第98話 本能寺の変?(7)〔お迎えに行く信照〕

〔永禄5年(1562年)3月30日七ツ下がり〕(夕七ツ申三ツ刻、16時過ぎ)

申の正刻、寺が夕七ツを知らせる7つ鐘を鳴らしていた。

数人の黒頭巾の中に赤頭巾が1つ混じった奇妙な一団が桂離宮大橋に掛かる大門の通用門を潜った。

桂離宮大橋大門を閉めた役人らがピリピリとしており、嫌疑の目で睨まれながら通過した。

先導しているのは勝龍寺城しょうりゅうじじょうの役人だ。

この使者が『役儀やくぎにて通らせて頂く』と通行書を差し出せば、怪しかろうと止める訳にもいかない。

山城守護代補佐の特権だ。

京都所司代が飛んでくる所だが、村井-貞勝むらい-さだかつが居なかった。


残念ながら勝龍寺城しょうりゅうじじょうから援軍はすぐに来ない。

城の近くに大規模な船の停泊所を造り、1,000艘近い大小の渡し船 (十石舟と三十石舟)を用意しており、一度に1万人が渡河できる。

しかし、すべての船を使うとなると船頭の数が足りない。

足りない分を埋める為に、この城の兵には船頭の訓練を義務付けていた。

余り派手に動かしたくなかったが、すでに光秀みつひでの丹波勢が渡月橋とげつきょうに到着していると聞いたので多少のリスクを承知で動かした。


加藤かとう-三郎左衛門さぶろうさえもんが先行し、京の伊賀衆を掌握してくれたので、勝龍寺城しょうりゅうじじょう周辺の索敵者を捕らえた後に渡し船を一気に動かすように命じた。

向こうが到着するのも夕方以降なので慌てる必要もない。


俺は西院小泉御所に入るとこっそりと公方の部屋に通して貰って寝転がった。

昨晩からほとんど一睡もせずに京まで上がって来た。

堺湊沖で織田家の船が爆発炎上したという情報は、まだちまたには広がっていないようだ。

堺奉行に箝口令かんこうれいを出すように命じた甲斐があった。


忍びに命じて竹内街道を通って大和へ、そして、伊賀街道を通って伊賀の里に向かわせ、そこから清洲まで俺の帰還と京の異変という光通信を発信させる。

これで今日の昼には清洲にも伝わっている筈だろう。

京を経由させるとバレる可能性を考慮して伊賀を使った。

遅れて届く手紙には帰蝶義姉上に東海から近江・越前の様子を見て貰うようにお願いしておいた。

これで俺は畿内に集中できる訳だ。

襖が開き、色黒の地味な女中が戻って来た。


「若様、奥方らに帰国をしばらく隠しておく事を承知して頂いて参りました」

「千代、すまん。面倒な事を頼んだ」

「当然の事でございます」


千代女は口に綿を含んで少しふくよかな顔立ちに変え、肌を少し黒く染めているので野暮ったい女中にしか見えない。

服装も地味なので女中で間違いない。

公方の部屋まで這い入ってくるのは側近くらいなので俺は寝転がった儘で指示を出した。


「京都所司代の命で町衆を集めよ」

「集めてどう致しますか?」

「丹波勢が謀反を起こし京に攻めてくると言え」

「よろしいので?」

「避難訓練だ」


千代女がこくりと頷いた。

町衆が急な申し出に困惑するだろうが、「急でなければ、訓練にならない」と言えば良い。

避難訓練は年に二度ほど行っている。

町の者は所定の避難屋敷に逃げ、路上の者は避難所に移動する。

終わった後は餅や炊き出しで反省・慰労会になるが、今回はその準備が出来ていない。

まぁ、それは良いだろう。


「暮れ六ツまでに避難出来ていない地区は厳しい罰則を与えると脅しておけ」

光秀みつひでの軍が待ってくれるでしょうか?」

「関係ない。渡月橋から半刻 (1時間)は掛かる。避難の途中であっても何か問題があるか?」

「・・・・・・・・・・・・」


千代女がしばらく思考してから、「ございません」と同意してくれた。

そうだ。

逃げ遅れた奴が悪い。

それ以上の責任など持っていられない。

京都所司代の村井-貞勝むらい-さだかつは兵を集める時間を稼ぐ為に渡月橋の光秀みつひでに遭いに行っていた。

必死の思いが手に取るように判る。

悪くない策だが、あの光秀みつひでがそれで予定を変えるなどあり得ない。

はっきり言って無駄だ。

それより京都所司代が不在では不味いので呼び戻す使者を送った。


信照のぶてる様、これが配置図でございます」

「天神川で迎え討つようです」

「勝てると思うか?」


千代女が困ったような顔をして笑う。

公方の側近らも目を逸らした。

京の外周を捨て、天神川付近に1,500人を集めて防衛線を敷いていた。

帝の御所に2,000人、西院小泉御所に1,000人、本能寺に100人、室町御所に200人、桂離宮大橋の詰め所に200人、織田駐屯所に200人と兵力を分散していた。

