奏サンライズ

源 侑司

奏サンライズ

 昇り出した朝日が私の横顔を照らす。わかっているのに光の方へ視線を向けると、やっぱり眩しくて目をつむった。

 人けのない通学路。ゆっくりと輪郭を取り戻す見慣れた景色。私ひとりにだけ向けられたあいさつのように、光はどこまでも私を追ってくる。


 夏休みに入って毎日、所属する吹奏楽部の練習がある。私は毎日太陽が昇り始めると同時に、相棒のクラリネットを肩に担いで学校に向かう。

 本当はこんな朝早くに学校に行かなくてもいい。こんな時間に行ったって自分以外に誰も来はしないし、そもそも部室のある校舎は開いていない。

 校舎の中には入れないけど、開錠の時間が来るまで、校庭のグラウンドに向かってひとりで練習をするのが私の日課だ。別に私がそれほど練習熱心というわけもないけど。ただ、その時間がたまらなく好きだったから。


 ところが、その日に限ってまさかの先約を見つけてしまった。

 私がグラウンドを見下ろせる場所まで来ると、すでに誰かがグラウンドを走っている。それもたったひとりで。


 こんな時間から走っているなんて変わった人だなと思いながら、すぐに自分の方が物好きだと自嘲した。

 陸上部が朝練でもやっているのかと思ったけれど、どうもそんな風には見えなかった。陸上部にしては足が遅いし、何よりフォームがずいぶん不格好だ。私は走りに関しては素人だけど、陸上部っぽいかそうでないかぐらいは見れば何となくわかる。


 いったい誰だろうと、興味本位で足をグラウンドの方に向けた。学校が開いて部活の連中が押し寄せてくるとここは一気にアウェーな空間になるけど、昨日までこの時間のこの場所は私のものだったのだ。私だけの宝物を侵害されたような気がして、少し腹が立つ。


 楕円形のトラックを、ゆっくりとしたスピードでその人物が回っている。私はトラックの側まで近寄ると、後は向こうがやってくるのを待った。

 次第に、その正体がつかめてきた。どうやら、走っているのは男子だ。たぶん、この学校の生徒だろう。そうでなかったとしたら、不法侵入案件として即刻先生に突き出さないといけないけれど、それは面倒だから勘弁してほしい。


 さらに近づいてくると、その顔に見覚えがあると気づいて、ほっとした。どうやらこの学校の生徒――どころか、同級生であるのに間違いない。彼はクラスは違うけれど、学年で一番成績が良いことで有名な諸岡くんだ。

 ずいぶん長く走っているのか、荒れた呼吸が聞こえてくるほどの距離になると、諸岡くんも私の存在に気づいたようだった。そして徐々に速度を落とし、私の目の前までやってくると、向かい合うように足を止めた。


「玉木さん」

 あまり驚いた様子は見せず、諸岡くんが私を呼ぶ。


「え、私のこと知ってるの?」

 逆に、驚いた反応をしたのは私の方だ。私と諸岡くんは直接話をしたことはない。私は諸岡くんのように人より目立つものは持っていないから、知られてなどいないと思っていたのに。


「同級生の顔と名前ぐらいは覚えてる」

「へぇ……そう」


 さも当然のように諸岡くんは言ったけれど、同じ学年でも生徒は数百人いる。同じクラスの数十人ならともかく、数百人全員なんて私には無理だ。私は思わず唖然としてしまった。


「何やってんの、こんな朝早く。諸岡くんって陸上部とかじゃないよね?」

 私の記憶が正しければ、確か彼は部活はやっていなかったような気がする。代わりに、生徒会の活動とかはやっているけど。


 すると、諸岡くんは汗をぬぐいながら視線を泳がせていた。


「答えづらいなら言わなくても……なんて言わないよ、悪いけど。こんな誰も来ないような時間に走ってるなんて、理由ありに決まってるんだから。私の沸いた興味の行き場、責任取ってくれないと」


 我ながら意地の悪いことを言っている。だって、私の大事な時間を奪われたのだから、せめて聞かせてもらわないと腹の虫が収まらない。


「それを言うなら玉木さんだって。僕は初めて来たけど、玉木さんは昨日も一昨日もこの時間に来てたでしょ?」

 私は目を丸くして驚いた。何で、そんなことまで。


「人目につかない時間を探して、何度かここに来てた。でもいつ来ても、玉木さんの方が早かった。こうなったらもう、夜明け前ぐらいしかないなと思ったよ」

 ぼやくように、諸岡くんが口を尖らせる。


「え……まさか、明るくなる前から走ってたの?」

 そう言うと、諸岡くんはこくりとうなずく。


 驚きを通り越して、私は呆れてしまった。そうまでして、何のために走ってるんだろう。その疑問を胸に抱いて、じっと諸岡くんの方を見つめていると、彼もそれを感じ取ったのか、恥ずかしそうに口を開く。


