第10話 自律的定言命法道徳論

電車に乗り、乗り継ぎ、そして今は八王子に向かっている。

風葉を挟むように俺と理愛華が座っている。

街並みが次から次へと変わり、瞳を流れる。

平日、ラッシュではない午前の電車はかなりすいていた。それに加えて各停なので、俺達はのんびりと電車に揺られていた。


理愛華「風葉、寝ちゃったね」


ふと理愛華の言葉を聞き、横を見る。

すると、小さな寝息を立てて、風葉は確かに眠っているのが目に入る。


勝幸「まぁ、着くまで長いしね」


家を出てから着くまでを総合すると、恐らく2時間程度かかるだろう。いくら車窓しゃそうの景色が面白くても、流石にそんな長時間眺めているのもちょっと退屈だ。


勝幸(……道徳って、何だろう)


そんな時、俺は考え事を始める。ふとした身近な事を、哲学や倫理を用いて考える。

今回も例外ではない。


勝幸(俺は……正しかったのだろうか…………)


俺と風葉との関係について考えながら、俺は静かにフィロソフィーを始めた。



≪≫


───感嘆と畏敬の念をもって心を満たす二つのものがある。我が上なる星空と、我が内なる道徳法則とである───


ドイツ観念論の創始者、カントが著書にしるした言葉である。

カントは、著書『実践理性批判』において、ある道徳を提唱していた。


人に優しくする。決まりを遵守じゅんしゅする……

このような事は、きっと殆どの人が親や先生にそう学んだだろう。勿論、当然の事である。

では、どうして当然なのだろうか?

すぐに答えられない人も多いだろう。実際、最初は俺もそうだった。

当時は絶対的存在だった、神の教えに背くという理由ではない。カントは、人としてそうあるべきだから、と提唱した。

助ける事、それが当然。そのような義務に基づいて行動するのが、彼にとって道徳的なもので、人としてあるべき姿だった。

このように、自らに命令して行動する事を自律、一文字加えるなら自律的という。


では、どのようなものが道徳的、自律的なのか。例を出そう。

教師がクラスで回収した大量の提出物を運んでいる姿を、ある生徒が見つけたとしよう。

この時、生徒が手伝うという前提の上では、2つのパターンが成立する。

1つは『手伝えば好感度が上がるかもしれないから、手伝おう』というものである。

この思考には、好感度を上げるという"欲求"が潜んでいる。これを仮言命法といい、欲望に縛られた、選択の自由なきものと述べられている。

2つ目は、『先生が大変そうだから、手伝おう。助けるのに複雑な理由はいらない』というものである。

この思考は、誰かの命令を受けてない、つまりは他律でなく、見返りを求めない"欲求"なきもの。これを定言命法という。


この定言命法こそが、欲望という制約に縛られない自由な選択をうながすものだという。

自由。それは、自らルールを作ってそれを守るという自律そのものである。


カントの道徳論について考えた上で、俺の行動を振り返ってみる事にした。

何故、俺は風葉を拾ったのだろう。

助けたら後々お礼が手に入るから?それとも欲求の対象とする為?それとも家事とかを手伝わせる為?

どれも違う。

俺は…………きっと、助けなきゃって思ってた。それが当然の行動として、助けた。

失礼な話だが、心身疲れ切っている上にバッグ1つ分の所持品しか持って無い少女に、何を求められると言うのか、と思う。

どちらかと言えば華奢きゃしゃな身体で、風葉は1人で歩き、食べ、眠り、そしてまた歩いて、ここまで来た。そんな人に対して、どうやって冷たく突き放せようか。勿論、風葉の家出までの経緯いきさつを知っているかどうかの以前に、である。

だから、俺は欲望にむしばまれていなかった。見返りなど頭になかった。自由な選択の上で道徳的に動いた。

助けて、親御さんの下へ向かい、問題を解決する。これが一番。そう、一番道徳的で理性的な手段だ。

その筈なんだ。


でも…………

もう少し一緒にいてあげたい、いや……一緒にいたい。そう思ってしまうのはどうしてなんだろう………………



≪≫


ふと、目を開く。

景色が流れている事に変わりはない。向かいの人は、恐らく哲学をしていた間に前の人がいなくなり、新たに座った人だろう。

横を向くと、理愛華は本を読んでいた。


勝幸「後何個の駅だ」

理愛華「さっき橋本だったから……相原、八王子みなみ野、片倉、そして八王子。終点入れて4駅止まるわ」


ありがと、と簡素な感謝を口に出して、俺は今度は風葉を見やる。

まだ風葉は、俺と理愛華に挟まれて眠っていた。

寝息に合わせて、小さな胸が僅かに上下している。目を閉じた彼女は、まるで人形の様に柔らかそうで、可愛らしい。


俺はこいつと、どうして一緒にいたいと思ったのだろう。

多分……華奢きゃしゃで、幼く、悩み、困っていた彼女に対して、ある感情を持っているからだろう。

それは、どんな物なのだろう。どんな感情を風葉に対して抱いているのだろうか。

その答えはすぐには出ない。まだ、それは曖昧とした、言葉に表せない物なのかもしれない。

まぁ、今は考えても仕方ない。まずは何とかして和解に持ち込めるように心がけるのが優先だ。

取り敢えず風葉は隣で気持ち良さそうに寝ているから、乗り換えはまだだし、もう少し寝かせてあげようかな。


俺は携帯を開いて、昨日の続きを調べる。

あるサイトを開いては閉じ、別のサイトを開いては戻って、新たに検索して次のサイトへ…………

ネットの信憑性しんぴょうせいは疑うべきものだから、俺は何個かサイト巡って、同じ事が述べられているか確認するタイプだ。

今回もそうした結果、やはり同じような事が書かれていた。が、信じられなかった。


ふと、左側から腕がピンと伸び、俺の視界に入った。

風葉の伸びだった。


勝幸「お、起きたか。タイミング良いな」

風葉「もうそろ着くの?」

理愛華「次が八王子だよ。降りる準備もしておいてね」

風葉「うん」


暫くして、アナウンスが流れる。

終点のホームに電車が入り、ゆっくりと停止する。乗客はおもむろに立ち上がり、ドアの前で待機する。

そんな姿を背景に、俺は携帯を見ていた。


そして、思わず舌打ちが出る。俺は携帯をかばんにしまう。


風葉「勝兄、降りるよ」

勝幸「あ、あぁ」


かばんにしまう前、俺は携帯から2つのタブを閉じた。

そこで俺は、『監護権 変更』、『民法』と検索していた。

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