閑話.脱走するお市。

ばたばたばたと慎みも忘れて、末森城の奥屋敷の廊下を掛ける下女がいた。

下女が廊下を走るなどはしたない。

一刻も早くお伝えせねば、その下女は使命に燃えていた。


奥屋敷とは、その名の通り奥方が住む所であった。

本丸御殿の奥にある。

北の方を譲った土田御前は東の茶御殿に移った。

女中はその反対側に駆けていった。


さて、末森の本丸大門をくぐると土田御前がお市を出迎えに来た。

牡丹から降りて、お市と信長が土田御前にあいさつをする。

そして、がっとお市は腕を掴まれたのだ。

そのまま、屋敷に連れて行かれようとした。


「許してたもれ、わらわも悪気はなかったのじゃ」

「身勝手に出奔した事実は消えません」

「それは誤解じゃ! 信兄じゃは行っても良いと言っておった」

「行って良いと言われたことと、実際に行くのは別だと判らないのですね」


お市の腕を離さずに、振り返って土田御前がにたりと笑う。

その不気味な笑みにお市は背筋を凍らせた。

今日は長い長い説教になる。

そんな予感がお市の脳裏に走った。


身勝手に出奔し、京に上洛し、公方様や帝に拝謁した。

その過程で飛鳥井-雅綱あすかい-まさつなの猶子になり、従五位相当の掌侍ないしのじょうを賜った。

おおやけには、お市を責めることはできない。

だが、あくまで公であり、母である土田御前がお説教するのを止める者はいない。


「信兄じゃ、助けてたもれ!」


叫ぶお市を信長は両手を揃えて、「すまん!」とばかりに頭を下げた。

母の前では当てにならない信長であった。


もう一人の兄、信勝はもっと当てにならない。

土田御前のお気に入りで、母上に逆らうことはない。

絶体絶命であった。


千雨ちさめ、助けてたもれ!」

「お許し下さい」

「そうじゃ、母上! わらわはあんずらに末森を案内せねばなりません。用事が終わってからと言うことでお願いするのじゃ」


土田御前がぴたりと止まった。

わずかに希望の光が見えた?

そう楽観したいお市であったが、そこまで土田御前が都合よく動いてくれるとは思わない。

思わないが、願いたいと淡い期待に駆けて祈った。


「千雨、案内してやりなさい」

「畏まりました」

「それと、その汚らしい生き物は何だ?」

「牡丹はわらわの馬じゃ!」

「これが馬? 台所に持ってゆく、今晩のおかずでもしなさい」

「待って欲しいのじゃ。わらわの友達じゃ!」

「知りません」

「大切なものじゃ!」

「それを決めるのはこの母です」


土田御前は容赦してくれない。

このままでは牡丹が『牡丹丼』になってしまう。

牡丹丼は好きであるが、牡丹が牡丹丼になるのは嫌だった。

嫌々をしながら、お市も青い顔をする。


「土田御前様、よろしいでございましょうか?」

「下女風情が口を挟むな!」

「誠に申し訳ございませんが、我が主、権大納言雅綱様からお市様をお守りするように命じられております」


杏は咄嗟に裏設定を披露した。

杏、木通あけびくりの三人は魯坊丸に仕えていたが、お市に貸し出すと京限定になってしまう。

それを回避する為に、権大納言雅綱様から派遣された女官の隠岐おき伊豆いずを助ける下女として、お市に下賜されたことにした。

権大納言から頂いた者を勝手に解任できない。

もちろん、大納言にも口裏を合わせて貰っている。

案の定、土田御前が嫌な顔をする。


「こちらの牡丹様が東山の守り神の使者でございます。帝の許可なく、屠殺することはできません」

「帝の?」

「嘘ではございません。どうかご確認下さい。京では、お市様を『摩利支天まりしてん』のように讃え、東山の神が遣わしたと噂されております」

「京まで行けとでも言うのか?」

「いいえ、熱田神社に右近衛大将様(久我-晴通こが-はるみち)がご逗留でございます。そちらにご確認されればよろしいかと」

「判りました。確認しましょう」

「ありがとうございます」

「とにかく、その汚らしい物を片づけよ」

「栗、世話をせよ。千雨様、ご案内をお願いします。護衛は私と木通で行います」

「判りました」


土田御前の前で跪いていた栗がすっと音もさせずに立ち上がった。

それを見て、「忍びか?」と小さく声を漏らす。


「お察しの通り、我らは飛鳥井家を守る者でございます」

「なるほどのぉ」

「杏らは凄く強いのじゃ! わらわの側に来た敵をずばばばっと倒してくれたのじゃ」


土田御前がこめかみに手を当てて、首をわずかに横に振る。

話には聞いていたが、お市は本当に戦場を駆けたらしい。

それは姫の所業ではない。

どこで躾けを間違ったのだろうか?


