第30話 信長の七里越え。

(永禄3年 (1560年)5月21日)

信長は駆けた。

近淡海ちかつあはうみ(琵琶湖)の北に走る北国海道 (北近江路)を矢のような速さで兵を移動する。

雨や暗闇など信長の障害とならない。

ギヤマン(ガラス)に囲まれたランプの灯が足元を照らす。

その灯は雨が降っても風が吹いても消えない。

月明かりのみで行軍の訓練を受けてきた兵にとって、幕府によって整備された街道を駆け足で行軍する事など容易い事であった。

信長はまだ元気が残っている常備兵1,000人と馬廻り衆500人のみを先行して走らせる事にした。

先鋒は朽木-藤綱くつき-ふじつなの朽木勢1,000人にお願いした。

信長が直接に脅すより、朽木の使者が近江高島郡の領主に朝廷の意志を伝える方が効果的と考えた。

そもそも兵も多く残っていない高島勢が朝廷に逆らうハズもないと藤綱ふじつなも太鼓判を押す。

これは先行して敦賀を押さえる為だ。

信長の織田家を侮る者らをぎゃふん・・・・と言わせる戦略が続いていた。


当初は観音寺城かんのんじじょうに逃げた義昭よしあきを挟み打ちにする予定であった。

しかし、観音寺城かんのんじじょうが落ちた事で義昭よしあきは敦賀方面に逃げるしかなくなる。

敦賀で残存兵力が再結集すると日本海を通じて越後や九州と共闘できるようになる。

ずばり言うならば、義昭よしあきが逃げる場所を得る。

無意味に戦乱が拡大させる暇を与えない。

織田家の恐ろしさは火力だけではないと思い知らしめたい。

信長は冴えていた。


拝謁後、三郎左衛門さぶろうさえもんに協力を求めた。


三郎左衛門さぶろうさえもん、そなたの軍は信照のぶてるが率いる兵の中で最強と聞いている。手を貸せ」

信照のぶてる様の命がなければ、動けません」

「ならば、儂は命令せん。そなたの判断で動けばよかろう。儂は逃げてくる幕府軍を討つ」

「当然でございますな」

「再結集して交渉しようと言われては手間だ。その意味は判るな。信照のぶてるも望まんであろう」

「出る前の杭を打つ訳ですな」

「この雨で近淡海ちかつあはうみを渡る事はできん。観音寺城かんのんじじょうに戻る事ができなくなった公方様は北周りで京を目指すだろう」

「京は織田軍が取り戻しました。いずれは義昭よしあきは行き場を失います」

「そうだ。多くの兵は降伏するだろう。だが、降伏をいさぎよしとせぬ武将も多い。その者らを集めて敦賀辺りで再結集させる可能性がある」

「なるほど、残存兵力と言っても大軍が敦賀を占拠するのは厄介ですな」

「気が付いたか。武力はそれほど問題ではない。しかし、交渉しようという公方様を一方的に叩くのは織田家の、延いては信照のぶてるの威信に関わるであろう」

「それゆえに手を貸せというのですか?」

「帝より朝廷に服するようにとの書状を頂いた。すでに使者を送った。朽木殿を追い駆けて、そなたの判断で好きに暴れよ。儂もすぐに追い駆ける」


信長の目標は敦賀手前の疋壇城ひきだじょうであった。

疋田の疋壇城ひきだじょうは海津と敦賀を結ぶ中間にあり、七里半越しちりはんごえの先にある。

近淡海ちかつあはうみの東を走る北国街道から分かれて延びる塩津街道の合流地点でもある。

つまり、観音寺城かんのんじじょうを通れない中国地方の兵が帰国する為には、疋田から折り返し、京に戻ってから西を目指すか、疋田から敦賀に入って西を目指す必要があった。

もちろん、雨が止めば、舟で渡る手もある。

だが、いつ晴れるは判らぬ天候を待つだろうか?

