第49話 元神であること
子槻がお茶を飲んで茶托へ戻す。令嬢は子槻の前では柔らかい表情をしているのかと思いきや、春子のときと同じ不機嫌そのものの顔をしていた。
子槻が机の上に置かれていた牡丹の風呂敷に目をとめる。
「それは?」
令嬢が子槻の視線を追って、さらに眉間にしわを寄せる。
「香水というものだ……あの娘に好きに作らせた」
途端に子槻の表情が火を入れたランプのように華やいだ。
「春子の香水か! 春子の香水はとてもよい香りだろう。かがせてくれないか」
令嬢は目線をそらして、「勝手にするがよい」と呟く。子槻は「失敬」と風呂敷を引き寄せて、包みから深い青色の瓶を取り出した。同じく青いガラスのふたを開けて、顔へ近付ける。そうしてまたたいて、瓶を机へ置いた。
「ああ、なるほど、たしかに。春子にはお前がこう映ったのだな。だが少しばかり美化されすぎなのではないか」
子槻が嫌みなく笑うと、令嬢は子槻を睨んだ。硬質だった表情が、すねたようにどこか体温のあるものになる。
子槻はもう一度瓶を開けて、香りをかいで、息をついた。
「美しい香りだ。気に入ったのだろう?」
令嬢は子槻から顔をそらして口をへの字にしたまま答えない。子槻は吹き出す。
「相変わらず素直ではない。気に入ったのなら素直に気に入ったと言えばよかろう」
おかしそうに見つめる子槻に対し、令嬢は変わらず仏頂面だった。
(気に入ってもらえてた、のかな?)
春子は木の陰から意外な気持ちで令嬢の横顔を眺めていた。てっきり失敗してしまったと思っていたのだ。けれど子槻の言うとおりなら、ちょっと表情に出にくいだけで、気に入ってもらえたのかもしれない、と胸を撫で下ろした。
子槻が瓶を綺麗に風呂敷に包んで返すと、令嬢はむくれたような顔でお茶を飲み、出されていた栗ようかんを一口つまんだ。
「ときにお前。あの娘を妻にする妻にすると大層意気ごんでいたが、どうなのだ」
令嬢が子槻を見据える。一体誰にまで言いふらしているのかと春子が頭を抱えると、子槻はあからさまに目をそらした。
「も、ももももちろんうまくいっているに決まっているではないか……まだ妻ではないが。気持ちのうえではもう夫婦だ!」
何を言っているのかと、春子は頬が熱くなるのを感じながらますます頭を抱える。令嬢は一転してしらけたまなざしを子槻に送っていた。
「あれだけ大口を叩いておいてまだなのか。せいぜい苦心するがよい」
「言われずともわたしは諦めない」
例のごとく子槻は自信に満ちあふれていて、春子は途方に暮れたくなった。
しらけていた令嬢のまなざしがほんの少し痛みをもって、すぐに澄んだものになる。
「戯れ言はさておき槻子神よ。お前が元神であることは話したのか」
子槻は表情を引きしめて、しぼませる。
「話してはいるが信じてもらえていないようだ。それに、なぜか春子は昔わたしと会ったことを忘れている」
令嬢の顔にもう不機嫌の色はなく、顔立ちは夜の月の光のようにただとぎ澄まされて、美しかった。
「いくら人となろうとも、神と人が結ばれるのはたやすくない。娘がすべてを信じられないのなら、人は人と結ばれたほうが幸せだろうよ」
「そんなことやってみないと分からないだろう」
子槻が声を大きくする。令嬢は感情に染まらない瞳で、子槻を見つめ続ける。
「槻子神、それはお前が一番分かっているのではないか。うまくいくこともあるだろう。けれど長い時のなかで異なるものが結ばれないのを幾度も目にしてきたのはお前自身だろう。人は異なるものを排せずにはいられない生き物なのだ」
子槻は瞳を揺らして、弱々しく伏せる。
「それは」
小さな声のあとに、何も続かない。
今まで春子が見てきた子槻は不思議なほど自信満々で、周囲が何と言おうとも信念を貫いていた。こんなに揺らいだ子槻を、初めて見た。
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