閑話.岩室重義の憔悴、燃え尽きた。真っ白に!

岩室-重義いわむろ-しげよしはいるか?」


俺、岩室-重義いわむろ-しげよしは信長の腹心と呼ばれる長門守(岩室-重休いわむろ-しげやす)の弟だ。

父から忍びの才がないと言われ、兄のような秀才でもない。

それでも信長様から納戸役なんどやく御庭方おにわかたという連絡役の仕事を頂いた。

俺は尾張を出奔されたお市様を追い駆けて堺まできた。

後はお市様に従って京に上洛し、魯坊丸ろぼうまるとお市様の日々の報告を信長様に送っている。

公方様の宴会に出席されていた魯坊丸ろぼうまる様が俺の名を呼んだ。


なんと、目出度い。

三好様の御嫡男様とお市様の婚姻の話が上がっていると言う。

天啓だ。

三好と言えば、一昔は国衆くにしゅうであったが、今は畿内を抑えた覇者だ。

当主の三好-長慶みよし-ながよしは幕府の御供衆おともしゅうを任じられ、官位も従五位下で筑前守を賜っている。

その嫡男ならば、申し分ない。


「三好は思った以上に内情が悪い。お市が嫁いでゆけば、お市の命も危ない。決して、いい話ではないぞ」

「三好がですか?」

「そうだ。細川-氏綱ほそかわ-うじつなの周辺がきな臭いと俺は考える。三好に嫁げば、お市はその動乱に巻き込まれる。俺は反対していると兄上(信長)にしっかり伝えて来い」

「私が行くのですか?」

「三好の書状を他の誰に預けられるか?」


他の誰に預けられるか?

そう魯坊丸ろぼうまる様に言われた瞬間、俺は天に昇ったように報われた。


 ◇◇◇


魯坊丸ろぼうまる様から預かった得珍保とくちんのほの割符を使うと、すべての関所を夜でも通過でき、鈴鹿越えの八風はっぷう街道で道案内が付いた。

草木も眠る丑三つ時 (午前2時)と言うが、本当に暗闇が続く。

今宵は月もほとんどでない。

八風はっぷう街道の難所に差し掛かった。

一瞬たりとも気を抜けない。

道を外せば、奈落の底だ。

得珍保とくちんのほの道案内が松明を持って先行して走ってくれる。

松明の火がこれほど心細いと思ったことはなかった。


重義しげよし様、速度を落として頂きましょうか?」

「俺に構うな。織田の一大事だ」

「判りました」


やせ我慢もここまでくれば、俺も立派と自分を褒めた。

難所を越えた後は何も考えられない。

手の握力は無くなり、馬の背に持たれるように抱き付いた。

悪いが俺の手綱をもう一人の従者に引いて貰う。

自分が自分で情けない。


寅の刻 (午前4時)、桑名の隣にある朝日村の漁村に到着し、小さな帆掛け舟で出港した。

闇夜の中に漕ぎ出でる舟がこれほど心細いとは思わなかった。

ざぶん、波を超える度に舟が上下に揺れた。

このまま海の底に落ちてしまうのではないのか?

そんな不安に襲われた。

舟は帆を広げ、さらに漁師達も櫂を持って漕いでいた。

本当に速くなるのか?

ざぶん、そのまま天に放り投げ出されるのではないかと言う位の浮遊感が襲ってきた。

それより、この舟は大丈夫なのか?


「御武家様、そんなに怯えなくとも大丈夫です。今日は風もいい、よく晴れている。運がいいですね」

「この暗闇でも見えているのか?」

「いいえ、目がいいあっしでも流石に見えません」

「ならば、どうやって?」

「目をよく凝らして下さい。あの右手に見える小さな光が佐治の湊です。向かって左側の奥に見える光が荒子の湊です。そして、その真ん中に見える二つの光が見えるでしょう。あれが熱田の湊です」

「う~ん、よく見えん。あの小さい奴か?」

「灯台と言う灯篭を一晩中、焚いているのです。雨の日や霧が出る日は駄目ですが、今日はよく見えます」

「だから、運がいいと言ったのか?」

「そういうことです」


小さな光をずっと眺めた。

悠久の時間が過ぎてゆく、本当に進んでいるのかと疑いたくなる。

その内に東の空が明るくなってきた。

辺りが見えてくると、波がそれほど高くないことに驚かされる。

俺はこの程度の波にいつ舟が転覆するのかと怯えていたのか?