否である。

疋壇城ひきだじょうを取れば、浅井郡を通って逃亡する幕府軍の出口を塞ぐ事になる。

逃げ道を塞がれた奴らは徹底抗戦か、降伏かの選択に迫られる。

交渉しようなどという心の隙を与えない。

疋壇城ひきだじょうを取られたと知った朝倉軍は北上し、その尻から信照のぶてるの織田軍が上がってくれば、『袋の中のねずみ』が完成する。


信長は帝の拝謁前に朽木-藤綱くつき-ふじつなに頼み、拝謁後に三郎左衛門さぶろうさえもんを説得した。

藤綱ふじつなは御所の守りを北畠-具教きたばたけ-とものりの兵に譲ると、急いで出発した。

また、帝に拝謁した信長は嵐の中を上洛した事を褒められ、帝から『古今無双之名将』と称えられて信長は天にも昇る思いであった。

帝の期待に応える。

もう怖いモノなど何もない。


織田屋敷に戻ると信長は精鋭を連れて出発した。

その信長に続くのは播磨を中心とした傭兵5,000人である。

播磨に織田家の兵を置く訳にいかないので名目こそ傭兵の儘だが、堺の武芸大会に勝ち残った猛者が率いる傭兵団であり、信照のぶてる直属の家臣であると書かれた朱印状しゅいんじょうを貰った隠れ織田兵である。

堂々と織田の旗の下で戦えるのは今しかないと、元気一杯のヤンチャなヤンキー達が暴走気味に励んでいた。

それを率いるのは松永-久秀まつなが-ひさひでであり、こんな連中は久秀ひさひででなければ制御できない。


やや遅れて、残る6,500人の織田軍を引き連れて、林-秀貞はやし-ひでさだ佐久間-信盛さくま-のぶもりも信長を追い駆けた。

織田兵は佐治湊を出航する前にいつもの鎧を脱いで海軍用の軽量鎧に着替えていたが、それでも槍や刀を含めると10kgになる。

大輪田泊おおわだのとまりから京まで20里 (80km)、京から疋田まで20里 (80km)もあり、ウルトラマラソンの選手もびっくりの距離だ。

京まで短い休憩を何度も入れた。

小走りと言っても歩く速度と変わらない。

それでも雨で体温を奪われて疲労は蓄積する。

鍛え抜かれた兵達でも仮眠で疲れは取れず、その足取りは重そうであった。


「それでも織田家の兵か、根性を見せてみろ」


馬上から武将達が兵に檄を飛ばす。

林-秀貞はやし-ひでさだ佐久間-信盛さくま-のぶもりの信長に仕えようとする思いだけは熱かった。

信長の無茶ぶりに翻弄されていた。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)5月21日~22日)

う~~~~~~~ん、関ヶ原を一番に脱出した朝倉-義景あさくら-よしかげは小谷城に入ってからずっと唸り続けた。

まず、公方義昭よしあきを見捨てて逃げたという体裁の悪さだ。

幕府の援軍に赴き、何の手柄を立てる事もなかった。

帰国すれば、幕府に加担する事を決めた義景よしかげを追求する声が上がるのは間違いない。

織田派の武将は織田家に加担して、幕府から敦賀の利権を奪還すべきという意見もあった。

義景よしかげはそれを却下した。

敦賀湊の改修はやや恐喝気味であったが幕府の公金が使われて行われた。

その対価として、幕府の品の税の免除などを突き付けられた。

敦賀では幕府の役人が我が物顔で歩いており、腹に据えかねた者がこの機に奪い返す事を進言した。

約定を一方的に破棄するのは、犬畜生に劣る行為だ。

それならば、幕府に加担して褒美として要求する方が筋も通る。

だが、義景よしかげは中立で収めて置きたかった。


幕府の兵力は無視できないほど巨大であり、織田家の武力は不気味だった。

どちらに加担するのも避けたい。

心情的に織田家と手を結ぶのが嫌であった事もある。

幕府軍の数が増してくると、公方義昭よしあきの手紙の内容が過激になってきた。

一方の織田家と連絡を取ろうとしてもなしのつぶてであった。

幕府軍の兵力が10万人を超えた所で義景よしかげは諦めた。

仕方なかったのだ。

だが、このまま帰国すれば、織田派がそれ見たことかとふんぞり返るに違いなく、一門衆の追求は免れない。

日が暮れる前に小谷城に入って兵に休息を与えた。

明日はどうする?

織田家に和議の使者を送るか、このまま越前に帰るか?

