妖魅夜暁
齊藤 紅人
宵の貫穿
1.
――二〇二一年十二月六日 二二:〇六 阪急神戸線 花隈駅
素焼きの五号鉢。ひょろりと生えた一本の幹から放射状に幾つもの枝が伸びており、そこにミカン科特有の照りのある小さな葉が整然と並んで茂っている。
二年前に飛騨の農園から先輩が取り寄せ大切に育成し、この秋に初めて株分けに成功したのを譲って貰ったのだ。
涙人はその小さな葉を指先で優しく撫でてみた。
薄く柔らかい葉質。そして触れると同時に刺激的でありながら懐かしさを伴った不思議な香気が立ち昇る。先輩曰く、スパイスカレーを作る際にこの葉を入れるだけで香りが格段に変わるらしい。
和名は
涙人は鉢を見つめながら、左目の下瞼を人差し指でゆっくりと拭った。それは子供の頃からの癖だった。丁度その辺りに涙滴の形をしたシャツのボタンほどの小さな痣がある。祖父からはその痣が涙人の名前の由来なのだと聞かされている。
涙人は園芸部に所属している。
部員六人と小規模ながら、新設校のフランクさもあり楽しく活動を続ける事ができている。涙人の
涙人は何かに気付いたように二度ほど頷いてから、カラピンチャの鉢をおもむろに両手で抱きしめた。
鉢から「寒いよ」という声が聞こえたからである。
実際に言葉が発せられるわけではないのだが、涙人は子供の頃から植物たちの感情のようなものを汲み取ることができた。
今は十二月である。飛騨産とはいえ元々カラピンチャは東南アジア生まれの植物だ。日本の冬の寒さはきっと堪えるに違いない。
家に帰ったら暖かい場所に置いてあげよう。
涙人はそう思った。
涙人よりも頭ひとつ大きい凱斗だが、涙人が細身なこともあって一緒にいるとかなり大柄に見える。毎日のグラウンドでの練習で焼けた肌は冬になっても浅黒く、短髪に刈られらた髪はスポーツマンらしく爽やかで、女子生徒からも人気があった。
スポーツ特待生である凱斗は、一年生ながら遊撃手で四番を任されている。全身バネと評される抜群の身体能力はチームでもずば抜けていて、すでにNPBのスカウトから注目されているともっぱらの噂だ。
本人もプロ志望なのは間違いない。誰に話すという訳ではないが、母子家庭で育った凱斗にとって、ずっと続けてきた野球で母親に楽をさせてやりたいという思いは強くあった。
コロナ禍だった昨年は交流試合のみで開催されなかった夏の甲子園大会。今年は無事に開催されたものの、凱斗達のいる
その瞬間をベンチからとはいえ(一年生で夏にベンチ入りしていること自体が驚異的なことではあるのだが)惜敗する様を目の当たりにした凱斗にとって、甲子園出場は悲願となっていた。先輩達の悔しさを胸に、来年の夏を見据えこの冬もひたすら練習に明け暮れている。得意の打撃に加え、守備面での強化が重要な課題だった。
スマホで確認しているのは自分の守備を撮ってもらった動画だ。そしていつも見ては顔を顰めている。反応が遅い。無駄が多い。拙い。ダサい。練習が足りない。
元々三塁手だったのが高校に入ってから遊撃手にコンバートされた。同じ内野手でも三塁手と遊撃手とでは必要な動きと使うべき頭脳が全く違っていた。足とバネには自信があったが打球はそれよりも遥かに速い。素早く反応し一歩目をきっちりと踏み出せなければ遊撃手としては失格だ。さらには二塁手との連携もある。事前にイメージする力が必要だったが、その点について凱斗は全くの新人だった。状況判断を間違い、取れるはずのアウトを取りこぼすことも少なくない。実践では持ち前の身体能力で何とかカバーしているが、自分としては三〇点かそれ以下だと思っている。派手に飛び込む姿がファインプレーに見えるおかげでチーム内の印象は悪くないようだが、今の自分のスキルは到底納得できるレベルにない。