織田駐屯所の200人に首を傾げる。

ここには武器や弾薬を保管しているので奪われると危険な気がする。


また、東北から大崎-義隆おおさき-よしたか葛西-晴信かさい-はるのぶ佐竹-義昭さたけ-よしあきらが徒党を組んで新公方に挨拶にやって来ていた。

挨拶が目的ではなく、九州の動向が気になったのだろう。

国替えを行っている最中であり、俺が倒れたならば、それもご破算になって騒乱が再勃発してしまう。

情報の鮮度が戦を左右する。

兄上 (信長)を頼って、北条家と南部家を先頭に信勝兄ぃを押さえねばならない。

東北の幕府方が雁首を揃えて兄上 (信長)とのよしみを結びに来た訳だ。


「一緒に移動しなければ、誰か抜け駆けして妙な動きをするのではと疑心暗鬼ぎしんあんきになっているのでしょう」

「俺が倒れれば、旧上杉家臣、伊達家臣、最上家臣らが反乱を起こすかもしれんからな」

「そして、上杉-謙信うえすぎ-けんしん伊達-晴宗だて-はるむね最上-義守もがみ-よしもりに救援を求める」

信玄しんげん辺りが謀略を尽くすと大混乱になりそうだな」

「信長様と北条家を頼らないと勝ち目がありません」

「兄上 (信長)を頼る事は悪い事ではない」

「ですが、光秀みつひでが信長様を討てば、大混乱は間違いなしです」

「京に戻って来た俺は動けなくなるな」


あの光秀みつひでが俺を京に戻すだけの為に命を賭けるとは思えない。

何が本当の狙いだ?

