第17話 作らせていただきます

(可愛い。可愛すぎる。もしかして飼われてる?)

 数年前、白いねずみを飼うのが流行したので、もしかしたらこの家で飼われているねずみが脱走してきたのかもしれない。

 撫でられてされるがままに目を細めているねずみは、よく見ると真っ白ではなくてきなこの色をしている。目は黒っぽいが、橙の明かりのもと見つめると、赤のようだ。ねずみの尻尾とは毛がないものだと思っていたが、長い尾にはつやつやの毛が生えていた。体と同じきなこ色だ。子槻の髪と、同じ色だ。

 そういえば子槻の両親は黒髪で、生粋の帝国人に見えた。子槻は異人ではないのだろうか。そういえば、昔もこうやってねずみを愛でたことがある。きなこ色のねずみ。きなこ色の髪。

『お前を迎えに行こう』

 弾けた泡のような言葉と、扉を叩く音が重なる。驚いて見上げると、「お夕食をお持ちしました」と扉ごしにこのりの声が降ってきた。手元を見ると、ねずみがいなくなっている。驚いて逃げてしまったのだろうか。

 ひとまず扉を開けると、盆を持ったこのりが立っていた。白米、みそ汁、焼いた魚の湯気がいっぱいに混ざり合って、思い出したように空腹を自覚した。

 ふと、このりの足元をきなこ色の塊が駆け抜けていく。

「あ」

「どうかされました?」

 このりが首をかしげる。ねずみが、と口にしようとして、とっさに思いとどまった。もし飼われていないねずみだった場合、言えば捜し出されて駆除されてしまうかもしれない。春子は「何でもないです」と首を振って、空っぽのお腹の中においしそうな香りを吸いこんだ。


 おいしい夕食をごちそうになって、部屋につけられた風呂に入って、寒天のように頼りない寝台に横になって、目を閉じる。緊張して眠れないかと思ったが、意外と疲れていたらしく、意識につじつまの合わない出来事が混ざり始め、段々分からなくなっていく。

 香水の店を、やりたい。怪しかったとしても、春子の夢だ。けれど本当は自分ひとり幸せになってはいけないのだ。罪悪感を持ち続けながら、ずっとその夢だけは捨てられなかったが。

『春子の作った、香水がほしいわ』

 夢うつつの頭が作り上げた声だろう。本当に母はそう言ってくれるだろうか?

 けれど、頭の中で作られた幻だったとしても、それは。


 洋間で迎えてくれた子槻は、昨日と同じくハイ・カラアに背広の、板についた洋装だった。

「おはよう春子。よく眠れたかい?」

 邪気なく、全幅の信頼を寄せられているように微笑まれる。

 春子は目覚めて支度をしてからすぐ、子槻に会わせてもらえないか、とこのりに頼んで洋間に案内してもらった。かけていた椅子から立ち上がって迎えてくれた子槻の前に立つ。

「はい。とてもお世話になりました。ありがとうございます……それで、お店の件なのですが」

 子槻の表情が目に見えて弾んで、一瞬ひるむ。

「やらせて、いただけますか? けどすべて負担では申し訳」

「やっと分かってくれたのだな! よいに決まっているだろう!」

 最後まで言わせてもらえず、歓喜の声にかき消される。子槻は泣き出してしまうのではと思うほど喜びに震えた顔をしていた。ここまで素直に感情をあらわにされると、最後の最後まで残っていた疑いの心が小さくなっていく。

 罪の意識も押しこめて、怪しさも全部飛びこえて、店をやりたい、と心が言っていた。逃せば、店をもてる機会はきっともうない。それに、知りたいのだ。

 目の前のきなこ色の髪をした青年が、どうして春子のことを知っていて、どうしてこんなに優しくしてくれるのかを。

 子槻は我に返ったように表情を引きしめて、けれど抑えきれないというふうに顔を緩めた。

「春子の好きな香水を、存分に作ってくれたまえ」

 その様子がおかしくて、春子は着物の袖をあてて吹き出していた。

「はい。作らせていただきます。子槻さん」

 春子は子槻を見上げて、しっかりと頷いた。

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