レシピのメモ

 政府管轄の食品部での仕事を終えるころ、雨はもう止んでいた。

 郊外の街であるが、繁華街は夕方になれば人通りは激しく、よく注意していなければ、すれ違う人と肩がぶつかってしまいそうだ。

 ふと、前を歩くスーツ姿で帽子を被っている老いたの男性がズボンのポケットからメモ用紙のようなものを落としたことに気が付いた。私はその雨上がりの地面に落ちて濡れた紙を拾い、罪悪感はありつつもその中身をチラリと覗き見た。そこには『カレーの作り方』と書いてあって手のひらサイズの紙に細かく書かれていた。おそらくは料理の手順書のようなものではないかということが分かった。

 料理は食罪という罪に分類される。現在の日本では犯罪を見かけた場合、速やかに政府警察への通報が義務付けられている。本来なら、私も迷わず政府警察へと通報しなければならない。もし、通報をせず後にこれらの行為が事件にまで発展した場合、私は必ず厳しい処罰が待っている。過料で済めばよいのだが、それ以上に厳しい罰があるのだという噂も耳にしたことがある。特に、食罪に関係する罰は厳しいのだ。

 すぐに通報するべきか否か、もう一度考えた後、私はこの料理手順書を落とした六十歳前後の男性を尾行することにした。もちろん、男性を見逃すためではなく、この国の定めた法律を守るためである。今の暮らしがあるのは偉大なるジョン・スミスのおかげ、貧富の差が著しかった前時代よりも、今日では貧富の差はやはりあるもののごくわずかだ。そのジョンが作った法律を守るために私は、男性を尾行し、そして重大な食罪を見つけ政府警察に通報するのだ。しかし、小説に出てきた料理が目の前に現れるかもしれないと考えたら、ほんの少しだけあのころのような好奇心を取り戻した気がした。

 男性繁華街の駅からは電車に乗ることはなく、どこかに寄り道することなく、徒歩で少し離れた住宅街へとたどり着いた。おそらくこのあたりに彼の家があるのだと推測できる。私は決して尾行を悟られないように、ときには物陰に隠れ、ときには持っていた端末で誰かと通話する振りをしてたまたま同じ方向へ帰っているかのように装った。そして、気づかれることなく男性を尾行した結果、ついに料理の手順書のようなものを持った男性の向かっていた目的地を突き止めたのだ。

 周りのマンションと変わらないごく普通の鉄筋造りの建物。しかし、そこはよく見ると様々な店舗が入り交じる雑居ビルの様だった。男性は建物の中に入ると上の階に上るためのエレベーターを狭いホールで待っているようだ。

 私は男性がエレベーターに乗り込み完全にドアが閉まるのを待ってから、ホールに飛び込んだ。エレベーターがどこの階に止まるのか確認するためだ。エレベーターは四階で止まるとしばらくそのまま静止していた。そして、私はエレベーターを一階に呼びつけ、男性と同じく四階を目指す。この目で重大な罪を見定めるのだ。

 エレベーターはぴんぽーんという間抜けな音を出して、私をエレベーターホールへと迎えに来た。そして、乗り込み、四階のボタンを押すと上昇を始める。またしても間抜けな音を出して、私は雑居ビルの四階へとたどり着いたのだ。

 さて、どうしたものか。目の前の廊下は清潔ではあるが大分古い造りのように思えた。細い廊下の両脇にはいくつかの部屋があって、一番奥の部屋だけに明かりがついてきた。きっとあの部屋に罪の秘密があるのだ、と思った。

 足音を立てないように、ゆっくりと歩いた。決して気づかれないように小窓の付いた扉まで近づいて中を覗き込んだ。

 私は目にした。先ほどまで私が尾行していた老人はスーツの上にまるで医者のような白衣を着ている。しかし、それが白衣ではないのだとわかった。白衣にしては面積が少なく、身体のほぼ前だけに掛かっている。そうか、あれは料理をするときにスーツが汚れないようにする防具のようなものなのだ。私が普段働いている食品部でも衛生面に配慮をした殺菌スプレーを身体に吹き付けるが、それと似たような役割を果たすのだろう。老人の着ている白というのは汚れが一目でわかるのだ。

 もう一度、上着のポケットにしまっているメモを確認する。料理とはどういうものなのか、実際に見たことがないのだが、このメモは料理手順書なのではないかと思う。

 ドアノブに手をかけ、ふう、と自身を落ち着かせるために息を吐く。まだ老人は訪問者に気が付いていない。

 そして、私は親切な人を装い部屋の中へと入っていく。「すいません、道端でこれを拾いましてね。丁度、電車の駅前あたりです」突然の訪問者に驚いたのか、老人、それと廊下からではは死角になって確認できなかったほかの三人が私の入ってきたドアの方に作業をやめ注意を向ける。

 僕も含めた五人に緊張が走った。こうなることを恐れて誰かが僕に銃を向ければ、それか襲い掛かってきたのならそれで僕はおしまいだ。食罪を侵しているといういしきがあるのならば、いざというときのためにそれくらいの準備はしておくべきだ。

 しかし、そうはならなかった。 

 部屋の中には物が焼けているような臭いがした。しかし、物が燃える時に発する嫌な臭いではなく、不快感もなかった。

「これはどうも御親切に。でも、どうしてその場で教えてくださらなかったのですか」

 人あたりのよい声の老人は言った。

「私は貴方が落としたこのメモを見た瞬間、閃いたんですよ。これはきっと料理の手順書ではないかってね。直感です。でも、政府が完全なる食事を配給している、今この時代に前時代の料理をしているなんて人がいたとしたら」私はそこで言葉を区切って、老人とそのほか三人の顔を伺った。料理という食罪を犯している罪悪感を抱く者がいないかどうか。そんな者はここにはいないのだとわかってから言葉を続ける。

