第86話 長崎沖の海戦(2)〔硫黄島の出陣式〕

(永禄5年 (1562年)3月25日)

さぁ、戦争の時間だ。

これに勝てば、戦国時代は終わる。

日の本から戦が無くなる。

皆もそれを予感したのか、思いの外に参陣した武将が多かった。

だがしかし、同行したくとも船がない。

幕府軍の援軍では、家臣は10人、各兵も10人までという制限が付く有様だ。

強者つわものと精鋭が集まったとか?

皆、苦労しながら参戦して来た。


信照のぶてる様と共に戦えるのも最後だな」

「叔父上 (織田-信実おだ-のぶざね)、酔っておられますな」

「これが酔わずにおれるか」

「嫌ならば、来なければよかったではありませんか?」

「戦が嫌なのではない。目付役が嫌なのだ」


進んで戦をかき乱したい信実のぶざね叔父上が、暴走する北畠-具教きたばたけ-とものりの目付としてやって来た。

北条家から北条-氏康ほうじょう-うじやす宗哲そうてつが参加したので、絶対に負けられぬと具教とものりは先陣を切りそうなくらいに鼻息を荒くしている。

具教とものりを止められるのは、義理の息子で伊勢守護代になった信実のぶざね叔父上しかないと兄上 (信長)が頼んだ。

どうやら制止役が嫌らしい。

実に信実のぶざね叔父上っぽい。

しかし、義理の息子ね…………。

北畠家と織田家の融合という意味では悪い話ではないが、お市より幼い雪姫がこんなおっさんの正室として嫁がされる方が残酷じゃないか?

しかも席替えまでやってだよ。

先に正室に入っていた妻を押しのけて、その押しのけで入った正室を、さらに押しのけての婚姻だ。

こういった事は戦国時代にはよくあるんだな~。

そんな事を思っていると氏康うじやすがやって来た。


「太閤様、やっと肩を並べて戦えますな」

氏康うじやす殿、領国のまつりごとは宜しいですか?」

「家督は氏政うじまさに譲って参りました。氏政うじまさもそろそろ独り立ち出来ねばなりません。優秀な配下も尾張から戻って来ました。もう何の問題ございません。それに宗哲そうてつばかりに手柄を取られたのでは某も面目が立ちません」

信照のぶてる様、氏康うじやすは肩を並べたいそうですから、このまま船に乗せてやって下さい。南蛮船の後始末と首里城の攻略は儂が指揮を執っておきますぞ」

宗哲そうてつ。勝手に決めるな。儂も湾内に閉じ込められた南蛮船を潰しに行くぞ。手柄の一人占めはさせん」

「最後のご奉公です。老人に譲って下され」

「これで何度目の最後だ」


北条家の主力は伊豆水軍だ。

伊豆水軍は300石船を改造した関船せきぶね(軍船)30隻を出してきた。

そして、北条家も虎の子の帆船3隻の内、外洋に向かない1隻を残して帆船2隻を出して来た。

まだ、北条家に手の内を晒したくなかったのだが背に腹は変えられない。

危険な戦場まで来てくれる同志の為に最新鋭の大砲に積み替えた。

飛距離が一気に延びて氏康うじやすも驚いていた。

軍船には五軍から選りすぐり武士団が乗り、総勢3,000人を乗せている。

小田原・江戸湾の防衛はガラ空だ。

それでいいのか?


北条家に対抗して北畠-具教きたばたけ-とものりも伊勢水軍を率いて参戦した。

北伊勢の諸将は色々と辛い立場にいる者が多い。

歴史が古い名家が多く、公家などとも繋がりが深い家がある。

取り潰しなどにはなっていないが敵対した罰を受けた。

まず、伊勢一向宗の寺領が召し上げられ、北伊勢に織田家が入って来ると勢力図がガラリと変わった。

先祖代々の土地を離れるのを嫌って、領地が10分の一に減った家もある。

特に鎌倉街道の安全を確保する為に土地替えを命じられた家も多い。

南伊勢も生き残りを賭けて水面下での戦いが激化していた。

何としても今回の戦で手柄と思ったのだろう。

北伊勢、南伊勢の諸将が共に参陣を賭けて、具教とものりは勝ち抜き戦の試合トーナメントで連れて行く者を決めたらしい。

その試合の優勝者は具教とものり本人だ。

準優勝は柘植三郎左衛門(柘植-保重つげ-やすしげ)であり、一回戦で具教とものりに負けて、敗者復活戦を勝ち抜いて再度決勝で当たったらしい。

三郎左衛門の働きで、そのあるじである木造-具政こづくり-ともまさの参戦が決まった。

木造-具政こづくり-ともまさは兄上 (信長)の側室の一人の養父だが連れて来ていいのか?


