第15話 お市の襲撃。

「信兄じゃ、遅いのじゃ」


仁王立ちするお市が那古野城の城門で信長を出迎えた。

鬼のように腕を組んで信長を睨みつけていたが、信長の顔はにんまりとデレていた。

儂にお市が会いに来てくれた。

きりっとしていれば、雅な宮人のように男前なのに鼻を伸ばすとダラしなく見えた。

それでも先ほどまで眉を吊り上げて怒っている信長よりマシであった。

そんなお市と信長の顔をきょろきょろとして見ているお市の女中が困り顔でおろおろとするが印象的だった。

お市の気まぐれは今にはじまったことではない。

困った奴めと笑いながら信長は馬から降りて駆け寄っていった。


「お市、いかがいたした」

「朝から待っていたのじゃ、どうしていなくなってしまうのじゃ」

「すまん。すまん。朝駆けに行っておった」

「お市が来るときは、朝駆けは禁止じゃ」

「心しておこう。ここは寒い。さぁ、中に入ろう。甘酒を用意させておる」

「なんじゃと。やはり、信兄じゃは優しいのぉ」

「ははは、当然だ」


可愛いお市の為なら多少のことは目をつむる。

先ほどまで不機嫌さは飛んでゆく、二人仲良く手を繋いで城内に入ってゆく。

城主の威厳もあったものでない。

まるで愛娘に破顔する父親のようだった。


「温かくて美味しいのじゃ」

「そうであろう。いつでも遊びに来てよいのだぞ。向こうでは虐められておらぬか?」

「そうじゃ、その話をしに来たのじゃ」

「なんだと」


信長の顔色が変わった。

可愛いお市を虐めた奴がいるだと、これは生かしておけん。

虐められたか。


「誰か、魯坊丸ろぼうまるを呼びつけろ」

「直ちに」

「弟だからと甘くみていたが、お市を虐めたとあっては魯坊丸ろぼうまるを手打ちにしてくれよう」

「信兄じゃ、なぜ、魯兄じゃを手打ちにするのじゃ?」

「虐められたのであろう。中根南城で起こったことは彼奴の責任だ。責任者の首を狩って何が悪い」

「責任者は信兄じゃ。信兄じゃは責任を取って首を切るのか?」

「儂が責任者じゃと」

「そうじゃ、平手のお爺に虐められた。平手のお爺を手打ちにせねばならん」

「あらあら、随分とぶっそうな話をしているのね」

「帰姉じゃじゃ」


信長が帰城したというのに、一向に戻って来ない。

お市と一緒に賄い所に向かったと聞いてやって来たのだ。

すると、二人で「手打ちにする」、「手打ちにする」と騒いでいる。

まるで子供がじゃれ合っているようであった。


「お市、何があったのです?」

「平手の爺が意地悪をするのじゃ」

「意地悪ですか」

「お市を一緒に京に連れて行ってくれんのじゃ」


帰蝶は目を丸くした。

それは無理だ。

お市を京に連れてゆくなど、平手で無くとも駄目だと言う。


「信兄じゃは平手の爺の殿であろう。信兄じゃから言って欲しいのじゃ。市を京に連れてたもれと」

「そ、そ、それは駄目だ」

「どうしてじゃ」

「京は危険だ」

「魯兄じゃがいるから大丈夫じゃ」

「彼奴も小さい」

「大丈夫じゃ。昨日も怪し奴をエイヤーとやっつけたのじゃ」

「彼奴がか?」

「加藤という家臣じゃ。魯兄じゃの家臣はとても強いから大丈夫なのじゃ」


信長は目を瞑り、唸ってしまった。

悪童あくとうめ、お市を危ないところに置いて何をやっているのだ。

これは問い詰めねばならんぞ。


「信兄じゃ、お願いじゃ。お市を京に連れてたもれ」

「判った。儂が上洛するときに連れて行ってやろう」

「ホントか、いつじゃ」

「…………」

「いつ行くのじゃ」

「ら、らいねんかな~?」


信長は自信なさげに帰蝶の方に尋ねた。

帰蝶の頭の中で、山城の会見、信友の暴発、信光の策略、清州陥落、さらに、清州移転を描いてゆく。


「もっとも早くとも来年の秋以降でございますね」

「やはり、そうなるか」

「もっと早くならんのか?」

「帰蝶はどう思う」

「すべてを後回しにしても来年の正月でございますね」

「遅いのじゃ! 魯兄じゃは今年行くのじゃ。お市も一緒に行くのじゃ」

「そんなに彼奴と行きたいのか」

「うん、お市は魯兄じゃと行きたい」

「儂よりもか!」

「う~~~~んと、魯兄じゃの方がいいのじゃ」

「なんだ~~~と!」


信長のデカい声が賄い所中に響いた。

ショックだった。

お市は絶対に儂の方が好きと信じていただけに心が折れたような気がした。


「駄目だ、駄目だ、駄目だ、絶対に行かさん」

「どうしてじゃ」

「お市を心配してだ。彼奴に任せられん。何と言おうと、駄目なものは駄目だ」

「お市が頼んでも駄目なのか?」

「お市、許せ」


お市が悲しそうな顔をした。

