閑話.うちは銭湯じゃない!

これは公方様を能会にお招きした3日後の話です。

体調不良も治まって、再開された講義を終えて公家様が風呂と夕食を終えると帰宅された。

そして、よるとばりが下がった頃、魯坊丸様やお市様を部屋に送ると、今日の仕事も終わった。


ちゃぷん、ちゃぷん、湯船に浸かっていると水が滴る音が風呂場に広がる。

内藤 勝介ないとう しょうすけ林 通忠はやし みちだたはその日の疲れを落とすべく湯船に肩まで浸かった。

空の月を眺めながら勝介は今日も無事に終わったことを感謝した。


「内藤殿、今日も疲れましたな!」

「昨日、一昨日と来られなかったのが幸いだった」

「その分、拝謁が遠のいた気がします」

「今日はお市様が逃げ出さなかっただけでもよかった。お市様が逃げ出すとどこに消えたか判らん」

「まったくです。あの下女はお市様の命令しか聞きませんからな!」

「何にしてもよかった」

「今日は逃げ出さなかったというより、和歌で遊んでいたとしか見えませんでしたな!」

「あのお市様が和歌を覚えたのです。よかったではないですか?」

「そうですな!」


今日の講師は冷泉 為純れいぜい ためずみ様であった。

和歌の家は二条家と京極家であったが南北朝時代に断絶し、冷泉家のみがもっとも傍流ながら生き残った。

為純は細川庄を領したので細川 為純ほそかわ ためずみと呼ばれていた。

そして、魯坊丸が発案した百人一首を気に入った。

但し、選んだ百首には文句を付け、一〇首の差し替えが起こった。

これが後の騒動になるとは誰も思っていない。


「明日はお市様が嫌いな『書』だ!」

「頭が痛いですな!」

「それはまた明日でも考えましょう」

「そうですな!」

「とにかく、後は拝謁さえ終われば、大きな仕事はありません」

「このまま無事に尾張に帰りたいものです!」

「まったくです」

「今日も風呂上りに一献行きますか?」

「よろしいですな!」


台所に行くと賄いが交代で一人残っており、夜間の警備の為に夜食を作っている。

その夜食には一合の酒が出た。

勝介らはその料理をさかなに一合の酒で一杯やるのが最近の楽しみになっていた。

一日の疲れも取れるというものだ。


「邪魔をするぞ!」

「どうぞ、どうぞ…………!」

「どうされました。内藤どぉ?」


勝介は差し出した手が途中で止まり、通忠は殿の『ど』で言葉が固まった。

公方様!?

二人は目を合わせて心の中で会話をする。

(どうして公方様がここに居られるのだ)

(知らん、知らん、儂が知る訳もない)

勝介と通忠もこんな所に居られない。


「某らはこれにて!」

「余に遠慮して上がることはならんぞ!」

「もう上がる所でして!」

「ならん」

「か、畏まりいへぇた」


勝介は噛んだ!

大きな口を開けて、通忠を見る。

目と目を合わせて心の中で問い合った。


(どうしろと言うのだ!)

(どうしようもないぞ!)

(これでは?)

(出る訳にいくまい)


公方様と一緒に浸かる者が二人、太刀を預かる者と護衛が入口に立っている。

逃げるに逃げ出すこともできない。


「この風呂はよいのぉ! 余の屋敷にも欲しいものだ!」

「誠に!」

「余の御殿にあっても良いと思わぬか?」

「では、屋敷に造らせるように命じておきます」

「そうか、造ってくれるか!」

「お任せ下さい」

「内藤と言ったな! 褒めてつかわす。(近衛) 晴嗣はるつぐの話では、この手の話をすると、あいつは必ず銭を要求されると聞いていたぞ!」

「滅相もございません」

「そうか、そうか、魯坊丸は良き家臣を持ったな! 頼りにしておるぞ!」


公方様に頼られた。

勝介は武士の本懐を遂げた気分だった。

後で魯坊丸から散々になじられることになる。


「こういうものはなるべく勿体付けて、値を吊り上げてから恩着せがましく承知するのです。同じ献上するにも、簡単に引き受けない。誰が銭を出すつもりですか?勝介が払うか? それとも通忠が払うか?」

