閑話.帰蝶様の為ならエンヤコラ。

天文22年6月24日(1553年8月13日)早朝。

魯坊丸が中根南城でごろごろとのんびりと寝ていた頃、信長は昨晩から清洲に登城して評定の間にいた。

昨日から降りはじめた雨は夕刻には豪雨となり、平安の時代から置かれた水屋から美濃を経由して清洲に報告が到着した。

信長配下の領主は本人か、名代を清洲に残すことになっており、伝令が到着すると清洲城への登城が命じられた。

最初の緊急招集には斯波-義統しば-よしむねも参加しており、伝令の言葉を聞いて慌てた。


「美濃から知らせでございます。揖斐川いびがわの水屋の水位が申の刻から酉の刻〔午後5時頃〕に掛けて堤を越えました。暮れ六つ午後6時から戌の刻午後8時には氾濫したと思われます」

「信長、どうしたものか?」

「武衛様、ご安心下さい。その為の対策はとっております」

「そうか、安心したぞ」


木曽川には『四刻八刻十二刻』という言葉が残っており、雨が降りはじめてから揖斐川が『四刻』(8時間)、長良川が『八刻』(16時間)、木曽川は『十二刻』(24時間)で川が氾濫するという言い伝えである。

伝令が清州に到着したのは、亥の刻午後10時を過ぎていた。

言い伝えに従うと、長良川が氾濫するのは日を越えた真夜中になる。

夜目が利く伝令が命懸けで伝えてくれた貴重な時間であった。

無駄にする訳にはいかない。


「皆の者、手筈通り、領民に曲輪への避難を勧告せよ」


領主、あるいは名代が頭を下げて伝令を各城に送った。

本当に目安であり、それから間もなくして各所で小規模な増水や氾濫の知らせがひっきりなしに届けられる。

日が越えた辺りで、(斯波)義統には部屋に戻って床に入って貰った。


一方、那古野や末森はのんびりとしたものであった。

清洲より半刻(1時間)ほど遅れて、清洲から揖斐川の伝令が伝わった。

城番の家老らが各村々へ警戒の知らせを飛ばした。

村人は村長の家に集まるようにしておく。

村長の家は集会所と避難所を兼ねており、盛り土をした周囲を石垣で囲み、ちょっとした高台のようになっている。

仮に土岐川(庄内川)が氾濫しても村長の家だけは無事だ。

その石垣の上には村長の家と土倉が並んでおり、雨が降ると井戸の水が濁るので、大桶に水を用意しておけば孤立しても心配する必要もない。


さらに言えば、夕方になる前に水門をすべて閉じ、関所も閉鎖した。

6月に入る前に土岐川(庄内川)の河川工事も終わり、念の為に警戒はさせているが、余程の増水が起こらない限り、土手を越えて那古野や末森の領内に水が流入する心配はなかった。

また、土岐川(庄内川)の支流の1つ、矢田川と天白川が増水する心配もない。

東の脅威から末森を守る万里の長城のような城壁は防水塀を兼ねている。

各関所の門を固く閉じ、防水用の止水板を組めば、ほぼ完ぺきに流水を防げた。

那古野と末森は土岐川(庄内川)を外堀に見立てた完璧な城になっていた。


城の外の旧岩崎丹羽領が大変なことになっていても、矢田川と天白川の上流が増水しては助けを呼びに行けない。

旧岩崎丹羽領は完全に孤立しており、助けを求めるにも、助けを出すのもできない状態であった。

ぐるっと沓掛を経由して、末森にその惨状が伝えられたのは翌々日の雨が上がった後になる。

その日に城に伝わってくるのは他愛もないことばかりだ。

暴風で屋根が飛んだとか?

飼っていた犬が逃げたとか?

畑が池になってしまったとか?

朝から飲んでいた酒場で荒くれ者が喧嘩したとか?

