スコーンが食べたい
般若
スコーンが食べたい
ドアを開けて、涼しい風に驚く。なんだ、外のほうが涼しいじゃないか。窓が二面あると明るくていいがとにかく部屋が暑くなる。もう少し遮熱性のあるカーテンを買ったほうがいいかもしれないなと思いつつ、トントントンと勢いよくアパートの階段を降りる。この古い木造アパートは外階段を人が通るたびにひどく部屋が揺れる。みんなわかっているだろうになんでどしどし歩くんだと苛立つときもあるが、そうか、こういうことか。気分がいいと階段なんて勢いよく降りてしまうものなんだろう。
金曜日から日曜日にかけてが西川の「至福のひととき」で、金曜日、仕事が終われば近所の店でディナーをテイクアウトしたり、スーパーで普段買わない惣菜や菓子を買ったりして夜ふかしをする、というのがいつものパターンだった。しかし今週の金曜日はなにか美味しいものを狩りにいこうという気力もなく朝の味噌汁の残りを飲んで早々に寝てしまったのである。
というのも、ここ1ヶ月ほどは会社が繁忙期で、目の回るような忙しさ、この1週間は特にひどく毎日1時間早出をした上で3時間は残業をしていた。残業代はもらっていなかった。絶対にみなし残業分の時間は超えているのだが、在宅勤務になってから原則「残業はなし」ということに「なって」おり、何時何分に作業を終えたと毎日記録をつけているでもないのでこの80時間はなかったことになっている。きっとどこかに事細かにメモをしておいて請求すればもらえないこともないのだろうが、そこまでして波風を立てたくないというのが正直なところだった。労務部には古株の社員が多く、そこそこの力を握っている。この在宅勤務で関連業務が増え、「労務の仕事をこれ以上増やすな」という無言の圧力を日々感じる。とがったやつだと思われたくない、「これだから最近の若者は」と言われたくはないのだ。残業に加えここのところの情勢でボーナスはない、正直やってられないが、かといって今すぐこの会社をやめて転職する気概もない。きっとこれからも休日になんとか気力を回復させ、だましだましやっていくんだろう。
やっと外に出て何かを見たり選んだりする気力が回復した土曜日の夕方、西川の頭に浮かんだのは1軒のパン屋だった。そのパン屋はいつものスーパーにいく途中にあり、客が2人はいればいっぱい、という小さな店だった。たしか、自転車で通り過ぎざまに自家製スコーンがおいてあるのが見えた気がする。あの店のスコーンが食べたい。
パンにしては固くてパサパサで、クッキーにしては柔らかくて重たい、スコーンとは不思議な食べ物だ、と西川は思っていた。しかしこうして食べたくなったということは、決してまずいと思っているわけではないのだ。コンビニのスコーンはわざわざ買う気にはならないが、パン屋の自家製スコーンというのがまたいい。西川は自転車を飛ばした。
うっかりいつものように通り過ぎそうになってしまう。確かに小さくて外装も地味だが、それが理由ではない。ドアが閉まっている。あれ、もう閉店時間が過ぎているのか?土曜の5時半。閉店時間には少し早いだろう。休業だろうか。自転車を止め、ガラスのドアから中を覗くと「本日のパンは完売しました」と札がかかっている。そうか、その発想はなかった。確かに。小さい店だからその日の分が早くにおわってしまうこともあるだろう。ちょうど長かった梅雨も明け、天気の良い土曜日、もはや当然とも言える。
困ったな。自転車にまたがりながら思案する。少し足をのばしてこの間行ったベーグル屋にいくか?いや、ベーグルも西川にとってはスコーンと同じく不思議な食べ物で、そう短期間に何度も食べたいものではない。さらに行けば繁華街がある。新しいパン屋ができていたのが気になるが、そんなに長く自転車を漕ぐ気分でもない。仕方なくだらだらと、来た道をもどる。どうしようか。戻ればケーキ屋、ジェラート屋、クレープ屋といろいろある。一旦帰ってもう少し待ち、晩御飯を探しに行くのでもいいかもしれない。だが結局こんなときはいつもの商店街のパン屋に落ち着いてしまうのだ。そうだ、そういえばあの店にもいつもスコーンがおいてある。それで妥協しようと再び自転車を漕ぐ速度を上げる。
普段外食や買い食いをなるべく控えている西川も、商店街のパン屋にだけはよく行っていた。ナチュラルな内装、おいしくておしゃれなのにどこか温かみがあって良心的な価格のパンを売るこの店がとても気に入っている。ドアを開けて中に入る。もう夕方なのでパンがビニールの個包装になっている。そういえば学生時代にパン屋でアルバイトをしていたときも、朝の焼き立て・作りたての時間が終わったら、パンをビニールに入れる作業があったなと思い出しながら棚を見る。
スコーンが、売り切れている。
なんということだ、スコーンに縁がない。完全にスコーンの口になっていたのに。今日は偶然たくさんの人がスコーンが食べたくなったのだろうか。同時多発スコーンの口現象だ。縁がないということは、今日無理にスコーンを食べたら喉につかえて死んでしまう、そういう日なのだろう。仕方なくと言っては失礼だが、来週末気が向いたらリベンジしようと思いながらかぼちゃのマフィンを買って自転車にまたがる。
かぼちゃのマフィンは美味しかった。食べ終わると、スコーンが食べたいという欲求は嘘のように消えていた。スコーンとは不思議な食べ物で、突然食べたくなってもそれが叶わなかったからと言ってずっとその欲求が続くものではないのだ。
スコーンが食べたい 般若 @rinBianchi
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