「私もぜひその料理というモノを見てみたいと。つまり興味です」

「ああ、そういうことでしたか」

 老人はそう言って私からメモを受け取った。

「よろしければ、貴方も一緒にどうですか。ねえ、先生」

 三人組のうちの一人、二十代前半くらいの女性が言った。先生、と言われたのはもう一人の老人だ。それからほかの二人、若い痩身の男性と老いた小太りの男性も女性の意見に頷いたので賛成の様だった。若い方の男性は私と同じ三十代前半くらいで黒縁の眼鏡を掛けている。それともう少し年上の男性は冴えない顔つきをしており、歳は四十代後半のように見える。

「ということですがどうでしょうか。メモを届けてくれたお礼に貴方も料理教室に参加してみては」

「はい、喜んで。ありがとうございます」

 この老人は確かに今、料理という言葉を口にした。それに加えて、教室ということはここでは料理を教えているのだ。なんて悪い人なのだろうか、すぐに政府警察に逮捕しなければならないと思ったが、純粋な料理絵の興味が勝ってしまった。今日の帰り道には必ず政府警察署に寄り、ここで見たことを通報しようと自分に言い聞かせた。ジョン・スミスは今も僕の行いを見ているかもしれない。 

 もしここに料理があるというのなら、今からここで体験しようとしている私も同罪ということになるかもしれないが、この場にいる私以外の人たちは明らかに常習性があるので、料理のせいで気が狂って妄言を吐いているのだと言おうと決めた。もちろん、料理をすると気が狂うなんて副作用がないのは知っている。前時代は、誰もが料理することができていたし、それが日常だった。しかし、今日では小説での話を含め前時代の生活に興味を持つ者は少ない。政府警察の者ならば尚更少ない。料理は罪であるのだと信じているから。きっと私の証言を信じるに違いない。

 私は老人も着ていたエプロンという防具を借りた。エプロンというのは先ほどドアの小窓から覗いていた時に白衣に見えた衣服を保護するための衣服のことだ。



 三人組に加わり、拾ったメモの料理手順書通りに私たちはカレーを作った。人工のではない本物の肉と野菜。それから複数のスパイスという調味料を用いて、メモに書いてあることや老人の教えを頼りにやっとの思いでカレーを作った。これで私は調理罪を犯したことになる。ジョンの教えに背いた。

 出来上がったカレーを器に移し、私たちはその味見をした。普段食べているゼリー食の甘味、酸味、塩味、苦味、うま味それから無味のどれにも該当しない。強いていうのなら塩味とうま味に近い味がする、しかし、カレーという料理は政府が定めている基本五味プラス無味のどれにも該当しない。食材で味を改変したのだ。これで私は調味罪を犯したことになる。

「おいしい」と素直に私は言った。普段食べているゼリー食よりはるかにおいしいのだ。カレーにはゼリーにはない食感がある。

「ひとつ、良いでしょうか」私は老人に向かい合った。「これほどまでに素晴らしい食材、つまり、人工ではない本物の肉や野菜はどうやって手に入れているのですか」

「ああ、それはね。契約をしているんだ」

 老人は優しい声で言った。

 料理がほとんどされなくなった今日でも、ごく少数の人がこうして老人のように料理をすることを好む人がいるのだという。そういった人々のために市街地から離れて暮らす貧民層の人々が暮らす地区の一角、所謂、スラム街の住民が自然の食材を作り、料理で必要とする人に販売しているというのだ。

 スラム街の人々にも政府からゼリー食は配給されているのだが、彼らにはこれといった仕事がない。仕事がなければ十分な収入がなく、身に着ける衣服は短いローテーションで回るのでその結果、ボロ切れになりやすい。そうした人たちを不衛生だと名指しして、富裕層の人々は近づこうとしない。貧富の差は決して、縮まることはなく、寧ろ広がっているのだ。

 あるとき政府は、偉大なるジョン・スミスは考えた。スラム街に住む人々を数に入れなければ、食糧はさらに長持ちするのではないか。そうすれば当面の食糧難には見舞われることは無くなるだろう。しばらくして、ジョンはこっそりとスラム街にいる人々を連れ出すように近衛兵に命令しているという。スラム街から連れ去られた人は、処刑されたとか、戦争をさせるための兵士になったとか、政府施設の地下で監禁されているなど様々な噂が立っているが、どれもが信ぴょう性に今一歩達していない。

「次は三日後だ。また君も来るといいよ」

「どうして、もし私が政府警察の人間だったら、あなた方は通報されて死んでしまうかもしれないんだぞ」

「私には君がそんなことをする人の様には見えない。料理に興味があるからここまでついてきたんだろう」

「ええ、確かに。しかし、ですね」

「私も若い頃は君みたいになんにでも興味を持ったものさ」

 私は男に話した。幼い頃、小説のなかで当たり前に出てくる数々の料理を知ることで、料理に興味を持ったのだと話した。それから、駅前で老人が落としたメモを拾ったとき、もしかしたら憧れていた料理を間近で見ることができるかもしれないと期待していたと打ち明けた。もちろん、食罪を侵した犯罪者として政府警察に通報しようとしていることは黙っておいた。

 部屋を出る際に、私は老人と三人に軽く会釈をすると皆も軽く会釈をした。そして、私は住宅街の雑居ビルを後にした。

 しばらく初めて食べた料理、カレーの味をもう一度鮮明に思い出そうとしたけれど、どうしても思い出せなくてゼリー食の塩味を思い出してしまった。違う、もっとスパイスの香りが強くて、と想像するもののそううまくはいかない。叶うことなら私はもう一度カレーが食べたい。

 私は何処へも寄らずまっすぐと帰宅をした。

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