第42話 お市を心配しながら見守る信長。

天文22年 (1553年)3月9日、元関白近衛らのお風呂ご来訪を受けている頃、那古野ではお市様フィバーが発生していた。


「さぁ、さぁ、皆さんお立合い。なんとお忍びで堺に行かれたお市様は三好2万の大軍に守られて上洛されているから大変だ。それもそのハズ、竜宮より賜った七色の宝玉より神々しいお姿でお市様は畿内の大国である三好様も守らなければならないと思ったほど美しかった。 お市様が歩く先には天から光が伸び、まるで天女様のようだと京の人々が口々に言っている。さぁ、何が起こったのか? 後の詳しいことは、この『瓦版』に書いてある。一枚3文。早い者勝ちだ」

「一枚くれ!」

「そこの兄さん、男前だ!」

「俺も一枚」

「はい、はい、お待ち!」


2月末にお市が失踪した事件は完全に信長の落ち度であった。

恥も外聞もなく、捜査させたことで那古野、熱田で知らぬ者はなく、尾張中に広まることになった。

3月1日に堺に到着した岩室-重義いわむろ-しげよしはすぐに信長にお市の無事を知らせ、手紙は3月3日に信長の元に届き、お市の無事が確認できた。

それ以降、毎日のように重義しげよしから手紙が送られてきた。


3月2日、三好2万の大軍に守られて、お市は京に上洛する為に堺を出発し、野崎観音に到着する。

街道では、唐天竺の着物を召し、羽衣のような布を頭に被ると馬上にお乗りになられるお市様の姿は天を飛ぶ天女のようであった。

頭に被った羽衣が風に舞うとヒラヒラと輝いており、見ている者が拝み出すほど神々しく、皆、涙を流して感動していた。

その日は野崎で滞在される。

野崎観音をお参りされたお市様は観音様の生まれ代わりと口々に言われた。

噂はあっと言う間に河内中に広まったようだ。

翌3日、野崎観音を出発する。

街道沿いは人、人、人が溢れた。

予定通りに淀に到着する。

お市様は大きな河と沢山の船に驚かれていた。

その後、お市様は警護の三好の兵を気遣って声を掛けて回られた。

河辺に立つお市様は西湖に立つ西施のようだと三好の兵が褒め称えてくれた。

翌4日、早朝から船で対岸に渡る。

2万の大軍は河を渡るだけで時間が掛かり、出発したのが昼過ぎであった。

夕刻に勝龍寺城に到着する。

噂を聞き付けた人々が沿道に集まり、皆がお市様を一目見ようと集まっていた。

翌5日、桂川沿いを北上し、三条通りを抜けて知恩院に向かう。

京は人で溢れ返り、天女と言われるお市様を一目見ようと大勢の人が集まっていた。

花も舞い散り、お市様の来訪を喜ばれているようであった。

流石にお市様も慣れて来られて、うっすらと微笑む笑みがまた美しい。

三条通りを通った時、雲っていた空から光が割れて、お市様の通るところだけを照らし出し、その神秘さに人々は目を奪われた。

織田の上洛はこれにて大いに面目は立ちました。


その報告書を捻じ曲げて、瓦版は信長様がお市の上洛を密かに進め、三好に頼んで上洛を成功させたと書き綴った。

お市の失踪はその事実を知らない重臣が騒いでしまった失敗であり、信長様も秘密裡に進めていたので騒いだことに厳罰は行わないと温情を見せられた。

いい話にすり替えらえていた。


お市の上洛を知らせる瓦版は上洛を知らない民百姓にとって最高の娯楽となり、お市の失踪などはどうでもよくなったのだ。

信長は帰蝶の膝枕の上で太雲たうん岩室 宗順いわむろ そうじゅん)の報告を聞いて安堵の息を付いた。


「これで何とか収まったか?」

「そうでございますね。これで民や城主らは落ち着くでしょう」

「問題は信勝か」

「はい、殿(信長)の失態を責めて参りましょう」

「監督不行き届きという点では同じなのだがな」

「それをおっしゃりますと、お市が末森城より出ることを止められるでしょう」

「それはならん」


見張りを増やせば、同じことは防げる。

二度と同じことはさせない。

問題はどう信勝を言いくるめるかにあった。


太雲たうん、何かよい策はないか?」

「策ではございませんが、信長様が頭を何度か下げれば、虚栄心が満たされてお市様のことはどうでも良くなると思われます」

「あいつに頭を下げろと。忌々しい」

「では、責任を分担して、お市様を末森に閉じ込めますか?」


信長は寝返って太雲たうんから顔を逸らした。

なんだかんだと言って、お市に甘い信長であった。


「それより、魯坊丸ろぼうまるは何を企んでいるのだ?」


信長は話を逸らすことにした。

信長の元には、重義しげよし勝介しょうすけ魯坊丸ろぼうまる望月-千代女もちづき-ちよじょから送られてきた手紙と、その手紙を運んできた忍びから京の状況を聞いていた。

何でも帝の使者に悪戯をしたらしい。

信長は勝介しょうすけの怒りを憐れに思った。


「内藤の爺ぃには悪いことをした。あの三人が京で暴れていたことを先に知らせておくべきであったな。 晴嗣はるつぐ様も明けっ広げな性格をされ、魯坊丸ろぼうまるも振り回されている」