日が完全に上ってもまだ熱田の湊に付かない。

遅い、遅すぎる。

焦れる思いを抑えて、熱田湊の埠頭に舟が付けられるのを待った。

上陸すると馬を借りて那古野城に急いだ。


重義しげよし、よう戻った。で、如何した?」

「これを」


出迎えてくれた信長様に魯坊丸ろぼうまる様の手紙と三好の書状を渡した。


「なんと、三好がお市を欲しいと言ったのか?」

「しかも公方様の仲介をお望みであります。しかし、公方様は大の三好嫌いであり、魯坊丸ろぼうまる様は三好の内情は危なく、この話は流動的だと申されました。手紙には書かれておりませんが、魯坊丸ろぼうまる様自身は阻止する方向で動きたいと申されておりました。但し、信長様の指示に従うとのことです」

「判った。よう届けくれた。しばらく、休め」


信長様にそう言われた瞬間、その緊張の糸が解けたのか、その場で倒れ込んだ。

情けないと思うが立ち上がれない。

連れ添った従者達もその場でへたりこみ休息を取り始めた。

二人とも俺より遥かに凄い忍びだったと思ったが、そんな者でも疲労困憊ひろうこんぱいで動けないようだ。

恥を捨てて、そのまま大の字で眠った。


 ◇◇◇


「起きろ。重義しげよし

「もう少しだけ…………」

「寝ぼけておるのか?」

「兄上、どうしてここに?」

「早く起きろ」


目が覚めると兄上(長門守)がいた。

間抜けな顔をして寝ていたらしい。

末森城から帰ってきて、信長様から事情を聴いたと言う。


「京はどうなっておるのか?」

「某も、那古野のことが気になっております」

「それはよい。知ることをすべて話せ」


堺の上洛から公方様の宴会までを簡単に説明した。

兄上(長門守)は何度もため息を付かれた。


「では、嘘偽りでなく、公方様に路上で声を掛けられたのだな?」

「嘘ではございません。この目で見ました」

「何故、公方様は魯坊丸ろぼうまる様をご存知なのだ?」

「それは知りません」

「おまえは何をやっておるのだ。それを聞き出すのが仕事であろう」

「申し訳ありません」


矢継ぎ早に質問が襲ってきた。

ほとんどが手紙に書いたことの確認だ。

まるで俺が嘘を書いたように疑っていた。


近衛このえ- 晴嗣はるつぐ様を魯坊丸ろぼうまる様が怒鳴り付けたことも真実であり、兵舎小屋で『鹿肉丼』を一緒に頬張ったのも本当だ。

信じられないのはよく判る。

見ていた俺が目を疑ったくらいだ。

晴嗣はるつぐ様が魯坊丸ろぼうまる様に自分の弟のように接しておられる。

慣れ慣れしいくらいだ。


重義しげよし、手紙を書いた。これを魯坊丸ろぼうまるに届けよ」

「今、すぐですか?」

「織田の命運が掛かっておる」

「判りました」

「頼むぞ」


信長様から『頼む』と言われた。

俺は感動した。

ここで踏ん張らずにどうするか。

俺は自分を奮い起こして那古野城を後にした。


 ◇◇◇


那古野に到着したのは辰の刻 (午前8時)であり、出発は巳の刻 (午前10時)だった。

昼間ならば、舟より馬の方が早い。

那古野城を出ると佐屋さや街道を使って西を目指す。

佐屋さやから桑名まで舟で『三里の渡し』を渡った。


桑名で馬を借りて、昨日の晩に通った道を走らせる。

夜と違って、馬を早駆けで走らせる事ができる。