「その……マラソン大会に向けての練習だよ」

「マラソン? ひょっとして……秋にやるやつ?」


 毎年秋の恒例行事として、全員参加のマラソン大会がある。男女別に行われ、確か男子は約十キロの距離だ。


「去年は散々だった」

 その当時を思い出しているのか、諸岡くんは顔をしかめて、首を横に振った。


「だから今年は少しでも挽回したくてさ」

「運動、苦手なんだね。それでこんな時間から走り込み?」

「そうだよ。昼間だと人目について恥ずかしいし、暑いだろ」

 私は突然、おかしくなって吹き出した。だからって夜明け前?

「ははは、諸岡くん、おもしろいね」

「は?」

 怪訝そうに、諸岡くんが首を傾げる。


 私は諸岡くんのことを全然知らなかったけれど、どうやらずいぶんと負けず嫌いな性格らしい。そして、たぶん見栄っ張りな性格だ。苦手な運動もそうだけど、得意な勉強でさえ、必死で勉強している姿が目に浮かんだ。


「いいね、そういうの」

「何がいいんだよ」


 諸岡くんがわけがわからず不満そうにつぶやく。意外な一面が知れて満足したから、私の怒りもすっかり収まった。


「で、玉木さんこそどうして」

 予想はしていたけど、ブーメランのように同じ質問が返ってくる。


「私は、気持ちいいからだよ」

 空を仰ぐように、私は答えた。


「こんな時間に演奏するのが?」

「そうだよ。ちょっと待ってて」


 私は担いでいたクラリネットを組み立て、少しだけ演奏してみせる。興味があるのかないのか、諸岡くんは表情を少しも変えずにそれを眺めていた。


「どう? 何か、音が自由に泳いでるような気がしない? そのうちさ、私もその音に乗って空に飛んで行けるんじゃないかなって思うんだよね」


 もし音が形になって見えるなら、音符に羽根が生えて鳥のように飛んでいる姿じゃないかと思う。朝の静かな空には、私の生んだ音以外、何も存在しない。私の音だけがこの広い空の中で、自由に羽ばたける。それが、最高に気持ちいい。


「それは気のせいだね」

「うわっ、夢がない。それはちょっと幻滅だよ」

 せっかく諸岡くんの人間味あるところを見つけて嬉しくなってたのに。私は露骨に顔をしかめてみせた。


「でも、楽しそうなのは伝わった」

「……それなら、まぁいいけど」

 別に私が嫌そうにしたからではないだろうけど、諸岡くんがほんの少しだけ笑ったように見えたから、許すしかない。でも楽しそうと言われたのは、正直嬉しかった。


「そうだ、いいこと考えた。ねぇ、もう一周走ってきてくれない?」

 ふと思いついて、私は先ほどまで諸岡くんが走っていたトラックを指さす。

「え、何で?」

「いいから、さぁほら行って」


 怪訝そうに首を傾げながらも、元々練習を続けるつもりだったからか、意外と素直に諸岡くんはトラックへ向かった。ゆっくりとしたスピードで、引かれたラインに沿って走っていく。

 改めて見ても、やっぱり遅いなと呆れてしまう。


 でも、手を抜いているような感じじゃない。さっき遠目に見てた時もそうだったけど、すごく本気なのが伝わってくる。本番でも今と同じ必死な表情のまま、ゴールする姿が想像できる。

 諸岡くんのことはそんなに知らないけど、そんなに一生懸命なところ見せられたら、つい応援したくなってしまった。

 その努力が、実を結ぶといいね。


 私はおもむろにクラリネットを奏でる。曲名も何もない、完全な即興。ただ、ゴールに戻ってくる諸岡くんの頑張りを称えて。

 疲れでうつむきかけていた諸岡くんの顔が上向く。心なしか、足取り軽く速度が上がった気がする。

 私の演奏のおかげかな。そうだよ、私の音が、羽根の生えた音符が、今君の背中について君を押しているんだよ。


 一周走り終えた諸岡くんは、肩で息をしていて言葉を発するどころじゃなさそうだったけど、何を言おうとしているのかは目を見ればわかった。


「諸岡くんのための応援歌。どう? サービスだよ」

 そう言って、笑ってみせる。


「ありがとう、悪くないね」

 絞り出すような途切れ途切れの声が、朝日に色づいていた。

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