閑話.がんばれ、お市ちゃんの大冒険(4)

天文22年 (1553年)2月29日早朝、新宮湊を出発した織田の船団は朝方に潮岬しおのみさきを越えて進路を北西に変えると、追い風に押されて紀伊水道を上って紀伊湊に入った。

「がははは、坊主みたいに元気だったせいか、織田の姫様は海の神様にも愛されたか?」

女子おなご同士、仲良くするのが一番じゃ」

「違いねえ」

氏虎うじとら、案内ご苦労であったのじゃ」

「帰りも船を使うときはよろしく頼む」

「頼まれた」


役目を終えて、水先案内人の(堀内)氏虎うじとらは酒を呑んで無事を喜んだ。

一日で紀伊湊まで来られるのは一年でも滅多にないそうだ。

紀伊湊は吉野川(紀ノ川)の下流域にある。

都が京に移ってからは廃れた所があるが、それでも大和の国の物流を一手に担う。

蛇行して氾濫を繰り返す大和川を利用するより、ほぼまっすぐに伸びた吉野川(紀ノ川)は物流に適していた。

高野山も近く、寺院が多く立っている。

畿内への入口が堺ならば、南海(土佐)・東海(伊勢)への入口は紀伊湊であった。

ここで氏虎うじとらとは別れ、船団は紀淡海峡きたんかいきょうを抜けて堺に入る。

予定より1日早い30日の到着であった。


お市の目に堺が映る。

堺湊は熱田と同じくらい栄えていた。

多くの船が泊まっている風景はお市にとって見慣れたものであったが、変わった服装の者が湊に多くおり、見えて興味は尽きない。

だが、すぐには上陸の許可がおりない。

忠貞たださだは使いを出して、織田の第二陣の到着を知らせた。


「お市様、上陸の許可が下りました。お待たせして申し訳ございません」

「急ぐ必要はない。わらわはのぶ兄じゃの命を待つ身じゃ。この船に乗って帰らねばならんかもしれん」

「ですが、そうでないかもしれません」

忠貞たださだ、わらわは京まで行ってみたいのじゃ」

「何ともお答えはできません。急ぎ話し合いたいことがあるそうです。納屋-宗次のうや-そうじの別宅へ移動します」

「先遣隊の責任者は誰じゃ?」

「熱田大宮司の千秋-季光せんしゅう-すえみつ様の舅殿、浅井-高政あさい-たかまさ殿であります」

「覚えておるぞ。では、行くとするか」


お市は忠貞たださだに守られて堺の町の中を進んだ。


 ◇◇◇

(時は少し戻り)


天文22年 (1553年)2月28日、お市の密航に驚いた忠貞たださだはすぐに信長に手紙を書き、手紙を預かった小者は大湊に戻る船に乗せて貰った。

船は日が暮れる前に大湊に到着し、翌朝早くに早馬に乗って那古野を目指した。

一方、信長は大湊でお市の所在を確かめられず、お市の所在はようとして知れない。

焦る信長、29日の昼前に忠貞たださだの手紙が届いて、やっと胸を撫で下ろした。


「お市め、心配を掛けおって」

「とにかく、無事でよろしゅうございました」

「迎えをすぐに送らねばならん」

「どなたを送り出しますか? 安全を考えるなら乗った船で戻ってくるのが一番安全と思われますが、竹内・大和街道を通って戻すならば、それなりの兵を送らねばなりません」


信長は常備軍を持っており、その一部を動かせば問題はなかった。

だが、信長は決断を渋った。

上洛の兵500人は熱田で加世者を集めた傭兵であり、信長の兵が減る訳ではない。

しかし、上洛に随行する若侍50人とその連れを含める200人と、さらに熱田から献上の荷を運ぶ者40人と小者も含めると120人も減っていた。

魯坊丸ろぼうまるの兵である黒鍬衆100人も随行する。

戦える者が400人余りも那古野から減る。


信長は常備軍を持つようになって戦える兵と水増しの兵の違いを実感していた。

戦える兵をこれ以上、那古野から減らすのを嫌った。


「では、堺で傭兵を集め、護衛に使いますか?」

「傭兵など、劣勢になれば逃げてしまう。当てにできないわ」

「困りました。迎えに行かせる者がいませんわ」


答えは最初から決まっていた。

お市を守っている熱田衆60人を使ってお市を京まで届け、魯坊丸ろぼうまるに命じて京より那古野まで無事に届けさせる。

ただ、不穏になっている京に連れていってよいのか?