「因みにおいくらくらいですか?」

「相場なら、最低でも2,000貫文くらいだな!」

「にっ、2,000貫文ですか!?」

「新しい物には価値があるのだ。安売りをしてどうする。だが、安心しろ! あくまで相場だ。おまえらには人件費と材料費のみで200貫文にまけてやる」

「それでも200貫文もするのですか?」

「材料を運んでくるだけでも経費が掛かるのだぞ。当然だろう!」


銭の勘定になると、評定の時の大人顔負けの魯坊丸が顔を出して、二人を追い詰めた。

それは翌日の話だ!


ともかく、公方様と一緒に風呂に入るなどあり得ない。

二人はとんでもない経験をした。

疲れなど吹っ飛んで、起き上がれないほどの湯あたりで倒れた。


 ◇◇◇


その日から公方様のお忍びが毎日のように続く。

一日の仕事を終えて、風呂に入るのが日課になった!

昼前に公家様がやって来て、夜が更けると公方様がやってくる。

あり得ない日常だ!


「あれは紫殿です」

「魯坊丸様!?」

「公方様だと言うならば、付き添いの夜食代を室町御殿に請求しましょうか?」

「恐れ多いことをおっしゃらないで下さい」

「ただ飯を食いに来ている連中に頭を下げる必要なんかありませんよ」

「魯坊丸様!?」

「とにかく、必要以上に接待をする必要などありません。 判っているでしょうね!」


魯坊丸は大胆というか、冷徹になる。

公方様を相手に酒のおかわりを拒絶して、我儘を言うならば、『出入り禁止』にすると公方様を叱り付けた。

慣れてくると、接待を武将に任せて床に入ってしまうようになった。


「餌付けしてしまったな!」

「魯坊丸様、不敬でございます」

「誰も聞いておらん」


こうなると寺の風呂に入る者がめっきり減った。

早い時間は公家様が入っており、日が暮れると公方様がお忍びでいつ来るか判らない。

気が休まらない風呂など誰が入るだろうか?


皆、外にある大浴場に通うようになったのだ。

そうなると熱田の者や傭兵らと交流が深まる。

魯坊丸はそれを喜んだ。

勝介らも大浴場を利用して、下級の者らと声を交わすことが多くなった。

交流が深まることはいい事だ。


 ◇◇◇


その日はまだ空は茜色に染まっている頃であった。


「邪魔をするぞ!」

「今日は随分とお早い御着きですね!」

「魯坊丸様、もっと丁寧に!」

「勝介、何を言っている。ここに居られるのは浪人の紫殿だ!」

「また、そのような詭弁を!」

「よい! (伊勢)貞孝さだたかからも公方と名乗るなと言われている。公方と名乗ると、食事代が請求させるそうだからな、ははは」

「公方と名乗るなら申し分のない接待をさせて頂きます。但し、その費用も請求させて頂きます」

「紫でよい。風呂を所望するぞ!」

「お待ち下さい。只今、お市が風呂に入っております」

「それがどうした?」

「織田の家風として、『男女七歳にして席を同じゅうせず』という言葉が残されております。席はともかく、風呂まで同じでできません」

「余でも駄目か?」

「駄目です!」

「仕方ない。先に夜食を頂こう」


公方様にはっきりと拒絶する魯坊丸に勝介が焦った。

しかも聞いたことのない家風だ!

公方様があっさり引いてくれたので安堵の息を吐いた。

さて、来るのが早かったので夜食の準備もできておらず、公家様の残り物をお出しすることになった。

夜食よりかなり豪勢だ!


「公家らはいつもこんな良い食事をしておるのか?」

「勉強を見て頂いている御礼でもあります」

「余にないのか?」

「誰か頂けますか?」

「(細川)藤孝ふじたかを剣術の指南に遣わすのはどうか?」

「それは助かります」

「お止め下さい。遠慮致します。織田と慣れ合うつもりはございません」

「役に立たんな! 余が来られるなら来たい所だが、余も忙しいのでな!」


公方様は武力も権力もなく、三好の傀儡のように思われているが然にあらず!