また、管領山名-祐豊やまな-すけとよも北条家や北畠家に対抗して、300石船10隻に3,000人も乗せるという暴挙で数を割り増した。

確かに乗らない事もないが食糧と水を削れば、万が一の場合に大変な事になる。

どこかで漂流したら、黒潮に乗って小笠原まで流されても知らないぞ。

その瞬間に全員の餓死が決定だ。

それを知った坊津の代官が慌てて堺の商人から300石船を10隻借りるという騒動もあった。

まったく人騒がせな。


さてさて、そんな争いに佐久間-信盛さくま-のぶもりが『信長様の兵がおらぬとあって一大事でございます』などと大言を吐いて参戦した。

林-秀貞はやし-ひでさだを大将にして、兄上 (信長)の兵も参加する。

そこに奉公衆や畿内の諸将が連合軍を組んで、予定を早めて尾張と堺から船を調達した。


南九州は始めから参戦が決まっていたが、小早では順番に島を巡って進むしか手段がない。

そうなると琉球王朝の協力がないと各島々で抵抗する者も出て来る。

かなり厄介だ。

琉球本島でも部族によってかなり割れており、特に旧北山国 (沖縄本島北部)を治める北山監守ほくざんかんしゅ今帰仁なきじん-朝典ちょうてんがどう動くかも判らない。

この朝典ちょうてんは現琉球王の大伯父に当たる。

いずれにしろ、南九州の武将らは完全に取り残されて出遅れると思って肩を落としていた。

そこで官兵衛かんべえ(黒田)が宴席で援軍の諸将の前で言った。


「これだけ多くの船があるので、琉球本島まで曳航すればいいではないですか? まさか、世話になっている島津家の頼みを嫌などと言いますまい」

「と、当然でございますな」

「味方を置いて行く訳がございません」

「あいがとごわす」


南九州の武将らは小早を他の船に曳航させるという案が出たのを聞いて大いに沸いたらしい。

帆船に比べて関船や300石船の足は遅い。

その遅さを嘆くのは意味もない。

さらに多少遅くなっても一隻で小早2隻を引っ張る程度なら問題ない。

幸い、追い風だったので運が良かった。


こうして帆船3隻、関船42隻、300石船56隻、小早180隻の延べ281隻の総勢2万5,200人が後詰めとなった。

琉球首里城を占領するには十分過ぎる戦力だ。


この船団は錦江湾きんこうわん(鹿児島湾)で待機させていた。

坊津のある湾は小さく、この数は入り切らない。

また、その外の海は波が高いので諸将の船団を留めるには向かない。

そこで内城のある湾内に一時的に留まっていた。

大時化の時は肝を冷やした。

さらに出口に蓋をするようにイスパニア艦隊が陣取ったら、どれほどの甚大な被害が出たか判らない。

杞憂に終わってよかったと思う。


俺が薩摩の硫黄島に到着するのを見計らって向こうも移動してきた。

硫黄島は薩摩の内城から南に25里 (100km)にある小さな島で、薩摩半島の最南端から10里 (40km)の所にある。

俺は大将のみを戦艦『尾張』の甲板に上げて労った。

適当な言葉を述べて、つらつらと鼓舞する。


武士もののふの力を存分に示せ。日の本に勝利を!』


皆が復唱し、『日の本に勝利を!』と盃を上げた。

うぉぉぉぉ、雄叫びを上がる。

敵を呑むというゲン担ぎだ。

呑みたいだけだろう。


尾張級戦艦『尾張』の甲板で酒を浴びるよう呑む宴会が始まった。

信実のぶざね叔父上、北条-氏康ほうじょう-うじやす宗哲そうてつ等々と続き、懐かしい林-秀貞はやし-ひでさだなどとも語り合い、俺は次々と相手を変えていた。


「お疲れ様です」

「もう少しか」

「若様、冷えて参りました。この外套を羽織って下さい」