各部署は忙しくしていたが、領主を叩き起こすほどでもない。

魯坊丸も風がうるさいと文句を言いながらゆっくりと寝た。

それに比べると清洲は地獄のように忙しかった。

(地震が起こる前から信長ら清洲の者は忙しかったのです)


「信長様、山之腰から落合に掛けて河川が決壊して、村が流されております」

「(前田)利昌としまさ、兵50を預ける。村の様子を見て来い。河川の復旧ができるなら速やかに復旧し、できぬならば、村人を安全な場所に誘導せよ」

「承知つかまつりました」


清洲は奪ってから2ヶ月しかない。

清洲周辺だけ急がせたが、辺りの村々は以前のままであった。

新しい村長の家もまだ盛り土を始めたばかりで家が建っていない。

以前のままの対応をとっていた。


「よいか、明日になれば、木曽川も氾濫を起こし、河川の増水はさらに増す。より安全な場所に移動させねばならぬ」

「信長様、落合が浸水したならば、その東に当たる中江と下ノ江も危ないと思われます」

「お待ち下さい。蓮花寺を優先するべきです」


どこにどれたけの兵を送るかで議論していると、どたどたどたと廊下を慌てて走ってくる。


『伝令!』


その声から緊張感が走った。


「如何致した?」

「高御堂の北、小池の土手が決壊致しました」

「何だと?」


一ノ宮から流れる川は嶋村を通って、小池辺りで分水する。

ここから濁流が流入するとせっかく補修した土手が意味を無くし、大塚、北嶋、七ツ寺、米屋、反対側は奥田、有松、中ノ庄に流れて行くかもしれない。

そうなれば、一帯は冠水してしまう。


「如何すれば、よいか?」

「高御堂一帯は高場になっております。東の奥田との間の幹道で防げば、流水を防げる可能性がございます」

「(伊丹)康直やすなお、兵300を預ける。無理を承知。渡河を行い。村人をかき集めて土嚢で道を封鎖しろ」

「直ちに向かいます」


清洲の手持ちの兵がドンドンと減ってゆく。

後から来る救援の要請も周囲の各領主で対応して貰うしかない。

ここまで仕上げた清洲の町が流されるなど在ってならない。

交代で仮眠を取りながら次々来る知らせに対応する。

慌ただしく過ごしている間に夜が明けた。

相変わらず、厚い雲から雨が激しく降り続いていた。


「殿、朝食のおにぎりを持って参りました」

「であるか」


信長は手を止めず、帰蝶が差し出すおにぎりを直接にがぶりと食ってゆく。

仲睦まじくおしどり夫婦とはこのことだ。

他の者は片手でおにぎりを掴んで自分で食べている。

昼になると木曽川の増水が酷くなり、川が氾濫は確実になり、いくつかの村を放棄するしかない。

川向こうの葉栗郡などどうしょうもない。

小さい橋など流されて、中島郡でも連絡が取れないようになっていた。


「これでは手の打ち用がない」

「殿、やることも無くなってきました」

「報告が怖いな」

「雨が上がるのを待ちましょう。少しお休み下さい」

「であるな」


部屋を出て、隣の部屋で仮眠を取ろうと思って信長が立ったとき、ぐらぐらぐらっと床が揺れた。

がさがさっと土埃が屋根から降って来て、信長は咄嗟に帰蝶を抱き覆って帰蝶を守ろうとした。

行灯あんどんごと灯明皿とうみょうさらがひっくり返り、各所で小さなボヤが起こっていた。


「慌てるな! 落ち着いて消せ」


幸いなことに清洲城が火事になることはなかったが、町では数件のボヤが起こった。

建物の被害としては小さな納屋が倒壊しただけであった。

また、火を出した家も横殴りの雨で火はすぐに鎮火した。

町の騒ぎが収まった頃、またかと思うほど伝令が慌てて城に入って来た。


「土岐川(庄内川)が決壊致しました」

「まさか?」

「よく聞かせなさい。本当に決壊致したのですか?」


信長と帰蝶も慌てた。

土岐川の河川工事はこれでもかと言うくらいに行われていた。

それが決壊したとなれば一大事だ。


「土岐川(庄内川)の支流の合流する喜惣治きそうじ辺りが決壊しております。六師方場には(林)秀貞ひでさだ様がすでに向かわれました。また、比良の土手も決壊し、大野木、三小田井に川の水が流れ込んでおります」


