三十日目 オオムラサキ&ミヤマクワガタ
「ハァ……! ハァ……ッ!」
うっそうと茂る木々の中、俺は荒い息を吐いて身を潜めていた。雑木林の中、ひらりと足を踏み入れたはいいが池の場所が分からない。整備はされているものの、地図などはなく現在地すら不明だった。
いままで走っていた影響で、まだ呼吸は落ち着かない。手のひらで口元を覆い、なんとか音を出さないように注意するだけで精一杯だ。しかし虫は目敏く俺の場所を何度も見つけ出す。
そういえばここはヤツらの巣があるんだった。だったら逃げ込むのはここじゃなくて、素直に家に帰れば良かったのでは、と少し後悔している。しかし来てしまったものはどうしようもないか。ここは何とか逃げ切らなければ……。
「うわっ!?」
しかしスズメバチの一匹に見つかってしまう。幸い人間に化けた個体ではなかったが、それも時間の問題で、すぐに追いつかれてしまうのだ。俺には分からないけれども、ハチの間で通じる言葉でもあるんだろうか。
「そこね!? いま行きます、幹也さん!」
「マズい!」
腰を上げ、再度走り出す。立ち並ぶ幹の間を縫って、ここではないどこかを目指した。もう、なんで俺ばっかりこんな目に!
しかし姉を守ると約束した以上、俺にだってほんのちょっと責任があるのだろう。俺がいまこうして逃げていることも、本来姉に行くはずだったのだと想像すると、少しあの人が可哀想に思えてくる。
もしかして、俺のために、虫に慣れてくれたのかな……?
淡い期待が頭をよぎるが、あの高慢な姉のことだ。きっとそうではないに違いない。俺のためを想うなら、殺虫剤の一本や二本、寄越してくれてもいいものを。
「ふぅ……、ハッ」
何度目かはもう覚えていない。改めて植物の陰に隠れて、わずかな休息を取る。分かっているんだ。本当は無駄な抵抗かもしれないって。
俺ってマジで虫の姫なんだな。だったらどこかのヒロインにでも据えてほしいよ。こんな虫に追いかけられるだけの人生なんて、端から見れば面白いだろ?
なぁーんて、自虐はよそう。俺は俺の人生を生きるのみ! 強く生きよう。
「わっ! ……って、オオムラサキ……?」
また虫が目の前に現れたので、スズメバチかと思ったら違った。ひらひらと優雅に舞うそれは、今年の夏、良く見たメスのオオムラサキだ。紫と付いているがその色なのは、実はオスだけで、メスは白と茶色のツートンカラー。光の具合で紫に見えなくもないが、それならやはりオスの方が美しい。
彼女は安心した俺の胸に止まると、女性の姿に変わった。
「主様、会いに来てくれたんでありんす?」
「あー、いや、そうでもないんだけど……」
久しぶりに会った彼女は、意外と元気そうであった。誰だよ、寿命って言ったヤツ。まだ生きてるじゃんか。そしてしぶとく俺を狙っていると見える。
しかし相手をしている時間はない。早いところ逃げないといけないんだよ。
「その、俺いま取り込み中だからさ。どっかに行ってくれない?」
「スズメバチでありんすね?」
だけどこの話はすでにオオムラサキにも伝わっているようだった。噂って広まるの早いよね。しかしその噂は七十五日も経たずにキレイさっぱり消えてほしいものなのだが。
「ずっとわたくしと縄張り争いしていた因縁の相手でありんす。主様の元へ行ったのも根に持たれていたようでして……。あのとき森の中から主様を狙っていたので、収めるためにお側を離れましたが……」
あのとき……? 離れた、って言ってるから、もしかして羽田さんと図書館の前で待ち合わせした、あのときか!?
「えっ? 本当に!?」
いきなり森に飛んでいったので、てっきり腹が減ったとか、死に際を俺に見せたくなかったとか、そんなのかと思ったよ!? 羽田さんの意見に引っ張られたね。
てか俺、あのときスズメバチに狙われてたのか。全然気付かなかったよ……。しかしそのお陰で俺は平和な日を送れたんだ。その点では感謝だな。
遅かれ早かれこうなっていたかもしれんが、羽田さんを危険に晒すことはできない。
「知っていますか? 意外とわたくしもハチと戦えるんですよ?」
言って、後ろの翅を大きく動かす。やめて、粉が出そうだから。アレルギーにでもなったらどうしてくれるのよ!