「そうさせて貰おう」


日が暮れて風が出てくると千代女が声を掛けてきた。

酔っ払いは輝ノ介てるのすけ(足利義輝)と晴嗣はるつぐ(近衞 前久)に任せる。

俺は兄上 (信長)を真似てさくら達に水を持たせて待機している。

俺は別に下戸じゃない。

馬鹿ほど呑んで二日酔いになりたくないだけだ。

だが、ここの連中は程度を知らない奴が多い。


「慶次に若様の盾になるように言って参りました」

「それは助かる」

「タダ酒を注ぎまくって、相手を潰しても良いと命じました」

「明日は地獄だな」

晴嗣はるつぐ殿も地獄でしょう」


二日酔いと船酔いのダブルカウンターか?

どんな地獄か想像が付かない。

慶次はずっと朝から晩まで船首の先で一杯やっている。

俺が酔っぱらって海に落ちても助けないぞと言うと、そんなヘマをするかと言われた。

それでいて、マストの見張りより早く連絡船を見つけるから驚きだ。


「これで戦が終わると思っているのか。皆、浮かれ過ぎです」

「まったくだ。終わる所か、これから始まる」

「付いて来る気がないのでしょう」

「命じれば付いて来るし、危ない奴らは連れて行く」

「島流しですか」

「あぁ、元公方様と織田家の姫が先頭を切る島流しだ。贅沢だろう」

「殿が太閤様です」

「熱田にいると京に呼び出されるからな」

「ふふふ、蜷川にながわ-新右衛門しんえもんは本当に毎日来ますからね」

「日に一度、顔を見ないと気が済まないのだろう」


晴嗣はるつぐらも同じようなモノか。

戦争は終わらない。

外へ向けての拡大主義が始まる。

すでにヨーロッパでは始まっており、この流れは止められない。

現にイスパニア・ポルトガルが日の本まで来た。

仮に二国が勢力を落としても、オランダやイギリスやフランスが勢力を伸ばしてくる。

いずれは巻き込まれる…………すでに巻き込まれている。

それならば、こちらに来るなと追い返す。

侵略したと言われる前に東南アジアとオセアニアを取っておけばいい。

緩やかな連邦制なら問題あるまい。

いずれはヨーロッパとアジアというに二つの波紋が壮絶なぶつかり合いになるかもしれないが、そんな先の事は知らん。

足元がふらつく大将らを縄梯子から落ちないように降ろすのも大変そうだった。


 ◇◇◇


翌日 (25日)の朝に硫黄島を出航した

悪石島を抜けると、琉球本島の那覇湊まで76里 (300km)まで近づける。

その悪石島を夕方に通過し、27日の早朝前に那覇に到着する予定だ。

心地の良いほどの追い風なので下手をすると27日になる前に到着できるかもしれない。

朝食を取ると昨日は遅かったので昼までのんびりすると宣言し自室に入った。

大の字になって天井を見た。


注意すべきは、琉球本島の周辺の小さな島だ。

まず伊平屋いへや島、伊江いえ島、粟国あぐに島などの岬で焚火をして航路を示して貰う。

座礁なんて事になれば、大恥だ。


次に那覇湊の西側にある渡名喜となき島、黒島、ハテ島、神山島等々で鬼火 (赤い火)を焚く。

花火で使う炭酸リチウムを火にくべると濃い赤い火にできる。

海の上で揺れると魂が揺れているように不気味らしい。

それを目印に間違っても那覇湊を通り過ぎるような馬鹿な真似はしない。

後は海図に従って闇夜を走り、夜襲を掛ける。


琉球王の返事をぼっと待っていた訳じゃない。

島々に草を入れるのに手間が掛かった。

時間を掛け過ぎたか?

昼間の奇襲では半分以上を逃がすかもしれない…………薩摩の顔を立てるとか言って余裕に構え過ぎた気もする。

う~~~ん、欲を搔き過ぎたかな?

