第2話
カランカランカラン
扉に取り付けられていたドアベルの温かい音が耳に届く。
「あー寒い」
そう言って入ってきたのは、武彦だった。私は思わず声をあげそうになった。
「よお、久しぶり」
「……う、うん」
現実が受け止められず曖昧な返事をする。武彦が、当然のように私の隣に座った。「コーヒー、ホットで」と頼む姿をまじまじと見る。武彦の声、武彦の匂い、ああ三年前と変わらない。私は泣き出しそうになるのを必死でこらえる。
「アイリッシュコーヒーかあ。懐かしいのを飲んでんだな。昔、佐藤と佐藤の彼女と、四人で国分寺の喫茶店に飲みに行ったのを覚えているか? 懐かしいなあ。お前、ウイスキー臭いとか言って飲まないものだから、結局、俺が二人分飲んだっけ。もうあれから、五年か。お前もウイスキーの香りも味も平気になるはずだな」
私はうんと頷くしかなかった。ぽとりと涙が机に落ちる。
「おいおい、ひさしぶりに会ったのに、泣くなよ」
武彦が慌てたような声をあげる。
「ごめん……。武彦に会えて嬉しくて……」
頬の筋肉を動かして、笑おうとした。でも、涙がとまらない。武彦がハンカチをポケットからだして渡してくれた。きちんとアイロンがかかった白いハンカチ。私はそれを受け取ると顔に当てる。キャスターの香りがする。やはり、本物の武彦だ。
「おぉ。でも、そんなに泣くなよ。なんだか、俺が悪者みたいじゃん?」
武彦が肩をすくめて困ったように笑う。ちらっと見える八重歯。ああ、この笑い方。夢にいつもでてくる武彦だ。そういえば、私はいつも武彦を困らせてばかりいたっけ。今度は困らせないようにしなきゃ。
「落ち着いたか? 昔から、泣き虫だったものな。マンガを読んでも映画を見ても泣いてばかりだ。それなのに、意地っ張りで、ほんと手のかかる子どものようだった」
「手のかかる子どもで悪かったわね」
「ま、惚れた弱みっていうか、そこが可愛かったんだけどな」
武彦の言葉が私の心を満たしていく。ああ、今ならやり直せるかもしれない。三年たっても武彦は武彦だったんだ。ちょっとだけ太ったような気もするけど、ご愛敬だ。私だって三年前に比べたらおばさんになっている。
「武彦…」と私が言いだそうとした時だった。
「あのさ、俺、来月結婚すんだわ」
武彦の言葉に耳を疑う。口の中の水分がすべて蒸発してしまったようかのように口の中がからからになって、心臓がバクバク鳴っている。声が掠れてうまくしゃべれない。そんな私のことを置いてきぼりにして武彦がコーヒーカップを眺めながら喋る。武彦は自分の意見を話すとき、いつもコップを眺めてたことを思いだす。
「俺さ、お前に未練がましいと思われたくなくて、必死に仕事したんだ。それでさ、体壊してさ、一時期実家に戻ったりしてさ……」
武彦の言葉はもう私の耳には入ってこなかった。三年もたっているんだ。人の気持ちも変わっても仕方ないくらいの時間が流れたんだと今やっと気が付いた。カウンター席の下で両手をきつく握りしめる。もうこれ以上、武彦を困らせるわけにはいかない。
「……でさ、この前……」
「おめでとう、武彦。よかったじゃん」
一瞬、きょとんとしたような顔を武彦がする。そして、私の言葉を理解してとても嬉しそうに笑った。ああ、この笑顔、大好きだったな。私も嬉しくなって口角が上がって行くのを自覚した。
「サンキュー。お前ならそう言ってくれると思っていた」
武彦はそう言うと、一気にコーヒーを飲んだ。『じゃあ』と片手をあげて、席を立った。私は慌てて武彦に声をかける。
「ねえ、武彦。握手をしてくれない?」
「? なんで?」
「うん。私、ずっと、武彦と別れたことを後悔していたんだ」
「それで?」
「うん。私も後悔するのをやめて前に進もうって決心したんだ。そのための儀式みたいなものかな?」
「まあ、よくわからないけれど、お前が握手したいと言うなら握手しようぜ」
武彦はよくわからないと言う風な顔をしながらも右手を出してくれた。私も右手を出して握手をする。温かくて、大好きだった武彦の手。
そして、『じゃあな』というと武彦はお店を出て行った。
◇
武彦が去ったあと、私はアイリッシュコーヒーを飲みほした。武彦に言われたように、昔はウィスキーの匂いがきつくて飲めなかったのに、今は美味しいって思える。甘くて温かくて、心も体も温めてくれる優しい珈琲。心のひだまで温まれたような優しい気持ちになれる。
自分自身何も変わらないと思っていたけれど、少しずつ変わっているんだ。そう思うと、武彦のこともいつか思い出にすることが出来そうな気がしてきた。今度は笑って子どもの話とかできるといいなと思っている自分がいて、不思議な気持ちになる。
「後悔から抜け出して前にすすめそうですか?」
カウンター越しに店員さんが静かな口調で聞いてきた。
「ええ。…………でも…………」
私は、武彦が座っていた席を見る。空になったコーヒーカップ。私の手元に残っている白いハンカチ。夢だと言うなら、この空間全てが夢になる。そう思って自分の手を見ると、微かに透明になっているような気がしてきた。全身が光に包まれて行くけど、なんだかとても穏やかな気持ちだ。
「そうだ。やっと思いだした。私、あの日、事故に会って…………」
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