「そうでございますね。自ら京の町を巡回するなど、 晴嗣はるつぐ様は破天荒な性格の方ですから、帝の使者への悪戯もその一環でしょう」

「千代の言伝ことづてに朝廷内も織田を快く思っていない一派がいるようです。帝の使者様は、そちら側の方だったのかもしれないと言っております」

「その話が嘘の可能性もありますから、どこまで信じて良いのか判りませんよ」

「その通りでございます」


帰蝶の言う通りであった。

問題はそれではない。

室町殿(花の御所)を歩いただけで公方様が出て来られたことが信じられない。

どう考えてもあり得ない。


魯坊丸ろぼうまるは何を隠しておるのか?」

「私は 晴嗣はるつぐ様の悪戯の一環ではないかと思うのです」

「尾張に居ては判りかねます」

「儂は魯坊丸ろぼうまるが裏で何かをやっていると思うぞ」

「お市を利用するのでしょうか?」

太雲たうん、まさかと思うが、こちらの企みを魯坊丸ろぼうまるに話していないであろうな!」

「ご安心下さい。一切漏れぬようにしております。ただ、個人的にはご相談の上で実行された方がよろしいと思います」

「それはならん。どちらが殿とのか判らんであろう」

「いずれにしろ、魯坊丸ろぼうまる様はご存知ありません」

「ならばよし」


信長は清州攻略の謀略を進めていた。

それを魯坊丸ろぼうまるに知られる訳にはいかない。

信長一人で成功して意味がある。

信長は秘密を守ろうとした。


一方、魯坊丸ろぼうまるも盗賊団を退治したのが紫頭巾の剣豪としか書いておらず、それが公方様本人などと書いていなかった。

そもそも真実を書いて、それを信じて貰える訳がない。

それどころか、不要な疑惑が生まれて報告が疑わしくなる。

千代女も察して報告を上げていなかった。


ところがそれが災いした。

室町殿(花の御所)でお会いしたことは勝介しょうすけにも知らせた訳であり、隠すことができない。

さらにお市の同行が決まってしまった。

今更、言い訳もできない。

どうにもならないことを説明するだけ無駄だと魯坊丸ろぼうまるは匙を投げた。

信長は考えるのを止めた。

判らないことを考えるだけ無駄であった。


「帰蝶、明日は清州を迂回する街道の視察でも行くか?」

「よろしいので?」

「男装をするならば、同行を許す」

「ありがたき幸せ」


信長は尾張中島郡をほぼ傘下に治めることになった。

清州を迂回する美濃路を整備した。

これで清州周辺は完全に孤立することになった。

当然、荷車や行商を襲う可能性が出てきた為に、清州から半里(1.8km)の中島郡増田村に増田砦を造営して、兵300人在中させることになった。


「ところで葉栗郡と中島郡の境界辺りで河賊が徘徊しているそうです。何とかならないかと陳情が上がっております」

「またかぁ」

「どう致しましょうか?」

「南は守って、北は放置と言う訳にも行くまい」

「そうですね! では、常備軍から300人を切り放し、手持ち無沙汰ぶさたにされている林家や前田家らの皆さまに討伐に行って頂きましょう」

「そう致せ。しかし、常備軍が減り過ぎないのか?」

「ご安心下さい。鉄砲部隊など特殊な者を除けば、予科兵で補充できます」


開拓の人夫の内、足軽を希望する者は予科兵として事前に訓練を行っていた。

常備兵より練度が落ちるが、兵として十分な活躍が期待できた。


「帰蝶様、できますれば、1,000人ほど召し抱えたいと思いますが、よろしいでしょうか?」

「倉が厳しくなりますね」

「無理ならば、結構でございます」

「いいえ、雇っておきましょう。殿の策でいずれ兵が必要になるでしょう。準備しておいて損はありません」

「はっははは、すべて合わせて2,500人の常備兵か。那古野単独で5,000人も集まるではないか?」

「陣触れはお控え下さい。兵が多ければ多いほど、出費が多くなることをお忘れなく」

「判っておる。一々言うな。最近、魯坊丸ろぼうまるに似てきておるぞ」

「申し訳ございません」


明日の視察の話をしていた信長は上機嫌だったが、信勝から明日登城しろと命令が来て、急に不機嫌になった。

お市のことであろうな。

あいつに頭を下げるのは気が向かん。

振り出しに戻った。

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