義景よしかげには、二つの選択があった。


夜が深くなってくると、逃げ遅れていた幕府軍の兵も小谷城に逃げて来た。

なんと、但馬の山名-祐豊やまな-すけとよが織田家に降伏したという。

織田家はそれを許したと言う。

信じられなかったが、光明こうみょうが見えた。

ここで義景よしかげの中に織田家と和議を結び、幕府軍を共に追撃するという選択が増えた。

敗色が濃厚になってから寝返るのは恥であるが、苦渋の選択であった。

勝ち馬に乗るのは世の常である。

まず朝倉家の武将を集めて、その事を協議する。

義景よしかげが口を開こうとした時、側近の一人が駆け込んで来た。


「大変でございます。公方様が逃げて来られました」

「どうして公方様がこちらに逃げてくるのだ?」

「すでに観音寺城かんのんじじょうが陥落したとの事です」

「まさか?」


義景よしかげの脳裏は「何故だ?何故だ? 何故だ?」と疑問符が並んだ。

観音寺城かんのんじじょうが簡単に陥落する訳がない。

だが、公方様が小谷城に逃げて来た。

あり得ない。

織田家と和議を結び、観音寺城かんのんじじょうを攻める先鋒を賜るという戦略が瓦解した。

否、公方様をここで捕えて織田家に差し出す?

駄目だ。

一瞬、そんな不埒な事を考えて首を横に振った。

朝倉家の武将らが賛同してくれるかも判らない上に、公方様を取り戻そうと諸将が朝倉軍に襲い掛かってくる。

そんな危険を冒すほど義景よしかげに度胸はない。

丁寧に小谷城の最奥を譲って、迎い入れるしかなかった。


さて、事情を聞けば単純な話であった。

進藤-賢盛しんどう-かたもりが裏切って観音寺城かんのんじじょうを強襲し、それを知った蒲生方面に展開していた細川-氏綱ほそかわ-うじつなが救援に向かった。

その背後で荒木-村重あらき-むらしげらの幕府奉公衆代官の軍が離反して、逆に追撃を受けて降伏した。

観音寺城の守備兵もそれを知って降伏し、夕刻を待つ事もなく観音寺城は陥落した。

観音寺城かんのんじじょう方面へ退却していた公方義昭よしあきらは鳥居元で知って転進てんしんを決めた。

無傷の朝倉勢を追って北上してきたのだ。


「出迎え大義である」


公方義昭よしあきはまだまだ元気であった。

小谷城の周辺には続々と兵が集まっていた。

バラバラに逃げた兵達も落ち武者狩りを恐れて集団を作る。

それでも小さい集団では襲われる。

大きな集団になると追っ手に狙われる。

どちらも嫌だ。

自然と兵力を温存している一団を頼って集まった。

東から織田軍の追撃があり、南は山が聳えて越え難い、西は反乱軍が占拠している。

近淡海ちかつあはうみ(琵琶湖)は雨が降り、波も荒く渡れない。

自然と残兵達は北へ逃げた。

そこに煌々と照る小谷城があれば、兵も集まって来る。

雨の中でも煌々と焚火が灯っており、ざっと5万人が再結集している事が判った。

しかも朝倉1万2,000人は無傷である。

公方義昭よしあきの消沈していた心に灯りが差した。


「これだけの兵がおれば、もう一戦できるな」


公方義昭よしあきの言葉に義景よしかげがあんぐりと顎が外れる。

まだ、織田家と戦うと言うのか。

悪の元凶は河内枚方の順興寺住持である実従じつじゅうと大坂御坊の僧である下間-頼旦しもつま-らいたん下間-頼廉しもつま-らいれんであった。


「その通りでございます」

「我らを追って来た織田方を逆撃し、幕府軍の力を誇示した後に和議を申し出るのが上策でございます」

「織田家も後ろに斎藤家や長島一向宗も抱えており、こちらに回せる兵力は多くございません」

「そうか、織田家は背後も気にせねばならぬのであったな」


織田包囲網があるので織田軍は十分な兵力を近江に送れない。

義景よしかげもそれには同意する。

だがしかし、幕府軍10万以上が一万余の織田軍に敗北したのだ。

それ以上の兵力をこちらに回す必要があるだろうか?