決壊したのは土岐川(庄内川)の本流ではなかった。

そりゃ、そうだ。

信長も帰蝶も少しだけほっとする。

だが、比良の先にある場所がいけない。


「河原の大橋は残っておるか?」

「そちらは無事でございます。むしろ、土岐川(庄内川)の本流の土手と支流の土手に挟まれており、その一帯が冠水、あるいは全滅もあると、(林)秀貞ひでさだ様は懸念されて、信長様にお知らせするように申し付かって参りました」

「であるか」


土岐川(庄内川)の河川工事を行った為に本流に流れる水量が増し、北側を走る川は水路替わりに残される程度の川になっていた。

雨の少ない冬など完全に干上がってしまう。

那古野の北の辺りは小牧へ続く河川がいくえにも分水しており、まるで大きな中洲がいくえにもあるように思えた。

木曽川から流れてくる河川がそこを流れ、何か所に分かれて土岐川(庄内川)に合流する。

喜惣治きそうじはその合流地点の1つである。


場所的に言えば、蛇池の東になる。

比良で決壊した濁流は蛇池を通過して、信長の妾がいる塙-直政ばん-なおまさの大野木城に流れ込んでゆく。

川の周りをぐるりと土手で囲んだ場所であり、城ごと水没する可能性があった。

信長は慌てた。

清州の兵はすべて使い尽くした。

馬廻りの数十人では少な過ぎる。

清洲の民も遊んでいる訳ではない。

兵がおらん。


「殿、落ち着きなさいませ」

「これが落ち着いてられるか?」

「兵ならばおります」

「どこに?」

「清洲の黒鍬衆をお使い下さい」


帰蝶の黒鍬衆(スコップマン)も遊んでいる訳ではない。

五条川の東、清洲周辺を警戒し、脆弱な箇所を町の衆と共に補修してした。


「西を担当する土方衆の内、半分を東に回します。土方衆は魯坊丸の黒鍬衆10人が率いており、半分にしても機能してくれるでしょう」

「ならば、半分ずつ連れて行った方が良いのではないか?」

「いいえ、清洲の黒鍬衆(スコップマン)は荒事に向いております。決壊した河川に飛び込んで修復するなどは、清洲の黒鍬衆(スコップマン)でなければできません」


帰蝶の黒鍬衆(スコップマン)の内、一部が清州に移動した。

魯坊丸の黒鍬衆と鍬衆は魯坊丸の私兵であったが、帰蝶の黒鍬衆(スコップマン)は信長から名を与えられた帰蝶の直臣であり、織田家の曲りなりにも士分扱いになる。

棲む場所と食費等々を帰蝶が出し、おこづかいに1日10文が貰えるだけなので、傭兵よりも安い。

中身は土木作業員なので仕方ない。

彼らはスコップやつるはしの扱いを極めた者達だ。

土砂を運ぶならば、普通10日掛かる仕事を3日で完遂するほど優秀だ。

魯坊丸の黒鍬衆が率いる土方でも5日も掛かるので、その優秀さは際立っていた。

しかし、投石やローマンコンクリートの配合など細かい作業ができない。

石垣を組んでゆくなどもできない。

そもそも覚える気がない。

彼らが興味あるのは『帰蝶様、命』と『スコップ術』と『筋力』だけである。

魯坊丸の黒鍬衆は諦めた。

根気よく教えていた黒鍬衆の10人が土木工事の『免許皆伝』(見放し状)を渡すくらいに残念な集団に育っていった。

しかし、その集団が成長する。


『今日から君も侍だ』


帰蝶の黒鍬衆(スコップマン)のキャッチフレーズはこれであった。

入隊するだけで帰蝶様の直臣に為れる。

