都会の仙人

髙月晴嵐

前編 都会の仙人

賑やかな交差点から逃げるように私は道を歩いた。


私はこの都会の騒がしさが嫌いだ。人波に揺られて孤独の底に沈んでいく。

しかし、この街では緑が散在しているので、まだ住みやすい。


夜を引き連れる赤い雲がビルに降りている。

今日も意味もなく一日が過ぎてしまう。

吐いた息が一瞬、空気を白に染めた。





『そこの人』





不思議な声だった。高いような、低いような、だが中性的でもない。老若男女の声を鍋に放り込んで煮込んだような声。

見上げると長い髭を生やした老人がビルの上から見つめていた。




『何故ため息をつく?』




屋上から響く言葉は日本語とはかけ離れているのに意味が鮮明に理解できた。



「いや、また今日が終わってしまうので」



怪しさではない。もっと別の雰囲気をその老人は纏っていた。奇妙な雰囲気のせいで、思わず会話をしている私。


『沈む陽が恨めしいのか』


「はい。え?」


老人が目の前に立っていた。細い目の奥に自分の驚く顔が映っている。

表情とは別に頭の中の冷静な私が記憶を手繰り寄せると、ある噂が浮かぶ。夕方に仙人のような老人が現れ、見た者を何処かへ連れていくという噂だ。聞いた時はただの徘徊している老人かホームレスだろうと思って失笑した。

ああ、案外、噂もあてになるものだ。じっと仙人の顔を見つめると、彼の深いシワには途方もない年月が刻まれている気がした。


何処へ連れていかれるのだろうと考えていると、仙人は背を向けた。


「ま、待ってください!」


子が親に置いてかれるような気分になった私は仙人の後を追った。

歩く度に街灯に照らされて浮かぶ二人の影が大きさを変えていく。


「!?」


気づけば、住宅街が田んぼに変わっていた。一昔前の太陽のような暖かくも、暑くはない陽が降り注いでいる。周りから豊穣と実らせる力強い稲の意志が胸を突き抜けていく。空には鱗のような雲が敷き詰まっている。


前を向くと、仙人は尚も歩んでいた。私は意を決し、足を踏み出す。

足につく影が縮み出した。太陽が真上に戻っていく。


「何故悩みを抱えている?」


「私は幸せな人間です。お金には困らないし、人との繋がりにも恵まれています」


景色が先ほどと変わって原野が広がり、悠然と棚引く茅が咲き誇っている。茅の一つ一つが柔らかい穂を風に揺らして、こちらに手を振っている。


「しかし、満たされないのです。大事な何か欠けているのです」


「簡単だ。お前は不幸を知らなかっただけだ」


言葉の矢尻が深く刺さった。人は可哀想な生き物だ。欲に動かされるのに、決して満ちる事がない。満たされる手段は幸福ではなく不幸だけなのだろうか。


「…私はこの先、不幸を知れば?」


首を振る仙人。


「草木は夏秋に命を謳歌し、そして冬に淀みなく枯れる」


灰色の風が吹いて茅が枯れていく。力なく倒れると乾いた土埃が舞う。


「だが、春には…」


仙人が言葉を止めた。太陽が富士山の方向に沈んでいく。


「今日はここまで」


「え」


景色は一瞬で元の夜の住宅街に戻っていた。

悩みの原因に気づかせてくれた感謝をする間も無く仙人は消えていた。


アスファルトの地面を走った。どこを見渡しても、原野はなかった。

少しばかり、小さな林や池はあったが、あの雄大な自然は現代にはない。

もはや先ほどの神秘的体験が現実のものだったのかわからない。

しかし、思い返すと仙人は『今日は』と言っていた。


もし現実ならば、仙人はまた私の目の前に現れる。


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