マガ・ギガンティア ~巨獣対人類・地上最大の戦い~
緑茶
プロローグ
不良5人を相手にした喧嘩がもたらしたのは、頬の切り傷だった。
「っいてて……」
妹を――白羽を背負いながら、直次は夕暮れの河川敷を歩いた。
藍色はまだやってこない。世界の全ては、橙の微睡みの中にあった。
「おにい……白羽なんかのために」
後ろでもぞもぞと動きながら、そんなことを言った。そいつを笑い飛ばす。
「何言ってんだ。相手が悪いだろ。お前は絵描いてただけだ」
「でも、あんなとこ座って、絵描くなんて、おかしいのかも」
「向こうが悪いんだよ。お前の絵は世界一だ。にいちゃんが認める」
思い出すだけで腹が立ってくるので、その代わりに、妹を更にしっかり抱える。
……妹の吐息がすぐそばにあった。何かを、言おうとしたらしい。
通り過ぎていく時間。自転車。散歩している人。見知らぬ学生。
「ありがとう、おにい」
「……おう」
なんだか照れくさかったが……その言葉だけで、傷の痛みが吹っ飛んでしまいそうだった。
「白羽ね、おにいのいる世界がすき」
妹は、呟いた。
「おにいが居るなら、この世界が……どうなったっていい」
厄介な妹だ、と思った。
だけど、彼はお兄ちゃんだったから。気持ちを、伝えるべきだと思った。
「俺もな、白羽。お前のことが、大好きだ」
不思議と、それを言うことに照れは感じなかった。
「お前が居るなら、俺だって。この世界が、どうなろうと構わない」
……後ろで、息を吸い込む音が聞こえた。
二人で、沈黙を噛みしめる。かけがえのない時間。家路につくまでの、二人だけの。
夕暮れは何もかも煌めいて見えて、世界は素晴らしいものであるように見えた。
しかし彼は――後になって知った。
夕焼けの色も、炎の色も、何も違いはないのだと。
◇
激しい紅蓮のなかを、彼は歩いた。
何もかもが曖昧だった。きっと、瓦礫が、死体が、いたるところに転がっているのだろうと思った。だが何もわからない――世界は暁に染まっていて、彼はただ、探していたのだった。妹を。
何度も地面が揺れて、そのたび足場があやふやになる。柔らかい何かを踏んだ。
……世界は、唐突に、残酷な地獄に突き落とされた。
息を吸い込むと熱いチリが喉に入り込むので、ろくに声は出せなかったが……それでも彼はさまよいながら妹を探した。周囲には、見知った町並みが広がっているはずだった。今は全て形を変え、燃え落ちる廃墟の群れとしてあるだけだった。
やがて彼は――妹を見つけた。
「おかあさん、お父さん……おばあちゃん、あああ、ああ」
白羽は、崩れ落ちた家の下でしゃがみこんで、必死に叫んでいた。
その瓦礫の隙間からは、黒焦げになって、ぽっかりと空いた眼窩がいくつも並んでいた。
「……白羽」
彼女のところに駆け寄って、肩を抱いた。妹はびくりとしたが、すぐに兄だと気付いた。
「おにい、おにい……みんなが、みんなが……」
ああ――そうだ。分かるとも。
みんな。死んでいたのだ。自分たちの目の前で、逃げ遅れて。
妹の肩を抱いてやる。
それで何かが崩れたのか、白羽は支離滅裂なことを叫びながら泣きついてきた。
みなが死んでいる。みなが死んでいた。
「……」
不思議と、彼は冷静だった。家族が死んだと分かっても、妙に落ち着いていた。
だが、それでも許せないことがあった。
それは……妹を、こんなふうに泣かせたことだった。
大きな振動があった。大地そのものが震えた。
目の前で家が完全に崩れ落ちて、何も見えなくなる。
妹を抱きしめて、離れる。途中で、尻もちをつく。
そして――見上げた。そいつが、現れた。
燃え盛る廃墟の間から見える巨大な黒い影。
だがそれは影ではなく、一歩前に進むたび大地が揺れて、彼を拒絶した。
一体の、巨獣だった。
黒い冷えたマグマのような体表を持つ、神話に出てくる怪物だった。
琥珀色をした目が体側面にいくつも並び、輝いていた。その口は首元まで裂けていて、乱杭歯が剣山のように生えていた。
それは咆哮し――彼らの視界の中へ、姿を現したのだった。
あまりにも巨大すぎて、一瞬直次は、本当に山と錯覚しそうになった。
つんざくような、人間の悲鳴を何種類も混ぜ合わせたような絶叫。周囲が振動する。
妹と自分の耳を抑えながら、その場から離れようとしたが……揺れる地面の上では、無理からぬことだった。
別の音が、巨獣の反対側から聞こえた。連なって。
そちらに視界を巡らせる。
黒い煙の尾をたなびかせた戦闘機が、轟音を響かせながら編隊を組んで自分たちの上空を翔んだ。そして、そのまま巨獣へ向かった。
何か、ちかちかするものが放たれた。
……炸裂。炎の華。
ミサイルのようなものが吐き出されて、向かっていった。
巨獣の体表面でそれは爆発。
またぞろ、振動が起きる。悲鳴を上げる妹を抱きかかえる。背中に熱いチリがかかったが、今はそれどころではなかった。自分たちのところに、何も降りかからないことだけを願った。
巨獣は咆哮し、身体を揺らした。
だが――効いてはいなかった。まるで。
その琥珀色の目が輝いて、戦闘機にねらいをつけた。
その体の側面から、ぎざぎざした腕が伸びた。
……動揺するように軌道を変えようとした目の前の敵を、叩き落とす。
翼をもがれ、身体をえぐり取られた戦闘機が、ぐるぐると回転しながら炎を噴き出して落下する。それは直次達のところに向かって飛んできたが、ギリギリのところでそれた。甲高い轟音は、自分達のものか何なのか、分からなかった。
後方で爆発が起きて、戦闘機は背景の一部と化した。
……何度も、炎の華が咲いた。
そのたび、巨獣は迎え撃ったが……まるで、まるで効いていなかった。
難攻不落の要塞――あるいは、神話の生物のような。
妹が、腕の中で目を覚ました。
「白羽……白羽っ……」
「あははは……みんな、みんな……みんな橙いろ……みんなが、おなじいろ」
……正気を失っていた。うつろな目で、ここではないどこかを見ていた。
その瞬間……知った。大事な何かが、かけがえのない何かが、奪われた。
何に?
……この世界に。
いや――あの、化け物に。
顔を上げる。
巨獣の進撃は、おそろしく緩慢だったが、続いた。
一歩足を踏み入れるたび、その周辺で廃墟が崩れ、倒れ込む。
歩き回る災害ともいえる存在だった。
もう、味方はいなかった。
誰も、どこにも。たしかに、すべて、同じ色のなかにあった。
直次は、無謀にも……その巨獣を睨みつけた。
すると、その巨大なシルエットは、僅かにこちらへ首をもたげたようだった。
……琥珀色の瞳が、不思議そうにこちらを見下ろしているように見えた。
無性に、腹がたった。
お前のせいで、何もかも奪われた。それなのにお前は、俺達の名前すら、知らない。
――直次は、とうに気を失っていた妹を抱きかかえたまま、巨獣に向かって吠えた。
巨獣は、呼応するように、紅蓮の中で咆哮した。
ふたつの、違うものを見ている目が、交錯しあった。
それが、直次の全ての終わりで、はじまりでもあった。
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