清洲に立身出世を夢見てくる農民の小倅は騙された。

村を捨てた流れ者が縋った。

京で最強の兵士と噂された黒鍬衆と勘違いをした者が入った。

わずか2ヶ月でその数が一気に膨らんだ。

信長が村々からかき集めた土方衆と数は同じながらまったく別の集団になっていた。


城から伝言が走り、黒鍬衆(スコップマン)の主要な者が呼び出された。

帰蝶が命令する。

直の命令に彼らの興奮は最高点に達した。

馬廻り衆と飛び出した信長の後ろをフンドシ姿で背負子を背負った帰蝶の黒鍬衆(スコップマン)が続いた。


『帰蝶様』

『命!』

『帰蝶様』

『命!』

『帰蝶様』

『命!』

信長の後ろで大きな掛け声が繰り返される。


「おい、あれを止めさせることはできないのか?」

「それは解散せよと命じるのと同じでございます」

「儂が馬鹿みたいではないか」

「ご辛抱下さい」


信長が凄く嫌そうな顔をしたが、決壊した土手の修復に彼らの力は必要であり、苦闘の末に諦めた。

因みに、帰蝶は数百人もの直臣を持って困らないのかと言うとまったく困らない。

魯坊丸が作事奉行と交渉し、土木作業が一段落する毎に正当な報酬を支払ってくれることになった。

10日掛かる仕事を3日で終えれば、普通の3倍以上の報酬を受け取ることができる。

必要経費を引いて帰蝶の取り分を取っても十分な報酬を与えることができる。

織田家が土木作業を用意してくれる限り、帰蝶の黒鍬衆(スコップマン)は百人が千人に為ろうと、二千人に膨らもうと問題なくなった。

織田家はその土木作業の予算を確保するのが至難の技だという点に目をつぶればの話だが…………。

黒鍬衆(スコップマン)はそんな事など気兼ねすることなく、団員を増やしていた。


「投げ入れろ!」


信長は刀を振って、大きな掛け声を上げると大きな石が川に投げ入れられた。

決壊した土手の両岸から石を引き詰めて水の勢いを削ぎ、その後ろに土嚢を詰んで仮の土手を形成する。

時間との戦いになる。

大きな石はこんな事態に備えて土手の内側にケルン石のように円錐状のピラミッドが積まれており、放り込む石に困らない。

だが、流れの速い濁流に足を入れるのは命懸けであった。

帰蝶の黒鍬衆(スコップマン)は恐れない。

足を取られるのは帰蝶様への愛が足りないからだ。

それで済まされる。


『帰蝶様の為ならエンヤコラ』

『もひとつおまけにエンヤコラ』

『命も惜しくないエンヤコラ』

エンドレスに続く帰蝶様音頭に合わせて大石が放り込まれてゆく。

遅れて村人もやってくる。

ふんどし一丁の男達に勇気を貰い、皆が必死に決壊を修復するのに一丸となった。

昼過ぎから始まった作業は長々と続き、夜には雨が上がり、翌朝の朝日が昇る頃まで続いた。

村を救おうとする信長の勇姿に村人達が感謝した。

その勇姿の話は尾張中に広がった。


「信長様はおらたちの英雄だ」

「おらたちのことを考えてくれるのは信長様しかいねいだ」

「奥方が好き過ぎるのは問題だがな」

「まったくだ」


がははは、信長を褒めた言葉の後に掛け声に『帰蝶様』と付ける信長の愛妻家ぶりに皆が笑った。

その噂は尾張を越えて美濃に届き、近江を抜けて京にも伝わった。

その愛妻家ぶりに帝まで笑ったと言う。

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