ともかく、彼らは知恩院を始め、東山に分散しているので問題ない。

連れて来ている兵力も併せて500人に届かないのでアテにもならない。


「兵力を一カ所に集めれば、対峙してくれると思うか?」


千代女が首を横に振った。

俺もそう思う。

決戦を挑みたいならば、兄上 (信長)を先頭に立たせるしかない。

だが、そうなるとガチで戦う事になる。

5,000人は集められるので互角以上に戦えると思うが、時間が経てば援軍が来るのが判っている光秀みつひでの猛攻も過激になる。

兄上 (信長)が討ち取られる可能性もある下策だ。


「最悪、京の都が炎上して瓦礫の都に成り果てるな」

「避難させますので、人的被害は少のうございます」

「やり直しは遠慮する。そもそも戦力の分散と逐次投入ちくじとうにゅうは最悪の結果を招く」

「では、どう致しますか? 義兄上の兵をお借りましますか?」

「確かに。光秀みつひでが帝の御座す御所を襲う事はないだろうな」


だが、朝廷の兵を借りるのは体裁が悪い。

そこに三郎左衛門さぶろうさえもんが戻って来た。

懐から手紙らしきモノを取り出して、「これを」と言って差し出して来た。

俺は書状を確かめる。


光秀みつひでの配下と思える者が持っておりました」

「狙いは兄上 (信長)と公方に絞れたな」

「謀反人を討つとしか書かれておりませんが、他に狙う者もありません。天神川で足止めをしても、他にも潜伏している敵が都の中から出てくるかも知れません」

「相変わらず、用意周到な奴だ」


兵を天神川付近に集めれば、手薄な西院小泉御所と本能寺を狙われる。

最善の策は兄上 (信長)を西院小泉御所に呼んで一カ所で守備に徹する事だ。


「討って出たくなるように町に火を放つ可能性もございます」

「だろうな」

「かなり高い確率です」

「そうなると西院小泉御所にも兵を残しつつ、本能寺に敵の兵を引き寄せて迎え討つしかないか」

「それが光秀みつひでの狙いでしょう」


何でも光秀みつひでからの書状を受け取って、槍を担いで合流しようとする馬鹿者も出ているらしい。

義昭よしあきの館にもそれらしい者が入っていったと言う。

恩義がある者、軽率な輩、馬鹿な奴らが光秀みつひでの口車に乗って合流しようとしている。


三郎左衛門さぶろうさえもん、俺が陣頭指揮を執った場合、丹波勢はどれくらい崩れると思うか?」

「判りかねます。丹波の者は強情な者が多く、それでいて恩義に厚い者も多くいます」

「若様、丹波の衆は織田家の武力を恐れているだけであり、心底から臣従している訳ではございません」

「九州に呼ぼうとしたが波多野-元秀はたの-もとひでは隠居し、悪右衛門あくうえもん荻野-直正おぎの-なおまさ)は怪我の療養と言って拒絶したな」

「その両名も来ていると思われます」

「顔は確認しておりませんが、両家の旗はありました」


丹波は京に近い為か、公家との結び付きが深い。

公家の領地を預かっている者も多い。

ゆえに妙に擁護する公家が多い。

幕府が荒れても領地を管理して貰った恩があるのだ。


「今回は軽率だったな。今度は容赦せぬ」

「波多野家、および、荻野家、赤井家の傘下は寝返って来ないと予想できます」

「半数以上は寝返らぬか」

「奉公衆代官は寝返っても、その配下の者が付いてくるとは思いません」

「そうなると・・・・・・・・・・・・取れる手は1つだな」


千代女が頷いた。

戦えば、必ず京の都が炎上する。

ならば、戦わねばいいのだ。

光秀みつひでが暴れたいように暴れさせ、時間を稼いで背後を取る。

時間的に紙一重かみひとえではあるが問題ない。

三郎左衛門さぶろうさえもんが深々と頭を下げていた。


「この三郎左衛門さぶろうさえもん信照のぶてる様に謝らねばならぬ事が1つございます」

「何かあったか?」

「本能寺の改築に反対した事でございます」

「仕方ないだろう。信用があり、口の堅い者のみを集めて作業を言いつけたのだ」


俺の愚連隊にも知れずに進めろとは無茶な事を言った。

それは愚連隊の忠義を信じていないと言っているに等しく、三郎左衛門さぶろうさえもんには我慢のならない事だったのだ。

厚すぎる忠義心とは脆いモノだ。

天下を取るまでは同じ方向を向いていても、天下を取った後は方向が変わる。

そう言って説得した。

まだ、西院小泉御所も織田屋敷と呼ばれていた義輝の時代だ。

本能寺の改築など納得できる訳もなかった。


それがしはそれに本能寺を重要な場所と考える事が出来ませんでした」

「それは間違っていない。今回は偶然だ」

「いいえ、信長のぶなが様が度々にお使いになられるのを考えれば、このような事態も想像できました。某の想像力が足りませんでした」

「茶会が本能寺でなければ、この策は使えん。運が良かった」

「いいえ。信照のぶてる様だからこそ、予見できたに違いありません」


予見できないのが普通だ。

本能寺の変にこだわったのは、完全に前世のこだわりがあったからだ。

そんな予感がしただけだ。

根拠を問われても困るというのが本音だった。


実際、兄上 (信長)は本能寺より知恩院で泊まる事が多い。

だから、茶会が知恩院であっても不思議ではない。

知恩院の住職も我が寺でと勧めただろう。

防御の堅さから言えば、知恩院で茶会を開きたくなかったのは光秀みつひでの方だろう。

これが因果なのだろうか?


三郎左衛門さぶろうさえもん。まだ罪が残っていると思うならば、本能寺に行って片付けを手伝って参れ。本物の本尊は始めから倉に仕舞っておるが、兄上 (信長)が持ち込んだ茶器などの名品を助けて来い」

「畏まりました」

「兄上 (信長)は強情な所がある。巧く逃がしてくれ」

「必ずや」


天神川から兵を引かせて西院小泉御所の守りに回した。

二・四条通りの西の大門を閉じ、三条通りの大門のみ開けておく。

疑問には思うだろうが、光秀みつひでが兵を止める理由にならない。

問題ない。

帝がおられる御所の守りも完璧だ。

町衆から避難を開始したと報告が上がった。

入れ違いに村井-貞勝むらい-さだかつが帰って来ると、少し遅れて丹波勢も京の都に入って来た。

なんとか間に合った。


光秀みつひでは本能寺に兵を向けるのでしょうか? それともこちらでしょうか?」

「これ以上は知らん」

「そうでございますね。光秀みつひでもどこまで軍権を掌握しているかも判りません」

「抜かりないであろうがな」


対して、西院小泉御所の守りも完璧だ。

三好で使ったような落とし穴から始まる守りの集大成をお見せしよう。

大手門を破って入ってきた敵が中央広場に押し寄せ瞬間にその床が抜ける。

何人の敵が落ちてくれるだろうか?

