第48話 人知れず咲く月下香

「最初は西洋薄荷と柑橘でさっぱりしています。主役は月下香で、最後まで甘く香り続けます」

 トップノオトは西洋薄荷とマンダリン。ミドルノオトは月下香と少しのバラで、甘く重厚な花束のような香りがする。ラストノオトは龍涎香の人肌めいた香りで、月下香の残り香をつなぎ止める。

 令嬢から受けた印象を香りの中につめこんだ。鋭くて、豪奢で、しゃんとしていて、けれど芯があるゆえひとりで立っているような、夜に人知れず咲く月下香のような雰囲気を感じた。深く青い、丸みを帯びた瓶も、夜を思い描いた。

 令嬢が和紙を顔から離す。そうして青い瓶へ目を落として、どこか苦しそうに、鋭く瞳を細めた。

「代金は、いくらなのだ」

「あ、ええと」

 春子は慌てて代金を確認して令嬢へ告げる。

「けれど、この香りをこう直してほしいなどあればお受けすることはできますが……」

 令嬢の表情は険しく、もしかしてまったく気に入らなかったのかもしれない、と春子の心はざわめいた。

 令嬢が懐から金貨を出して机へ置く。

「持ち帰る。包んでほしい」

 そうしてごふん色のちりめんに赤い牡丹が入った風呂敷も置いた。思ってもみなかった言葉で、春子は「あ、はいただいま!」と一拍遅れて立ち上がる。瓶を木箱に入れて、するするした手触りの風呂敷で包んでいく。

「こちらになります。今、お釣りを持ってまいりますので」

 風呂敷包みを令嬢へ渡して、春子はお釣りを出すために隣の畳の部屋へ上がった。釣り銭をそろえて接客部屋へ下りる。

「お待たせしました……」

 けれどそこに令嬢の姿はなく、午後のほの明るい光だけが満ちていた。

 春子は引き戸の向こう、さらさら揺れる木立を眺めて、我に返る。

(ど、どうして? 出ていくのを聞き逃した? ううん、それよりお釣りも受け取らずに帰ってしまったということは、お釣りは勉強代にくれてやるからもっと技術を磨きなさいってこと?)

 そこまで気に入らなかったのだろうか、と春子は胸の中が重くなる。それならば言ってもらえれば直せたかもしれないのに、と思って、そんなことはあとだと気付いた。お釣りを渡さなければいけない。いくら何でもそこまで遠くへは行っていないはずだ。春子は小走りで店を出る。

 見回しても令嬢の姿はなかったので、ここからなら人力車の止められる母屋のほうへ向かうだろうか、と思った。飛び石を越えて、木々に囲まれた道を足早に進む。

 小道からひらけた場所に出たとき、令嬢の後ろ姿が見えた。そこは母屋につながる庭で、芝生に黒の曲線を描いた鉄製の机と椅子が置かれている。外でお茶を楽しむ場所なのだろう。今まさにその席につかんとする令嬢と、向かいに子槻の姿があった。春子は思わず立ち止まる。

 子槻は白ねず色の長着にるり色の羽織で、そういえば今日は日曜日でお休みだからか、と春子は合点がいった。

 子槻が令嬢の向かいに座り、くだけた笑顔を見せる。春子のところからは令嬢の背中しか見えないが、どことなく初対面ではなさそうな雰囲気を感じる。

(あ、でも知り合いでもおかしくないか)

 春子の顧客は子槻の知り合いなのだ。夜会でも子槻の顔が広かったのを思い出す。

 何となく立ち尽くしたままでいると、母屋のほうからこのりがやってきて、机に皿を並べていく。少し肌寒いが日差しはいっぱいに降り注いで暖かいので、外で歓談するにはいい日和だ。

(ど、どうしよう)

 今すぐ出ていって令嬢にお釣りを渡して去るべきだろうか。けれど歓談の場に水を差していいものだろうか。あとで子槻に事情を説明して言付けてもらえばいいだろうか。

 けれど、単純に、ふたりがどういう間柄で、何を話すのか、気になる。

(話が終わったらお釣りを渡すためだから。それだけだから)

 春子は心の中で必死に言い訳をしつつ、木々のあいだをまわりこんで机に近付く。子槻と令嬢の横顔が見える位置まで来て、木の幹に沿ってそっとしゃがみこんだ。完全にのぞき見、盗み聞きで良心がきりきり痛むが、気になるほうが上回るのだから我慢するしかない。

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