しかし、戦えるなら仲間には欲しいところ。……虫だけど。どうせ仲間を募るなら、俺は勇者に産まれたかった。
「ですが、……さすがのわたくしでも、人の姿になったスズメバチには敵うかどうか。あぁ、わたくしも人に近付くことができれば、主様のために戦えますのに……」
こいつらは……! やっぱりうまいこと俺のカラダを吸おうとしてくるんじゃないか! だけど、大人の女性には大人の女性にしか分からない弱点があるかもしれない。アブラゼミ少女は力尽きたのかもう食い止めてくれていないし、この雑木林で一晩も二晩も過ごすわけにもいかなかった。まだお昼前だとは思うけど。
しかし、約束の時間には遅れてしまっただろうか。今日も会えると思ったが、後で詫びの言葉を伝えよう。せっかくこの前初めて連絡先を交換したというのに、最初の連絡がそれなんて申し訳ないな。
さて、今度は眼前の昆虫に意識を戻そう。チラチラとこちらをうかがっている。渋い顔をしながら、嫌だという意思表示を行ってみたが、効果はなかったようだ。こいつらは空気を読むことをしないからね! 自分のいいように生きてるからな!
「幹也さぁん! どこですか!?」
「ヒィ!」
遠くで俺を呼ぶ声がする。もう迷ってはいられないが……、しかしどうする!?
「お願いでありんす。必ずやお役に」
しれっと俺の腕を谷間に挟まないで! なんなの、大人になれば気軽にお胸のテリトリーを許してくれるんですか!? だったら俺も早く大人になりたいもんだ。
「わ、わ、わ……!」
真摯そうな顔をしているが、その奥ではイケナイことを考えているに違いない。俺が答えに詰まっていると、お姉さんは色気たっぷりに誘導してくれた。
「大丈夫でありんす。力を抜いて、わたくしにお任せください。主様、お慕い申しております」
喋り言葉も相まって、夜の繁華街に来たような雰囲気を醸し出す。彼女の艶やかな唇に俺の指が押し付けられると、もう抵抗できない。静かに震えるが、緊張で拒否の声を上げることも出来なかった。
「あっ、ふぅ!?」
最初に指に触れるのが誰かの指じゃなくて、舌だったことに驚きだ。そんなに吸われると、俺、変になりそうだよぉ!
いや、もうこれでおしまいだ。だってオオムラサキはスズメバチと戦ってくれるって言うし、きっと勝ってくれるだろう。
やがて口の中から解放された指は、されるがまま彼女の両手に包まれる。だらしない顔はさすがに年の劫なのかしていなかったが、満足そうに微笑んでいた。
「それでは主様、わたくしは行って参りますね」
「え、あ、……はい」
とりあえず返事だけをして、オオムラサキを送り出す。変わらずひらひら舞っていくが、人間だと思えばでかい物体だ。けっして胸で揺れている柔らかいものを言ったのではない。
「あぁら、スズメバチ! どうやら主様をお探ししているようでありんすね」
「……オオムラサキ!」
「実はわたくしも主様のおカラダをいただきましてね。主様は、やはりわたくしを選んでくれたようでありんす!」
そんな煽るような台詞、見つかったら俺がヤバいじゃんか! まだ遠いようだけど、いつどうなるか分からないし、俺もいつまでもぼーっとしてないでもう少し遠ざかろう。
そう思っていた矢先だった。
「おい、貴様。わたしだ、ミヤマクワガタだ」
ひっそりと、背中から声が掛かる。ミヤマちゃん……? もしかして、いまの見られてた!?
「ど、どうしたの?」
なんとか動悸を押さえつつ、何かあったか訊いてみる。あれ、こいつ家に全裸待機じゃなかったか?