その一点であった。

船に乗せて帰らせるとしても最低でも10人くらいを堺に派遣する必要がある。


「帰蝶、堺の予定はどうなっておる」

「まず、先遣隊の20人は一ヶ月前に出港し、すでに堺におります。傭兵500人を護衛として献上品を運びます。3月2日に堺を出発し、5日に入京して知恩院に至ります」


堺から生駒山地の麓を走る東高野街道を使って北上する。

東高野街道とは京と高野山を結ぶ街道だ。

飯盛山付近から東に進路が変わり、淀川上流の淀に繋がっている。

淀(山崎)は桂川、宇治川(淀川)、木津川の合流する所だ。

そこで河を渡河して山崎に移り、西国街道を通って右京の勝龍寺で一泊してから京に至る。

先遣隊の浅井-高政あさい-たかまさも、後続隊の忠貞たださだも同じルートを通る。


「であるか。それでお市の方はどうなっているのか?」

「天候次第でございますが、忠貞たださだ殿の船団は3月2日に堺に入港予定です。そこから荷を降ろして5日に堺を出発し、8日に京に入ることになっております」

「天候次第か?」

「4、5日は遅れても問題ないように急ぎの品は積んでおりません」

「人を割く余裕はあると思うか?」

「傭兵500人を20人の若侍衆で捌くのです。余裕があるとお思いですか?」


上洛組の要には老練な者を置いているが、経験を積ませる為に若侍を中心に構成していた。

若侍に二人の小者を付けてあるが所詮は小者である。

信長は林家や内藤家から人を借りて、送るべきだったかとも考えた。

だが、熱田衆は異質な存在だ。

とても林家や内藤家の者が捌ける気がしない。

かと言って、鳴海・笠寺の今川方の動きを察すると、熱田衆の重鎮を動かすのも拙かった。

熱田・津島は信長の生命線だ。

手薄にできない。


「是非もなし。魯坊丸ろぼうまるに伝えよ。お市を無事に那古野まで届けよと」

「畏まりました。で、堺の方はどう致しましょう。手紙のみならば、息子の重義しげよし(長門守、岩室-重休いわむろ-しげやすの弟)でも十分と思いますが、いかがいたしましょうか」

「犬(前田-利家まえだ-としいえ)、弥三郎(加藤-弥三郎かとう-やさぶろう)、お市の護衛を命ずる。一時たりとも離れるな」

「承知致しました」

「お任せ下さいませ」


前田-利家まえだ-としいえは前田家の四男であり、『槍の又左』と呼ばれるほどの使いてであり、昨年の戦で首一つを取って手柄を上げた。

信長が連れ歩いたゴロツキの三・四男の一人で信長に懐いていた。

本人が『俺は信長様の小姓で側近だ!』と言っているが、あくまで自称である。

すでに、前田家の五男である良之よしゆき佐脇さわき家に養子に出され、信長の小姓として仕えて、『藤八、藤八』と可愛がられていた。

さらに言えば、前田家の家督も持たない利家としいえを小姓に上げる訳もない。

そもそも前田家から何人も出すのははばかれる。

しかし、去年の戦で手柄を立てて、晴れて近習衆に取り立てられたのだ。

お市を守る為の腕だけは確かだった。


弥三郎は加藤家の次男で信長の小姓として使え、近習衆に取り立てられた。

信長の信頼が厚く、また、加藤家は熱田衆と仲が良いので巧く立ち回ってくれると期待した。


「信長様、お市様から一時も離れないのでございますか?」

「そうだ、お市から目を離すな」

「判りました。この犬千代、お市様から一時たりとも離れません。たとえ寝所であろうと、厠であろうと、離れることは致しません」

「阿呆か!」


すっと扇子を腰から抜き取って、利家としいえに投げつけた。

利家としいえの額に当たった。

えっ、何故、俺は怒られているの?

利家としいえは目を丸くしてそんな顔をする。


「まさかと思うが、お市に懸想けそうしているのではあるまいな」


信長は立ち上がって怒りを露わにする。

利家としいえは慌てた?

えええっ、怒られている。

何故だ?

利家としいえは信長が怒る理由が思い付かない。


「お待ち下さい」

「ここで刀の錆にしてくれようか?」

「お市様に懸想するなどございません」

「何故だ?」

「某には心に決めた女子おなごがおります。従兄妹いとこのおまつでございます。その愛らしさは目に入れてもいたないほどでございます。おまつが微笑むと荒れた心も草原の青空のように晴れ晴れとし、おまつが悲しむと胸が張り裂けそうに苦しくなるのでございます」


言葉少ない利家としいえが急に饒舌じょうぜつになった。

しかも、それが止まらない。

誰も利家としいえとおまつがどこに行ったとか、何を見たとかなど聞きたくない。

横で聞いていた帰蝶は複雑な顔をして声を掛けた。


「よく判りました。とにかく、お市に懸想はしていないようです。ところでわたくしはおまつに会ったことがないのですが、どこかに預けられているのですか?」


女性には女性の付き合いがある。

各城主や土豪の奥方を時々にお招きして話などを聞いている。

そこに娘達も連れて来られる。

前田家の従兄妹なら登城していても不思議ではない。

だが、帰蝶はまだ会ったことがない。


「いいえ、前田家で預かっております」

「そうなのですか? お体が悪いのかしら? お茶会でも顔を見た記憶がないのですが?」

「ははは、当然でございます。おまつはまだ7つ。登城させる年ではございません」


帰蝶はこめかみを押さえた。

おまつは7歳、前田-利家まえだ-としいえは16歳だ。

7つのおまつを生涯の伴侶と言い切った。

忠犬の利家としいえは色々と残念なお方であった。


「ともかく、寝所は別室で控えなさい」

「別室でございますか?」

「廊下でも構いません」

「承知」

「厠に付いて行くのは止めなさい」

「決して、厠には付いてゆきません」

「お風呂もですよ」

「判りもうした?」


何故、駄目なのかが判らないという顔に帰蝶も不安が募る。

あとは何を忠告すべきかと首を捻った。

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