だが、これで壊滅できれば、後顧の憂いがなくなるのだ。

成功すれば…………。

ガタン、扉が開いたので思考を中断した。


「太閤様。大変でございます」

「敵が動いた以外は知らせるなと言ったのを忘れたか?」

「その敵が動きました」

「馬鹿な!?」


人は無意識に暦を読む。

次の提督らが妥協する可能性の高い日は26日だ。

27日に那覇を出航すれば、4月初めに平戸に到着できる。

だから、夜襲を27日の早朝前と決めた。

甲板に上がると口之島から反復して光のモールス信号が発していた。


「千代、解読は?」

「今、させております」

「早くしろ」

「しかし、最初の言葉は『コノヤマノボレ』で敵の出撃です」

「何があった?」

「判りませんが、敵がいつ出撃しても不思議はありません」

「そう、そうだったな。がしかし…………」


どこか納得できない俺がいた。

連絡を受けたのは宝島か。

宝島、悪石島、諏訪之瀬島、中之島、口之島と繋がって知らせて来た。

判ったのは22日に平戸に向けて出航した事だ。

3日前か!?

俺が名護屋を離れる直前に?


「千代、こちらの動きを読まれたと思うか?」

「あり得ません。それならば、もっと早く動いていたハズです」

「その通りだ。大時化の後も動かなかった」

「向こうはこちらの手の平で踊っているハズでした。わたくしも驚いております」


詳しい事は那覇に潜伏していた忍びが連絡船に乗ってこちらに向かっているようだ。

俺は会議室に足を運んで海図を睨んだ。

那覇から宝島まで300kmは包囲陣の外になる。

すでに三日。

イスパニア艦隊はどこにいる?

