第16話 部屋にねずみが

「では春子、何かあったらこのりに言うのだよ。食事は部屋に運ばせるから。ああ、あと」

「子槻さま。ご心配は分かりますがそろそろお引き取りください。ここから先はご婦人の客室です」

 置いていかれる子どものような顔をした子槻と、呆れながらもきっぱりと言い渡すこのりのやり取りを経て、春子は洋間に案内された。

 茜色のじゅうたんが敷きつめられた部屋には大きな真っ白い寝台、鏡台、洋だんす、小さな机があり、調度のこげ茶の木目が吊りランプの橙色を跳ね返している。先ほどの洋間にあった机と同じだ。舶来のものなのだろう。

「スリッパ、脱いでいただいても構いませんよ」

 このりが人懐こい笑顔で見上げてくる。このりがしてくれる部屋の説明を聞きつつ、春子は恥ずかしながら頷いた。畳と板の間と縁側の生活しかしたことがないので、怖くて落ち着かない。今すぐ脱ぎはしないが、あとで絶対脱ごうと思った。

「では、のちほどお夕食をお持ちします」

「ありがとうございます、このりさん。いろいろ」

 いろいろ、に含まれたものを感じ取ってくれたのか、このりは「とんでもないことです」とおかしそうに笑って、丁寧にお辞儀をして部屋を出ていった。

 春子は深く息を吐いて、ひとまず机の椅子を引いて座った。スリッパは脱いでそろえておく。ひとりの部屋にしてはあきらかに空間が余っている。椅子はまだ尋常小学校で使っていたからいいが、寝台には恐怖しか感じない。

 寝台に近付いていって、真っ白なふくらみを押してみる。弾力があって寒天のようだ。寝たら絶対に落ちる。畳の布団が恋しい。

 そんな心細さにさいなまれていたら、視界の端で何か動いたような気がした。虫かと身構えて、とっさに振り向く。

 虫にしては大きい、白っぽい握りこぶし大の塊を捉えて、春子はまたたいた。

 廊下につながる扉のそば、部屋の角で、白っぽいねずみが後ろ足で立ち上がってこちらを見ていた。

(ねず、み……可愛い!)

 普通の婦人なら「部屋にねずみが!」と悲鳴をあげて女中を呼んだかもしれない。けれど春子はねずみが大好きだ。動物の中でも一番といっていいほど。りすもうさぎも、歯が出ている動物は皆好きだが、ねずみは特別大好きだ。あの後ろから見たときの、滴のような形状がたまらなく可愛い。

 春子はねずみを驚かさないように、しゃがみこんで寝台に沿って扉のほうへ近付いていった。逃げてしまうかと思ったが、ねずみはこちらを見たまま動かない。

 ねずみの前まで来て、春子はそっと指をさし出した。ねずみは病気を持っているかもしれないから噛まれたら大変なことになるのだが、どぶねずみならもっと灰色だし、野生を生き抜いてきた顔というよりはどこかとぼけた顔をしているのできっと大丈夫だ。そう言い訳して、ねずみを愛でたいという欲を全面に発揮した。

 後ろ足で立っていたねずみは前足を下ろして、匂いをかぐように春子の指先に鼻を寄せてきた。そのまま、指に頬をくっつけてくる。まさか、と思って春子が恐る恐るねずみの頬をくすぐるように撫でると、ねずみは逃げなかった。おとなしく撫でられて、あまつさえ気持ちがいいのか、目を細め始める。

 あまりの愛らしさに、春子はもだえて声をもらしそうになって、こらえた。ねずみがびっくりして逃げてしまうかもしれないし、ひとりで変な声をあげていたらただの変人だ。

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