また、御殿をぐるりと囲む高くない渡櫓を越えようとした瞬間に屋根が崩れて二重壁が現れる。

渡櫓の下には堀があり、越えるに越えられない。

大砲か、迫撃砲を用意しないと簡単に落とす事はできない仕様だ。

ちょっとした砦になっている。


本能寺への道を開けてやったのに西院小泉御所に来るならば迎え討つ。

京の町を焼け野原にするかどうかは光秀みつひで次第だ。

そう開き直っていると、丹波勢は素通りして本能寺に向かった。

少しだけ胸を撫で下ろした。


俺は寝る暇を惜しんで和泉の織田-重政おだ-しげまさや南摂津の塙-直政ばん-なおまさに会って兵の手配をやって来た。

時間を逆算すれば、そろそろ第一陣がやって来ても可笑しくない。

渡し船に乗っている頃だろうか?

巧くやってくれれば、北摂津の荒木-村次あらき-むらつぐ、北河内の安見-直政やすみ-なおまさも動員できるだろう。

明日の朝には、南河内の野口-政利のぐち-まさとし、東大和の又十郎(織田-長利おだ-ながとし)、大和の松永-久秀まつなが-ひさひでも集まって来る。

今夜中に1万5,000人、明日の昼には2万5,000人になり、最終的に3万人を越える。

日付が変わる頃まで本能寺に足止め出来れば、数の上で逆転する筈だ。


「千代、そろそろ兄上 (信長)を迎えに行くとするか」

三郎左衛門さぶろうさえもんに任せたのではないのですか?」

「すべてを任せても良いが、最後に兄上 (信長)が駄々を捏ねそうな気がする」

「ふふふ、そうかもしれません」


敢えて本能寺には何も知らせずにいた。

半分は兄上 (信長)が悪い。

茶会を優先して情報を遮断したからだ。

だが、そんな自分の失態を無視して駄々を捏ねる事がある。

土壇場で癇癪かんしゃくを起こされて堪らない。

説明する時間が無駄だ。

俺の顔を見れば、嫌々でも納得するだろう。

俺は西院小泉御所の地下に降りた。

扉を開くと長い回廊が続く。

提灯に明かりを付け、非常用の脱出路を逆に歩いて迎えに行った。


「兄上 (信長)が大人しくお部屋まで戻ってくれたか心配だ」

三郎左衛門さぶろうさえもんらが巧くやってくれるでしょう」

「本殿と兄上 (信長)が泊まる屋敷以外は簡単に近づけないように設計しておいたが、機能しただろうか?」

「庭の池を内堀の代わりに使っているので大丈夫でしょう」


本能寺の本殿と兄上 (信長)が泊まる屋敷と宝物庫倉は池の上に浮かぶ半島の上に集約した。

正面以外は渡り廊下や橋で結んでいる。

つまり、それを壊すと渡れないように設計しておいた。

最悪の場合はお堂や社務所や台所を切り離し、本殿正面の敵のみに集中できる。

そして、地下壕と抜け道は本殿の奥に隠してあった。


しかし、報告を聞く度と背筋が寒くなる。

光秀みつひでは流石だ。

知る筈もない三条大路と四条大路の下水道の抜け道を初手で使えないようにしてくれた。

下水道工事を秘密裏にする訳にも行かない。

縦堀でなければ、何ヶ年も掛かってしまう。

対して、作業員を一列に並べて行う縦堀なら数ヶ月で完成できる。

人海戦術は馬鹿にできない。

その工事と武衛屋敷の襲撃から当たりを付けたのだろう。

三本目を用意して良かった。

まさか三本目も壊されていないかと確認させに行かせて、その者が帰ってくるまでちょぴり冷や汗を掻いた。


「若様を臭い下水道の中を通して逃がすのはどうでしょうと言った者を褒めてやるべきです」

「そう言えばそうだったな。あれを聞かなければ、この三本目の隠し路はなかった」

「信長様は本当に運がよろしい」

「兄上 (信長)は運だけで生き延びておると思うぞ」

「まったくです」


俺は兄上 (信長)の運がどこまでも続く事を祈り、光秀みつひでがこんな行動にでた事を思考してもう一度首を捻った。

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