自分の守備をプロの遊撃手と重ね合わせ、その絶望的な実力差に闘志を燃やすのが凱斗の日課になっていた。
羽花は容姿だけでいえば美少女に分類されるだろう。大きな瞳と薄めの唇は華やかでありながらある種の怜悧さを備えていたし、
だが、病弱さに起因する青白い顔色と
中学高校と演劇部に所属している羽花だが、今は専ら脚本を担当している。中学二年の時に主役に抜擢され、それを自身の入院で丸々トバして以来、羽花は舞台に立たなくなった。ちょっとした
自分の体調に自信が持てない。それは演者として致命的な枷となって羽花に重くのし掛かった。約束を守れないことは、誠実な羽花にとって何よりも辛いことだった。
だが、演じることを諦め脚本を担当するようになったことで、羽花は物書きとしての才能を開花させることになる。
演劇部では集客のことも考え、オリジナルよりも話題の小説や漫画を叩き台にして脚本に起こすことが多いのだが、羽花は言葉選びと構成に独特のセンスを持っていた。
羽花の描く台詞は無駄がなく、それでいて観客の耳に印象深く残るように計算されていたし、ある意味で大胆とも取れる構成や組み立ては比較的尺の短い劇に良い緊張感を持たせることができていた。
二〇二〇年の武漢に端を発する新型コロナ騒動以降、アクリル板で仕切られるようになった舞台は制約も多く窮屈な部分もあるのだが、羽花の脚本にはそれを感じさせないある種の力強さのようなものが宿っていた。
演者としては欠陥品であっても、脚本であれば一人でコツコツ書き進めることができる。多少熱があっても体調が思わしくなくても、机にしがみつく気力さえあれば締め切りを守ることができる。登校さえままならない時でもパソコンからデータで送ることができる。
羽花は舞台を降りてからというもの、演劇への憧れと情熱を脚本に注ぎ込むようになっていた。
三人は幼なじみで、幼稚園からずっと一緒に過ごしてきた仲である。高校も同じ私立を受験し、この春から下山手のキャンパスに通っている。
私立生田川学園高等学校は創設三年目の新設校である。生徒や父兄からは
十一月に行われた文化祭で、涙人は園芸部の発表で文化祭大賞を受賞し、凱斗はイケメンコンテストで三位に入賞し、羽花は文化祭に合わせて書き上げた脚本で良い評価を得ることができた。
三者三様の達成感を称え合うという名目で、久しぶりに集まって打ち上げをしようということになっていたのだが、例によって羽花が熱を出して延び延びになってしまっていて、それが十二月に入って今日ようやく集まることができたのだ。
とはいえ、凱斗の練習が終わるのを『サンマルク』で待ってから、花隈駅近くの『八馬力』でラーメンを食べただけなのだが。
「あの……今日ってさ?」
ベンチで電車を待ちながら、羽花は呟くように言った。
両サイドの男子二人が彼女の顔をのぞき込む。
電車は予定の時間をとうに過ぎたというのに、どういうわけか一向に姿を現さない。
「確か……ルミナリエの初日、だよね?」
小さな声で羽花が疑問を続ける。
阪神大震災の追悼の意を込め始まった『神戸ルミナリエ』は、昨年こそコロナ禍で中止になったものの、今年で二十六回目を迎える関西圏では人気のイベントである。
期間中は西からも東からも沢山の観光客が押し寄せ、終了後は阪急阪神JR西日本の三社の交通機関がすべてパンクするというのがこの時期の神戸の風物詩となっていた。
二年ぶりの開催にテレビもネットニュースも喜びの声を連日取り上げていた。その初日が――今日である。
「なのに……」
羽花の声は不安で震えている。
「なのに何で……何でホームに……私たちしかいないの?」
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