参考.番外編 『お酒の話』
〔この話は、本編と関係ございません。飛ばして頂いて結構です〕
作中でお酒の話が登場するので、当時の酒事情のお話をしてみましょう。
(お酒8,000貫文の質問が多かったので、お酒の資料を乗せておきます)
戦国時代、酒は濁り酒が主流でした。
これは多くの人は知る所です。
しかし、意外と知られていないのが、『澄み酒』(清酒)は室町時代に入る頃にはもう成立していたことです。
濁り酒に灰を入れて、『澄み酒』(清酒)を作って独占販売は成立しません。
特に京都付近では不可能です。
なぜでしょうか?
・『
乳酸菌発酵の応用や木炭による濾過を使います。
(室町時代に常陸守護であった時代の記録の一つ、文和4年 (1355年)か、長享4年 (1489年))
・『多聞院日記』にも今日の「三段仕込み」の原型となる手法や、諸白造り、火入れ、乳酸菌発酵などといった現代の日本酒造りでも用いられている方法が数多く記述されていたのです。
(文明10年(1478年)から元和4年(1618年))
では、酒の価格を見てみましょう。
米一石 1000文 (一貫文) 6万円 <天文九年 (1540年)>
(米一石 1667文 <永禄十年(1567年)>)
炭 1荷 200文 1万2000円
砂糖1斤 144文 8640円
お茶1斤 60文 3600円
塩1升 10~12文 600~720円<天文十九年 (1550年)>
濁り酒1升 10~20文 600~1,200円<天文十九年 (1550年)>
(酒1升 70文 4200円)
大工一日(京都)100文 (大工は高給取りです)
鍛冶職人(小田原)50文
関所の税金(人) 10文
関所の税金(馬) 5文
刀 12貫文
火縄銃 20~65貫文
銭湯 1文
(この銭湯、どこの文献なのでしょうか?)
※.いずれにしろ、価格には地域・時期によってばらつきがあります。
〔京は物価も高く、宮大工はさらに高く、100文となっております。尾張の大工ならば、35文くらいが妥当なのでしょう〕
濁り酒1升 10~20文として話を進めております。
濁り酒に対して、
尾張で澄み酒(清酒)1升100文(6000円)の定価です。
1升10~20文の酒を1升100文で売る。
暴利ですね!
これは伊勢衆が買っても、美濃衆が買って、京衆が買っても、堺衆が買っても、敦賀衆が買っても1升100文です。
美濃衆・伊勢衆はこれを200文で売っています。
京衆・堺衆・敦賀衆はこれを500文で売っています。
送料が掛かっているので当然です。
では、この澄み酒1升500文(3万円)が高いかと言えば、そうでありません。
天野酒、菩提酒など僧侶たちが売っている僧坊酒は、超プレミアム酒です。
太閤秀吉にも愛好されたお酒です。
奈良では、10石(1,800リットル)が入る仕込み桶が開発された
資料に価格は出て来ないので、贈答品用だったと推測されます。
おそらく1升一貫文以上の価値だったと推測されます。
数が稀少なので当然でした。
つまり、そこに半額以下の尾張酒が割り込んできた訳です。
京衆・堺衆を通じて250~400文で購入し、500~800文で転売すると尾張の酒を右から左に回すだけで銭が入ってくる。
僧侶達も桶買い業でうはうは状態だった訳ですね!
尾張で儲かる。商人が儲かる。僧侶も儲かる。皆で儲けるなのです。
さて、京周辺でどれくらいの酒が消費されたのでしょうか?
室町幕府が京の酒屋に対して課税した酒屋役が年間6,000貫文だったと記録されています。
税は壺1つに付き200文です。
甕の大きさが高さ80センチ、胴周りの直径が80センチで、だいたい250リットルのお酒が入る大きさだったと記録されております。
おそらく、この甕が壺1つの事だと思われます。
年間6,000貫文 ÷ 200文 = 3万甕
3万甕は750万リットル(417万升)になります。
つまり、京の酒屋が売っていた酒の量は750万リットル(417万升)です。
これが京周辺の消費量です。
仮に尾張の澄み酒 (清酒)が1%の消費に食い込んだとすると、7.5万リットル(4.2万升)です。
尾張の儲けは、1升当たり80文ですから、3360貫文となる訳です。
これはあくまで京周辺で売る酒から上がってくる儲けです。
1石の米からできる酒の量は180リットル (100升)です。
1万石で18万リットル (100万升)、8万貫文の儲けになります。
(作中38話当たり、尾張ではこの程度の酒を生産し、お酒だけでこれだけ稼いでいます。ほとんどが設備投資・土木工事と那古野・末森の懐に消えています)
魯坊丸のスローガンは、『目指せ、10万石』です。
えっ、10万石って、180万(1,000万升)リットルで80万貫文ですよ。
灘の酒造メーカーがピーク時に出荷した酒の量が170万リットルです。
どこかで聞いた『目標、1327店!』と勘違いしているのではないでしょうか?