否である。

同じような戦いがもう一度起こるだけだ。

今度は反乱軍が加わってより過激な追撃戦になる。


「お待ち下さい。幕府軍の兵は多くおりますが士気は低く、とても戦える状況ではございません」

「士気を上げるのは、その方らの仕事であろう」

「坊主は黙れ。私は公方様と話しておる」

「僧を蔑ろにして地獄に落ちたいか?」

「加賀一向宗のお蔭で越前は何度も地獄に落とされておるわ」

「また、仏罰が当たるぞ」

「加賀の同砲を殺して仏罰か。一向宗とは恐ろしい所だな」


義景よしかげ実従じつじゅうと睨み合った。

そもそも観音寺城かんのんじじょうの留守を預かっていた一向宗5,000人の僧兵が無傷で合流している事が納得いかない。

観音寺城かんのんじじょうが陥落したのは、不利を悟って実従じつじゅうらが逃げだしたのが原因ではないかと義景よしかげは疑う。

僧兵も入れて総勢1万人も残していた観音寺城かんのんじじょうが半日で陥落するとは思えない。

そして、関ヶ原の戦いを知らない実従じつじゅうらが再戦を焚きつけている。


翌日 (21日)朝から始まった評定で山名-祐豊やまな-すけとよ小寺-政職こでら-まさもとが寝返った事で公方義昭よしあきが怒って、どうでもいい議論で紛糾する。


「武士ならば、最後の一兵まで戦うのが本懐であろう」

「まったく、その通りでございます」

「名門、山名の名が泣いております」

「播磨もだらしない。頑固者が多く、融通が利かぬというのは眉唾か」


この公方の為に命を惜しまぬ者がどれほどいるだろうか?

義景よしかげはそう思った。

それより2万近い兵が織田軍に組み込まれた方を議論するべきであった。

だが、いつまでも山名と小寺の罵倒が続く。

小谷城で無駄な評定で時間を潰している間に、織田方に坂田郡のほとんどの城を掌握された。

兵らは土手や壁を作って曲輪や砦を造っているが、1日で出来る事は知れている。

何とか公方義昭よしあきを説得して、織田家と和議に持ってゆけないかと義景よしかげは苦心した。


22日、やっと雨が止んだ。

義景よしかげは個人的に織田家に使者を送って和議を呼びかけた。

その甲斐があってか、小谷城の前に集結すると読んでいた織田家の動きは遅い。

反乱軍も続々と坂田郡に集結しているが小谷城に迫って来ない。

交渉の余地あり。

だが、織田軍が止まっているのは、今日明日が限界と思う。

何としても公方様を説得する。

それでも納得しないならば、朝倉は兵を引き上げると食い下がった。

だが、簡単に折れてくれない。

昼が過ぎて平行線が続く。

そこに家老が慌てて入って来た。


「殿、一大事でございます」

「落ち着け。評定の間である」

「それ所ではございません。昨夜、雨の中を信長の軍勢が疋壇城ひきだじょうを夜襲し、陥落した由にございます」

「なぁ、何だと?」

「信長は捕虜をすべて解放し、織田軍はそのまま敦賀に向かったとの事です」


ガラガラガラドカ~ンと雷を打たれたよう衝撃で義景よしかげの体が硬直こうちょくする。

意味が判らない。

織田軍が観音寺城かんのんじじょうを通過して、近淡海ちかつあはうみ(琵琶湖)を迂回しても早過ぎる。

また、そんな動きもなかった。


「捕えられた者の話でございますが、信長は船で摂津より上陸し、20日には京を占拠していたとの事でございます」

「何じゃと、京が落ちたと申すのか?」

「公方様、疋壇城ひきだじょうで逃がされた者が聞かされた戯言でございます。真実とは限りません」

「だが、疋壇城ひきだじょうは落ちた」

「それは間違いございません」


義景よしかげは関ヶ原で戦っていた最中に別働隊の信長が上洛していたと知る。

そうとしか考えられない。

これは拙い。

義景よしかげはがばっと公方義昭よしあきに平伏すると言った。


「申し訳ございませんが、この義景よしかげ、敦賀に向かわせて頂きます」

「待て、朝倉軍が帰るのは困る」

「困ると言われても困るのはこちらでございます。ごめん」


義景よしかげが己の無能を嘆いた。

織田家の兵の少なさを疑うべきであった。

敦賀の先は越前に向かう。

何故、私はそのまま越前に引き上げなかった。

義景よしかげは何度も何度も自答を繰り返した。

すぐに小谷城を出立した。

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