うぅぅぅ、声を唸らせて、着物の裾をぎゅうと握りしめて、今にも泣き出そうであった。

でも、何か必死に我慢しているのが伝わってくる。

信長は胸を締め付けられる思いで、思わず、声を掛けたくなる。

うるうるとした目が信長を見つめる。

だが、駄目だ。

悪童あくとうと一緒に行かすことができない。

さらに、お市がふるふると震え出した。

抱きしめてやりたい。

だが、信長は目を閉じて横を向いた。


「信兄じゃなんて、大嫌いじゃ」


お市はそう叫ぶと、賄い所から出ていった。

女中が追い駆けて、外で待っていた侍二人もあとを付いてゆく。

信長の胸は破裂しそうだ。


「お市ぃ~、お市ぃ~、お市ぃ~!」

「信長様、情けない声を上げないで下さい」

「帰蝶、この悔しさが判るか」

「はい、はい、承知しております」


帰蝶が布巾を出して、チーンとした。

お優しいのはいいが、こういう優しさはどうだろうと帰蝶も思う。

情けない顔であった。


「しっかりなさいませ、織田を預かっているのはどなたですか」

「すまない」

「どうせ子供のことです。次にあめ玉でも持っていけばよろしい」

「そうか、そうする」

「では、為すべきことを致しましょう」


そう言われると信長は床をばんばんと何度か踏み付けるとごろりと転がった。

騒ぐだけ騒いですっきりしたようで顔がきりりと引き締まると、信長の視線はどこか遠くを見据えていた。

帰蝶はそんな信長を見てにっこりとした。


「帰蝶、膝」

「ここで、でございますか?」

「拙いか」

「いいえ、判りました」


帰蝶は信長の横に腰かけると膝枕を作る。

賄いの方々は目のやり場に困っているが、仕方ないと帰蝶は諦めた。

信長はもう思考の彼方だ。

しばらく、ぶつぶつ呟きながら右を向いたり、左を向いたりと寝返りを打つ。

そして、考えがまとまり出すと帰蝶を見上げた。


「帰蝶よ。儂は彼奴より劣るか?」

「さぁ、どうでしょう。魯坊丸ろぼうまるは可愛いと思いますが、殿には敵いません」

「どういう意味だ」

「ふふふ、どういう意味でしょうね。ですが、人懐っこい、人見知りしない 、親しみ深いという点で、殿を凌駕していると思います」

「そうか、儂が負けておるか」

「はい、今の所、負けております」

「今の所か?」

「今の所」

「ふふふ、濃はキツい女であったか」

「期待しております」

「善処するしかあるまい」

「それ以外と申しますと、知恵の方は勝ったり、負けたりではないでしょうか?」

「儂より奇妙な奴だぞ」

「殿も負けておりません」


ふふふ、信長が不敵に笑うと、がばっと立ち上がった。

そして、廊下を通って部屋に戻る。

部屋に入ると目付・用心・近習の者を集めさせた。

信長の横に帰蝶と長門守が腰かけている。

政務・家事を取り仕切る役方のトップは平手 政秀ひらて まさひでにしたが、あくまで形式であり、実務の目付・用心は役方代の帰蝶が取り仕切る。

裏方のトップは岩室長門守に命じており、側用人・近習を従えている。


「皆に問いたい。魯坊丸ろぼうまるに命じられたままで、座して木の実が落ちてくるのを待つをよしとするか?」


この問いの真の意味に答えられるのは、帰蝶と長門守しかいない。

しかし、目付・用心・近習の者は薄々感じていた。

那古野の中枢を支えているのは、中根城より派遣されている中小姓達だ。

建設・経理・武器・消耗品の管理。

目付・用心・近習を助けてくれる補佐役を担っていた。

中小姓達なしで那古野は動かない。

つまり、那古野が動けば、必ず魯坊丸ろぼうまるに知れる。


「儂は自らの手で守護様をお助けし、清州を落とさねばならぬ。君主として弟に支えられなければ、一人で立てないとは、兄としての沽券に関わる。言っている意味が判るか」


目付・用心・近習達が一斉に何も言わずに頭を下げた。

中小姓達なしで回らない。

しかし、一人でヤレというのは無理であった。


「判っておる。今すぐとは言わん。可能な限り、一人でできるようになれ、いずれ独り立ちして貰わねばならぬ。儂に恥をかかせるな」

「畏まってございます。必ず、一人でできるようになりまする」


筆頭が頭を下げると、他の者達も「必ずや」と言って頭を下げた。

これで少しずつだが、那古野の実情が魯坊丸ろぼうまるに知れることを防ぐことができる。

あとは軍議に関わる者を残し、他の者を下げた。

そして、信長は小さな声で言った。


「儂は単独で清州を攻略したいと思っておる。力を貸して欲しい」


ささやかな独立宣言であった。

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