無茶な話です。
なお、魯坊丸は各地の酒屋をいくつか傘下に治めているので、魯坊丸の手取りは別財布があり、尾張の帳面以上に持っていたりします。
尾張以外の取り分は丸々が魯坊丸の懐に入っている訳です。
◇◇◇
焼酎・蒸留酒はどうなのでしょうか?
なんと16世紀には焼酎という蒸留酒が南方諸国より伝播して九州南部に広まっていたのです。
天文3年 (1534年)には、南蛮酒として泡盛の『清烈而芳』が酒市場に入ってきます。
しかし、天文21年 (1552年)、フランシスコ・ザビエルが京に入洛しましたが、帝・将軍のどちらにも会うことができません。その年、上司に当てた手紙に『酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、その量は少なくして価は高し』と書かれています。
堺には天文21年 (1552年)の時点で南蛮酒が入って来ていないことが判ります。
九州などでは16世紀(1500年代)半ばには蒸留の技術が琉球から九州に伝えられ、焼酎が造られはじめ、これらも芋酒(いもざけ)などとしていち早く当時の酒の中央市場であった京都に入っているとも書かれています。
つまり、天文21年 (1552年)の時点で芋焼酎が造られ、永禄年間には入ってきたのではないかと推測できるのです。
南蛮酒として古酒(くーす)と称される琉球泡盛や、桑酒、生姜酒、
(名前だけで、どんな酒が想像もできません)
とにかく、天文22年 (1553年)、お酒のルネッサンスは間近に迫っていたのです。
第2章では、魯坊丸の苦悩は思わぬ所から始めるのです。
〔予告でした〕
◇◇◇
尾張の酒サイクル。
澄み酒(清酒)はどうしても冬に造ることになります。
その為に夏は焼酎を造っています。
麦と米を中心に、粟や稗なども試していました。
後から入ってきた芋で芋焼酎にもチャレンジも成功しています。
よく芋が入ってきたな~と魯坊丸も感動しています。
サツマイモでなかったのが残念ですね!
それでも冷害対策になります。
でも、九州では芋焼酎が造られはじめているのですから、入って来ても不思議ではなかったのです。
失敗した焼酎は蒸留酒行きです。
成功した麦焼酎も寝かして黄金色になるのも待ちます。
当時は黄金色の酒が好まれていました。
魯坊丸は大きな勘違いをしていました。
澄み酒は日本でまだ造られていない。
焼酎もどこも造られていない。
ともかく、
焼酎を販売しなかったのは消毒用のアルコールを確保したい為でした。
つまり、蒸留酒を優先したのです。
焼酎の生産も増え、こうして遂に解禁の時がきました。
3年物の焼酎です。
熱田と津島では、
冬は澄み酒 (清酒)。
夏は焼酎。
が造られていたのです。
これが尾張の酒のサイクルです。
醸造所は毎年のように倍・倍で拡張され、造られた酒はすべて新しく建った土倉に納められてゆく。
5年前は小さな酒倉しかありませんでした。
わずか5年です。
4年前、50石、9,000リットル(5000升)。400貫文でちょっとおこづかい。
(365日で割ると1日1升が14本分、250リットル甕が36甕のみ)
3年前、200石、3万6,000リットル(2万升)。1,600貫文で、えっ!
(1,800リットルの木樽で製造開始、20桶)<津島も参入>
2年前、1000石、18万リットル(10万升)。8,000貫文で、洒落にならい。
(1,800リットルの木樽で100桶)
去年、5000石、90万リットル(50万升)。4万貫文で、もう我を忘れた。
(1,800リットルの木樽で500桶)
今年、1万石、180万リットル(100万升)。8万貫文で、魯坊丸は神に!
(1,800リットルの木樽で、遂に1,000桶だ)
来年は酒が2万石で360万リットル (200万升)と、焼酎も2万石で360万リットル (200万升)を造るぞ!
(1,800リットルの木樽で、2,000桶に挑戦だ!)
焼酎・蒸留酒も解禁だ!
儲けが倍か、3倍か、それ以上か、想像がつかん!
わははは、笑いが止まりません。
儲けた金をすべて投資に回します。
熱田も津島もいけいけゴーゴーの『ジュリアナ東京』状態です。
魯坊丸は果たして大丈夫なのでしょうか?
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