「ムネアカオオアリに呼ばれてな。貴様がハチに襲われていると」
あぁ、ムネアカちゃんが呼んだのって君なんだ。しかしなんか気まずい。どうやって開けてもらったんだろう?
「あいつは森でも厄介な存在なんだ。とにかく、オオムラサキが惹き付けてくれている間にここを去ろう」
ミヤマちゃんに誘われて、静かな場所に出る。確かに迷いやすいが、直進すればどこかに出られるような規模だった。それもそうか、都会の真ん中だもんな。深い森なんて、そうそうない。
図書館の高い頭が見えてきて、やっと安心できる。
「ありがとう。もうこれで大丈夫だと、思うよ」
「フ、フン! 別に、貴様のために案内したわけではない! これ以上森が荒らされると困るからな!」
リアルお姫さまは、俺にお姫さま抱っこをされながら顔を背けた。耳が少し赤い。暑いからね、俺もたぶん血流が良くなって似たような顔をしていると思う。まぁ、何はともあれ少し歩けば図書館だ。しかしスズメバチはどうなるんだろう。
「あのさ、あの、スズメバチの人はどうなるの?」
「はぁ? 貴様……、この期に及んで、人が良すぎるぞ」
「でも……」
危険生物とはいえ、この森の仲間なんだろ? 虫の世界も厳しいのかもしれないが、争うのはあまり見たくはない。これが人間のエゴってやつなのかなぁ。
「安心しろ。わたしがうまいことやっておく。貴様はもう森には立ち入るな」
意外と難しいことを言うが、夏休みが終わればしばらくは図書館に行くこともないだろう。来るとしても冬休みか、来年の夏休みだ。
「そう。それなら安心して任せられるよ。あの人も、俺が相手じゃなかったらな……」
そういえばミヤマちゃんは、俺のカラダを舐めさせろとは言わなかったな。ん、でも待って。人間になった後ってどうすればいいんだろうか? いま頃になって不安が込み上がってくる。余裕ができた証なのだろうが、こちらが森に立ち寄らなくても襲ってくる可能性はあった。
「あの、ミヤマちゃ――」
「シッ! ……くそっ、オオムラサキは何をやっている!?」
ピリッと空気が変わり、緊張が走った。その言葉と怒りが示すものを俺は知っている。まだあのハチは諦めていなかったらしい。
「見つけましたよぉ! 幹也さん!」
翅は少し折れて息も上がっていたが、その執念や素晴らしき哉。素直に怖い。さっき情けなんてかけなければ良かった……。
「逃げろ! 走れ!」
叫んでミヤマクワガタは離れるが、蜜を吸っていないので虫の姿に戻ってしまう。
「え、大丈夫なの!?」
「この、周りをブンブンと……!」
ぶんぶん飛ぶのはハチですけどね。小さい虫だけれども翻弄されているようだ。それならこの場はミヤマちゃんに任せることにしよう。俺が再び走り出したら、スズメバチは今度こそ逃がすまいと身をひるがえした。しかしクワガタは素早く、阻止しようと彼女にアタックしている。
「この――! どきなさい!!」
だけど、
「ミヤマちゃん!?」
昆虫は昆虫のままでは、人間に適わないのだろう。噛んだり刺したりはできるけれども、命を取るほどではないのだろう。さっきのアタックも痛そうだったけど、手で払い除けられればすぐに墜落してしまう。
「これで邪魔者はいなくなりました。さぁ、あたしと一緒に子作り、しましょ?」
しない! したくない! いや人間だったら少し考えるけど……、虫は無理なの!
しかしどうしよう。ミヤマちゃんもやられてしまったし、この子はあのまま動かないんだろうか……。
そう思うと胸が苦しくなった。ちらと横目で横たわる昆虫を見て、守らなきゃという思いが込み上げてくる。
「えぇい! ままよ!」
別に母親に助けを求めたわけではない。この状況から救ってくれるなら誰でも良かったが、たぶんその叫びはどこにも届かないだろう。俺が腹を決めるしかない。
「ぐぅう……!」
勢いでミヤマクワガタを拾い上げて、俺はまた森の奥へと逃げ込んでいった。
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