幕府に持ち込まれた訴訟、権利の安堵、押領禁止、犯人逮捕の依頼とかかなりあった。

特に政所沙汰と呼ばれる土地売買、金銭貸借、債権保護、債務破棄の案件が多いらしい。


「どうだ、判ったか。余も忙しいのだ!」

「念の為に言っておきますと、これらは政所の執事 (伊勢)貞孝さだたか殿の裁量で決まり、公方様が口を差し挟むことではございません」

「(三淵) 藤英ふじひで、要らんことを言うな!」

「藤英様、紫殿の言う通りでございます。公方様が判決のことをまったく知らないのは問題があります」

「見よ、魯坊丸はよう判っているではないか!」

「ですが、判決に口を挟むのは越権行為と思います」

「それでは聞く意味がないではないか?」

「いいえ、今後の方針を伝え、方針に従わぬなら代わりの者の首を挿げ替えるのがよいのです」

「なるほどのぉ!」

「伊勢家のみに政所の職務を独占させず、少なくとも三家くらいは職務ができるように育てておくのが大切と思います」

「面倒臭いな!」

「この物騒な世の中です。貞孝さだたか様に何かあった場合も考えておくべきでしょう」


どうも簡単に邪魔な奴は消せばいいと思う馬鹿が多い!

後釜もいないのに有能な者を亡き者にすれば、困るのは自分なのだ。


この義藤よしふじという将軍は政所にも興味を持ち、様々なことに気づかうのは良いが、どうも一直線で後先を考えない所がある。


「待て、待て、他に仕事がある」


そう言うと、御前沙汰という所領の安堵、押領の排除、犯罪の処罰、諸大名への対応、幕府内の儀式、宗教の判決なども扱っていた。


「こちらは奉行人が交代で捌いております」

「(三淵) 藤英ふじひで、要らんことを言うな!」

「あまり細かいことに口を挟むのはよくないと思いますよ」

「公方様、魯坊丸の意見をよくお聞き下さい」

「うるさい!」


この義藤よしふじという将軍は妙な所で生真面目なのかもしれない。


最近、忙しいもう1つの理由が尼子の備中進出と北信濃の武田進攻であった。

どちらも我が領地と『栄典授与えいてんじゅよ』を求めて来ていた。

栄典と言うのは守護職や官途(官位)の授与であり、どちらがその土地を治めるのに相応しいかという意味だ。


「実に下らん。共に手を取り、上洛して余の助けをすればよいのに!」


そこは魯坊丸も同意だった。

下らないことで命の取り合いをして、内紛を起こさない為に外敵を求めて戦い続ける。

無益なことを永遠に繰り返していた。

秩序を取り戻し、法の下で静かに暮らせればいいのにと思う。


「よい風呂であった。おぉ、紫殿ではないか!」

「お市か、元気にしていたか?」

「わらわはいつも元気じゃ!」

「そうか、それはよかった」

「魯兄じゃ、わらわも番茶オレを所望するのじゃ!」

「これは番茶おれと申すのか?」

「そうだ! 渋い番茶に砂糖をたっぷり入れて、山羊の乳を少し入れて、井戸水で冷やして呑むのじゃ!」

「確かに美味い!」

「風呂上りには、これが一番なのじゃ!」

「余もこれからこれを所望しよう」

「気が合うのじゃ!」

「気が合うのぉ」


これほど馴れ馴れしい会話を聞いて、勝介はあり得ないと思った。

勝介の心臓はバクバクと音を出し、今にも破裂しそうなくらい早くなっていた。

公方様が帰ると、魯坊丸は口悪く罵った。


「やっと帰ったか、まったく、うちは銭湯じゃないぞ!」

「魯坊丸様!? もう少しお声を小さく」

「毎日、飯をたかりにくる連中に優しくするほど、俺の心は広くないんだ!」

「ですから、お声を小さく!」


こんな心臓に悪い日々を勝介は拝謁の日まで続けたのだ!


なお、武将らは交代で紫殿を出迎え、お供の奉公衆の方々と面識を持つことができ、上洛した目的を達成したのは皮肉な話だった。

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