅうっと抱きしめた。
自分が泣いているなんて、気づきもしなかった。
マキも涙ぐみながら微笑んで、力の無い腕で私の背中にそっと触れた。
私たちは日が暮れるまでそうして抱きしめあっていた。
END
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