「何故、戦場になど出たのです」

「皆が戦っておったのじゃ! わらわがのほほほんと座っていて良いと思わぬ」

「姫が戦場に出るものではありません」

「大丈夫なのじゃ! へっぴり腰の槍など当たらぬ!」

「おぬしらは主を止めなかった?」

「我らが命じられたのは護衛のみでございます。お市様の教育は女官の隠岐様と伊豆様の職分と考えます」

「なるほど、私がお市を折檻しても止めぬのか?」

「お命に関わらないようでございましたら」

「一晩中、説教を続けても止めぬのか?」

「わずかばかりの水と食べ物をお渡しになられるのならば」


土田御前が不穏な言葉を発した。

どうやらお市は折檻を受けて、一晩中の説教が規定路線らしい。

ぶるぶるぶるとお市が震え出して許しを乞うた。


「許してたもれ、許してたもれ!」

「貴方が反省すれば、許して上げます」

「反省しているのじゃ!」

「そうですか! では、まず部屋に行きましょう」


お市の抵抗も空しく、ずるずると引き摺られてゆく。


 ◇◇◇


渡り廊下に入り、東の茶御殿に曲がろうとすると声が掛かった。


「お市様。無事のお帰り、おめでとうございます」

大御おおおち様も久しぶりなのじゃ」

「京でのご活躍。日々、楽しく聞いております」

「それはよかったのじゃ」


そう答えながら何の事か判らない。

まさか、那古野の瓦版でお市のことが連日の如く、書かれていたとは知らされていない。

那古野で発行された瓦版が末森に持ち込まれ、お市の活躍を知らぬ者などいなかった。

大御ち殿とは信長の乳母である。

池田政秀の娘で滝川恒利を婿養子に迎え、天文3年 (1534年)に生まれた信長の乳母になった。

そして、天文5年に恒興つねおきを生んだ。

ところが、天文7年に夫の恒利を流行り病で失うと、寡婦かふとなった彼女は出家して養徳院ようとくいんと名乗った。


見目麗しい乳母でないと、乳首を噛み切ったと言う赤ん坊の信長が認めた美女である。


その美しかった養徳院を信秀が放置する訳もなく、側室に迎えた。

大御ち殿にとって、まだ幼い恒興を支えるのは難しい。

だが、側室になれば、信秀が義理父になる。

恒興の後見人として、これほど心強い方はいない。

大御ち殿は恒興の為に信秀に尽くしたと言う。

側室になってすぐ、娘(後の小田井殿)を産んで地位も安定した。

だが、信秀が亡くなってすべてが終わったかに見えた。


信勝が当主になると、土田御前の権威は頂点を極めた。

我が物顔で奥屋敷を仕切った。

土田御前に逆らえる者はいなかった。

しかし、この一年で陰りが見えた。


信長が復活してくると、信長の乳母であった大御ち殿が台頭してきた。

信秀に尽くし、側室を束ねていた大御ち殿は、信長の筆頭側近の長門守の姉である岩室殿、中根南城の中根-忠良なかね-ただよしに妻になった魯坊丸のご生母とも好を通じてきたことが功を奏したのだ。

今では末森城の家老衆も大御ち殿を持ち上げている。


土田御前は信勝を可愛がり過ぎた為に信長との不仲を囁かれている。

そして、彗星のように頭角を現してきた魯坊丸の存在が大きい。

側室同士の繋がりを大切にして来た大御ち殿のファインプレーとしか言いようがない。


「大御ち殿、お話はまた後でして頂けませんか?」

「そうも参りません。お市様は末森を左右されるお方。北の方にあいさつが先でしょう」

「それは私が判断致します」

「いいえ、まずは北の方のご報告が先です。のぉ、岩室殿」


もじもじと岩室殿が頭を下げた。

土田御前と対立したくないが、大御ち殿も無視できなくなった。

そして、その返事を期待するかのように女中らが目をきらきらさせていた。

土田御前が舌打つ。


「忌々しい、女狐め!」


信秀がいなくなっても邪魔する。

信長を自分の息子のように可愛がり、信秀に縋って信長を擁護し続けた。

大御ち殿は信長の生母のように振る舞っている。

もしかすると、土田御前が信長に辛く当たるのは、大御ち殿を恨む余りの逆恨みだったのかもしれない。


そんなことはどうでもよい!


付き添っている女中達が土田御前の返事を待っていた。

お市のお披露目をして欲しい!

そんな熱い願望を乗せて土田御前を見ていた。

まずは厳しく叱ってからと思っていた土田御前の思惑が狂った。


「仕方ありません。まずは北の方にあいさつを致しましょう」


やった!

女中達が喜んだ。

実はお市の女官と一緒にお市の服が届いていた。


「では、お市様、あちらに御召し物を用意しております」


お市も逃げ出したくなるファッションショーが始まった。

京で着た服を次から次へと紹介するのだ。

説明するのは女官の隠岐おき伊豆いずであるが、公家の姫らしく振る舞うのは窮屈で堪らない。

京で習ったことをすべて披露されてゆく。

皆、興味津々であった。

お市もウンザリだ!