気が付かなかったが八風はっぷう街道は他の道に比べると街道が整備されている。

馬が気持ちよく走った。

日が欠ける前に山を越えられ、近江八幡まで戻って来られたのは幸いだ。


酉の刻 (午後6時)に瀬田大橋まで戻ってきた。

暮れ六つであり、関所が閉まる時間だ。

だが、割札を持つ、俺には関係ない。

そこで末森から来た織田の使者に追い付いたみたいであった。


「これは岩室様ではございませんか?」

「おぉ、久しいな」

「岩室様はどうしてここに?」

「信長様の手紙を魯坊丸ろぼうまる様に届ける所だ」

「そうでございましたか? 某は末森からの手紙でございます」

「ならば一緒に付いて来られると良い。俺は関所を通る割札を所持しておる」

「それは助かります」


末森の使者は大津の湊で宿を取るつもりだったみたいだ。

助かった、助かったと礼を何度も言う。

逢坂の関で割符を見せる。

辺りが完全に暗くなった頃に知恩院に着いた。

もう動けない。

俺は魯坊丸ろぼうまる様の元に通された。


「信長様から返答の手紙でございます」

「ご苦労であった」


織田家の命運を賭けて俺はやり切った。

魯坊丸ろぼうまるは手紙を読まれていると顔が険しくなり、眉間にシワが寄った。


「えぇぇぇぇぇ、あり得ない」


それは大きな声を出された。

何と言うのか、取り乱している。


「千代、どういうことだと思う?」

「判りません」

重義しげよし、兄上(信長)は熱でも出されて、せっておられるのか?」

「元気にされておりました」

「兄上(信長)は頭がおかしくなったのか?」

「それは言い過ぎではないかと」

「兄上(信長)なら『三好を完膚なきまでに叩きのめし、二度と同じことが言えないように、織田の恐怖を魂魄に刻み込め』と返事が来ると思っておったぞ。それが俺に任せるとは、どういうことだ?」

「末森から指示が行くと書いてございます」

「なるほど」


そこで末森の使者が持って来た手紙を千代女さんが取り出してきた。

後で見せようと預かって来たらしい。

魯坊丸ろぼうまる様はさらさらと手紙を開かれる。


「なんじゃこりゃぁあ!!」


今にも暴れ出しそうな魯坊丸ろぼうまる様を千代女さんが抑えた。


「落ち着き下さい。どうされました?」

「千代も読んでみよ。その場に信勝兄ぃがいたら殴り付けてやる」

「とにかく、落ち着いて下さい」


信勝様からの手紙は単純明快であった。


『すぐに、お市を尾張に返せ』


これだけだ?

余りにも簡素過ぎて、読み間違える余地もない。


「これをどう読めというのだ」

「それは判りましたが、床に当たっても仕方ありません」

「これを取り乱すなと言う方がおかしい。俺の努力をすべて否定された」

「落ち着き下さい」

重義しげよし、信勝兄ぃはお市に何のようがある?」

「判りません」

「それとも土田御前が倒れたのか?」

「判りません」

「織田で何が起こっておる?」

「存じ上げません」

「おまえは何しに尾張まで手紙を届けにいったのか?」

「申し訳ございません」


俺に聞かれてもまったく判らない。

何故、信勝様はお市様を尾張に戻すように言われているのだろう?

猶子を止めたいのか?

帝への拝謁も駄目にすることが恐ろしくないのか?

それとも三好の婚姻も反対なのか?