定規を取らせて書き込んで行く。


「クソぉ、しくじった」

「まだ、想定内と思われます」

「あぁ、確かに想定内だ。だが、夜襲は失敗だ。これで完勝が難しくなった」

「過ぎたる望みだったのです」

「俺が欲を搔き過ぎたか?」

「はい。若様らしくない判断だと思いました」

「俺らしく?」

「珍しく賽を振っておられました」

「そうか、そうだな。俺らしくないな」

「はい」


千代女に言われてすっきりした。

義元以後は塞を振らないと決めたのに知らずに振っていた。

敵を舐めていた。

敵の阿呆さ加減に油断していたらしい。

ふっ、自分の滑稽さに笑いが込み上げてくる。


「千代、島津-貴久しまづ-たかひさ北条-氏康ほうじょう-うじやすらと合流する」

「もう少し先の中之島の十島村の沖がよろしいのでは?」

「そこならば敵を発見しやすい。そこで作戦の変更を協議する」

「承知しまいた」


中之島の周りは幾つかの島に取り囲まれている。

敵が近づけば、すぐにどこかの島の監視員が気づいてくれる。

南にはネガミ岳 (395m)もあり、東の監視にも備えられる。

平戸を目指しているならば、イスパニア艦隊はもっと西を通っているハズだ。

襲われる心配はほとんどない。

忍びを乗せた連絡船との合流も早くなる。


俺は海図に線を引いて相手の予定進路を想定する。

22日から23日に掛けて北西から北北西に変わっている。

今は北北東の風だ。

つまり、横風で出航したが、翌日は向かい風に変わった。

黒潮の流れを加味して平均4ノットと仮定して…………この辺りか。


「我々より先に行っているのですか?」

「これは最低の位置だ。黒潮に乗って初日に距離を稼いでいれば、もっと先にいるかもしれない」

「ならば、この辺りの連絡船が敵を発見しているかもしれません」

「協議が済み次第、夕方にこちらの合流地点を目指す」


皆が頷く。

合流地点に間に合わなくとも連絡船を見つければいい。

おおよその航路は見えているので発見は難しくない。

夜半までに敵の位置を知る事ができる。

問題は位置が逆になっており、初手で五島列島に敵を引き込む作戦が使えない事だ。

島と島の間を抜けてくる敵を左右と背後から挟撃し、相応のダメージを与える作戦が無駄になった。

ハンニバルの『カンナエの戦い』を真似た少数による多数の包囲作戦だ。

あの何度も練習させた努力が無駄になった。


「若様、努力は成果の裏付けではありません」

「報われない努力か」

「努力が報われるのは稀な事です」

「そうだな」

「太閤様、千代女様、それでは空しく思えます」

「いいえ、努力なしに成功はありませんが、努力したから結果が付いてくると思うのも間違いです」

「努力の先に『運』が付いて結果となる」

「努力が運を引き寄せるくらいに思っておく方がいいのです」

「そういう事だ」


努力するのは当然だ。

だが、成功するのは一握りでしかない。

多くの努力とはドブに捨てられる。

それが現実なのだ。

だが、その空しさに努力を放棄した奴から脱落してゆく。


『失敗を悔いるな。失敗を反省し、次につなげればいい』


側近や中小姓らに檄を飛ばした。

ここに小姓はいない。

船酔いで全滅した小姓らは船を降ろした。

まったく、ダラしない。

パンと俺は自分の頬を叩いて気合いを入れ直す。

仕切り直しだ。


 ◇◇◇


■幕府軍〔夜襲・奇襲部隊〕 

◎幕府水軍 (織田水軍)4,500名

尾張級戦艦3隻:1隻300人 計900人

300石級戦艦20隻 :内、5隻は平戸方面の警戒の為に残している。1隻150人計3,000人

連絡船40隻:1隻15人 計600人


■諸将連合軍〔琉球占領部隊〕 

総勢2万5,200人

帆船3隻(大砲あり)

関船42隻(大砲なしの織田帆船の模造船、大砲の代わりにかい推進もあり)

300石船56隻(織田家300石船か、その模造船、バラスト機能が高い)

小早180隻(40人乗りのかい船、追い風のみ帆を張って推進できる)

※小早で琉球弧を渡る事はできるが風任せになるので、今回はその他の船に曳航えいこうさせて連れて行く。


◎北条伊豆水軍 4,800名 (別途の輸送部隊に1,200人を動員)

総大将:北条-氏康ほうじょう-うじやす(相模守護)

副将:北条-宗哲ほうじょう-そうてつ

帆船2隻: 1隻150人 計300人

関船30隻: 1隻150人計4,500人

その他:食糧輸送の為の1,000石船と300石船を堺と坊津を往復運航中。


◎北畠・織田伊勢水軍 3,400名

総大将:北畠-具教きたばたけ-とものり(参議・伊勢守護)

副将:織田-信実おだ-のぶざね(伊勢守護代)

帆船1隻: 1隻150人 計150人

関船5隻: 1隻200人計1,000人 (新型の関船は帆船の性能が高い。漕ぎ手200人が兵に変わる)

300石船15隻:1隻150人計2,250人


◎山名隠岐水軍 3,000名

総大将:山名-棟豊やまな-むねとよ(管領山名-祐豊やまな-すけとよの嫡男)

副将:奈佐なさ-日本之介やまとのすけ(元隠岐海賊の棟梁)

300石船10隻 (20隻):1隻300人計3,000人

〔船の少なさを兵で補った為に兵站で問題があり、堺の商人から追加で10隻を貸し出して貰った〕


◎畿内連合 (熊野・村上等水軍) 5,500名

総大将:林-秀貞はやし-ひでさだ(信長配下の織田家重鎮)

副将:佐久間-信盛さくま-のぶもり(信長配下の織田家重鎮)

副将:曾我-助乗そが-すけのり(奉公衆)

副将:蒲生-賢秀がもう-かたひで(近江小守護代の代表)

副将:朽木-元綱くつき-もとつな(若狭・丹波・丹後の代表、初陣なので叔父の藤綱ふじつなも同行)

関船5隻:1隻200人 計1,000人 (新型の関船は帆船の性能が高い。漕ぎ手200人が兵に変わる)

300石船30隻:1隻150人 計4,500人

〔数に入っていないが、堺と熱田なのから1000石船を徴集して、食糧等の運搬を行っている〕


◎島津連合 (島津・肝付・相良等水軍) 8,500名

総大将:島津-貴久しまづ-たかひさ(薩摩守護)

副将:肝付-兼続きもつき-かねつぐ

副将:相良-為続さがら-ためつぐ

関船2隻:1隻200人 計400人 (新型の関船は帆船の性能が高い。漕ぎ手200人が兵に変わる)

300石船6隻:1隻150人 計900人

小早180隻:1隻40名 計7,200人

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