夜も更けたので、明日に延期となった。


コケコッコー!

鳥の音が鳴く頃、お市はひっそりと部屋を抜け出した。


「あっちじゃ!」

「お市様、よろしいので?」

「千雨は母上の味方か?」

「いいえ」

「ならば、邪魔をするでないのじゃ」

「判りました」

「ですが、お助けはできません」

「問題ないのじゃ」


お市にとって末森の警備の目を盗むなど、ちょちょいのちょいだ。

簡単な道具を使って、壁をするすると登って越えてゆく。

幸い、末森も警護している忍びは信勝の家臣でも、土田御前の部下でもない。

軽く手を振ると、振り返してくれる。


「お市様、どこに行かれるのですか?」

「魯兄じゃがおらぬ中根南城では匿ってくれん。ひとまず、那古野の信兄じゃを頼るのじゃ」

「助けてくれるのでしょうか?」

「判らぬ。じゃが、もうお人形様は嫌なのじゃ!」


逃走するほど、罪が重くなると誰も教えなかったのだろうか?


 ◇◇◇


日が昇ると末森城は大騒動だ。


「門番は何をしていたのか?」


信勝も怒号を飛ばす。

土田御前はヒステリックに声を荒げる。

お市を見たとして、お市の下女である栗が召し出された。


「お市はどこに行った?」

「どこに行ったかは知りません」

「どうやって城を出たのだ?」

「どうやって? 壁を乗り越える以外にありますか?」

「どうしてそんなことができるのだ?」

「えっ、織田の姫様はみなさんできるのではないのでしょうか? お市様ができるので、みなさまもできると思っておりました」


信勝も困惑だ。

土田御前も怒鳴り散らす。

栗も困ってしまった。

安心させようと、その場でお市の力を説明する。

口で言っても判らないので、その場の家臣に切り掛からせて避ける実践を披露する。

家臣の中でもそれなりの腕を持つ者が選ばれた。

だが、まったく掠ることもできない。


「お市様はそんなことができるのか?」

「避けるだけならば、私より巧いですよ」

「誠か?」


集まった家臣らが驚き、流石、信秀様のお子様だと口々に言う。

信勝も開いた口が塞がらない。

栗に襲い掛かった武将は信勝より腕の立つ者だった。

信勝が本気で掛かってもお市に掠りもしない?

そんなことはあり得ないと首を横に振る。


「そんなことできるのはお市ではないわ? 天狗が入れ替わったのよ! お市、お市、お市はどこに?」


土田御前は安心する所か、気が狂ったように騒ぎ出し、糸が切れたように倒れてしまった。

栗の思惑はどうやら外れたらしい。


しばらくすると、那古野から使いが戻り、信長が匿ってくれないので熱田に向かったと言う。

そして、熱田から魯坊丸に帰るように言われて逃げ出したと返事が来た。

逃げ出した先は右近衛大将様(久我-晴通)がおられる熱田神社だ。

しばらくすると、右近衛大将様がやって来て、お市を叱らないようにお願いされた。


仕方なく、お市の罰は一ヶ月の自室謹慎とされた。

公的な用事のときは、信勝の許しを貰って参加する。


「お市様、これでよろしいか?」

「ありがとうなのじゃ! できれば、自室は中根南城の自室がよいのじゃ」

「それはどうして?」

「末森の飯より、中根南の飯が美味いからじゃ」

「なるほど!」


右近衛大将様(久我-晴通)は納得したが、末森の飯が拙いとはっきり言うお市に信勝がブチ切れた。


「お市を部屋から一歩も出すな! もし出たなら、家臣と子分とやらを処分する。神の使いとやらも京に送り返す。判ったな!」

「それは酷いのじゃ!」

「口答えもならん。次に意見すれば、どうなるか判っておろう!」


わぁあああぁ、お市はその場で泣き喚いた。

不思議な光景だった。

右近衛大将様が来られたので信勝らは上座を譲った。

そして、官位の順に並べて座る。

今、末森で一番官位が高いのは実はお市と言う奇妙なことになっていることに気付かされたのだ。

信勝はまだ帝の使者でもある魯坊丸から従五位三河守を受け取っていない。

来る5月1日に清洲で執り行われる式まで、無位無官の弾正忠家の当主に過ぎない。

一方、お市はすでに従五位の掌侍ないしのじょうであった。

お市様の方が偉かったのかぁ?

下座でまだ無位の信勝が、上座で五位のお市を叱っていた。


「勝兄じゃの阿呆!」

「なんじゃと! 意見するなと言ったであろう」

「意見ではございませんな! お市様は意見しておりませんぞ」

「今、何と申した!」

「何ですか? 信勝殿は私に意見なさいますか?」


確かに、お市は意見を言っていなかった。

右近衛大将様の一言に信勝がつむじを曲げて、ふんっと横を向いたらしい。

その態度もどうかと家老達が冷や汗を流した。

やれやれだ!

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