俺にはわからん。


魯坊丸ろぼうまる様、信長様と信勝様から手紙が届いたとお聞きしました」


勝介しょうすけ様が来られると、魯坊丸ろぼうまる様はさらに嫌な顔をされたが、すぐに気を取り直して、二つの手紙を見せられた。

勝介しょうすけ様も唸った。


「これは一体どういうことですか?」

「判らん。判らんが、お市を尾張に帰すことができると思うか?」

「無理でございます」

「つまり、兄上(信長)は信勝兄ぃを無視して、俺の判断に任せると言っているのかもしれないが、余りにも曖昧だ。兄上(信長)らしくない」

「となると、打てる手は1つですな」


魯坊丸ろぼうまる様と勝介しょうすけ様がこちらを向いた。


「もう一度、尾張に行って貰う」

「今すぐでございますか?」

「事は重大だ。そうでございますな。魯坊丸ろぼうまる様」

「手紙をすぐにしたためる。もう一度、兄上(信長)に確認して来てくれ。本当にお市を尾張に戻すのかと」

「朝廷はどう説明されますか?」

「公家様には今日・明日だけ返事を保留しておく、それでも返せというならば、俺も一緒に尾張に帰る。あとは知らん。わかったか、一刻を争う」

「畏まりました」


俺は再び、尾張を目指した。

真夜中から出発し、鈴鹿峠に入る前に朝になった。

夜中に鈴鹿峠越えをしなくて幸いだった。

那古野に到着したのは未の刻から申の刻 (午後3時)だった。


「愚か者が。魯坊丸ろぼうまるは何をやっておる」

「お市様を本気でお戻しになるのか聞いて来いと」

「そんな馬鹿な話があるか。考えれば、判るであろう」

「しかし、信長様が魯坊丸ろぼうまる様に任せるという手紙と同時に、信勝様からお市様の帰還命令が出されております」

「あり得ん。儂が聞いた話と違う。すぐに確認する。暫し待っておれ。長門、長門はいるか」


兄上(長門守)が末森城に確認に走った。

そして、行かれたと思うと、すぐに戻ってきた。

単純な手違いだった。

朝に出た末森の使者に、俺が追い付いてしまったらしい。

入れ違いだったのか?

お市様が猶子になった事を知らない時点の使者だった。


重義しげよし、お市様を戻しては困る。判るな。 信勝様は帰還命令を取り止められた。この手紙には改めて三好との婚姻を進めるように手紙を書かれてある。この手紙を持ってすぐに戻れ」

「兄上(長門守)!?」

「土田御前様は三好との婚儀を進めるおつもりだ。猶子、拝謁を断るなど持っての他だ。但し、信長様は婚儀に反対されておる。巧く立ち回って、話を壊せとのご命令だ」

「畏まりました」

「それから、土田御前様は三好から信勝様の妻を貰い受けるつもりだ」

「しかし、信勝様には御正室がいらっしゃいますが」

「それは離縁でもするつもりだろう?」

「それでは余りにも」

「そなたが考えることではない。話を壊しつつ、三好には信勝様との婚儀の話を進めろ」

「そんな無茶な!?」

「無茶でもやって頂く。とにかく、こちらの書状は信長様のものだ。急ぎ戻れ」


俺は土田御前様と信長様の手紙を持って戻ることになった。

4度目の鈴鹿越えだ。

しかも暗闇の中だ。

精も根も尽き果てて、昼前にやっとの思いで知恩院に戻ってきた。

目が霞む、馬から降りるのも辛い。

出迎えてくれたのは野口-政利のぐち-まさとし(平手政秀の弟)殿であった。

昨日の内に末森城から別の手紙が届いたらしい。


「これは預かっておく、大事に至らなくてよかった。魯坊丸ろぼうまる様が済まなかったと言っておいてくれと伝言を預かっている」

魯坊丸ろぼうまる様は?」

「お勉強の時間だ」

「お伝えすることがございます」

「あとにしろ。大方、想像がついておる」

「判るのですか?」

「信勝様の婚儀の話であろう。内藤様が悲鳴を上げておられる。今、会ったら、絞め殺されるぞ」

「それほどに?」

「おまえも残念だったな。昼まで知恩院でゆっくりしておけば、もう一度、尾張まで走らずに済んでおったのに、ははは」


笑いごとじゃないぞ。

では、俺は何の為にがんばったのだ?

駄目だ、考える気力もない。

燃え尽きた。真っ白に!


 ◇◇◇


10日夕方から11日早朝   京から那古野 38里 (150km)

11日午前から11日夜    那古野から京 38里 (150km)

12日深夜から12日夕方 京から那古野 38里 (150km)

12日夕方から13日昼  那古野から京 38里 (150km)

延べ、152里 (600km)を馬・舟を使って走破した。


それから3日間、岩室-重義いわむろ-しげよしは死んだように眠り続けたと言う。

起きた後に、勝介しょうすけ様に叱られた。


「一体、いつまで寝ているつもりだ!」

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