職員室カースト
鳩野廻
第1話
6月は全てが億劫である。
特に、雨上がりの自転車通勤は大儀である。前日に洗濯を済ませアイロンをかけた秋桜色のワイシャツ。その背中と脇には汗染みが滲む。念入りに塗り込んだ化粧下地は、家を出た途端に崩れ、勤務前には顔のあちこちがヌラヌラと脂っぽく光る。
家を出る直前は、最上の身嗜みであったのに、通勤する頃には台無しだ。わかっているのに、それでも、化粧をするし手入れの行き届いたシャツに袖を通す。社会人にふさわしい服装のために。
通勤後、綾乃は自分が定刻までに出勤したことを事務員に知らせると、職員用トイレに向かう。これは、勤務日の朝の恒例の習慣となっている。
綾乃は、先月より国語科の非常勤講師として、小規模な私立中学校に勤務している。
元々は東京のファッション雑誌の編集部に勤めていたのだが、不況のためかリストラを言い渡されてしまった。「不要」だと突きつけられてまで会社に居座るほどの胆力もなく、揉めることもなく退職を受け入れた。その後、地元の室蘭市に戻り、転職活動をすることにした。
探してみると非常勤講師の案内はすぐに見つかった。大学卒業時に教員免許をなんとなく取得したことが役立つ時が来た。
転職活動中の身とはいえ、無職だ。それも、25歳で。少しは働いている様子を見せないと実家に居づらい。かといって、時給800円のスーパーのレジ打ちや荷物出しのパートは割りに合わない気がする。いや、東京のオフィスで働いていた自分には相応しくない。25歳で大卒の綾乃にはプライドがあった。
教員募集サイトで見かけた非常勤講師なら50分の授業につき3000円もらえる。しかも、うまくいけば常勤の講師に格上げされるかもしれないとのこと。パートと比べると、悪くない話のように思える。自分の持っている資格を活用する仕事というのも、都落ちした綾乃の自尊心を傷つけない。
綾乃は、先月から働きはじめて、現在は中学1年生の国語を3クラス分受け持っている。といっても、各学年3クラスまでしかない。
非常勤講師である綾乃は、本来は自分の担当する科目の時間だけ勤務校に滞在していれば良い。しかし、「来年度の教員採用試験を受けるなら、他の先生の授業を見学したり朝の職員会議にも出ると良い。」と学年主任の諸岡が提案したために、朝の7時台に通勤をしている。
転職活動が身を結べばこんな田舎で教員採用試験を受けるつもりはさらさらないのだが、何としてでも通過したい採用面接で「今後も教員としてやっていきたい」と適当なことまで話したせいだ。自業自得である。
出勤後、綾乃はワイシャツに制汗剤を振りかけ、首元の汗を抗菌シートでぬぐう。自転車で風に煽られた髪の毛を櫛でなでつける。仕上げには、ちふれの薄オレンジのグロスを薄く指で広げる。最後に、さりげなく脇に鼻を近づける。最近の子どもはニオイが不快な教員に対して辛辣な評価を下す。10年前に女学生だった頃の綾乃にも心当たりはある。
肩につくかつかないかの中途半端なミディアムボブ、黒髪、眉に合わせて真っ直ぐ切りそろえた前髪、茶色のアイシャドウ、秋桜色のワイシャツ、UNIQLOの紺色のスラックス。地味で無害そうな国語教師が完成した。
意思がなさそうな顔である。前職の時と比べるとはるかに野暮ったい。愛用していたタイトスカートや底の厚い靴などは全て処分した。
朝の職員用トイレは唯一静かに落ち着くことができる場所だ。しかも、昨晩のうちに清掃がされているので、比較的清潔である。
とはいえ、何年使いまわしているのか不明な掃除器具や、よく見ると錆び付いている水道、安アパートのようなベコベコになった手洗い場などは、かつて勤めていたオフィスのトイレのように必要以上に長居するのには向いていない。
綾乃がこの学校に赴任して驚いたことは、職員用トイレの使われ方だ。
便器に汚物が付着しているままであったり、トイレットペーパーを一欠片だけ残して新しいものを補充されなかったり、和式便所では尿が飛び散っていることもあった。
この学校では清掃員を雇っている。しかし、教壇に立ち生徒を教え導く者が、排泄も満足にできないのか。汚したなら、トイレットペーパーで拭けばいいのに。
身支度を整えると、職員室に向かい、1年生の教員団の島の自席に着く。7時40分。職員室に到着したのは、綾乃は3番目のようだ。
週に3〜4日程度、決まった時間にしか勤務しない非常勤講師の綾乃には、関わりの薄い教員はいまだに誰なのかよくわからない。とりあえず、感じよく挨拶をし、読み飽きた「中1 国語」の教科書を開いて8時15分から始まる職員会議までやり過ごす。
不意に、隣の同年代の男性教員の園田のデスクが目に入った。机上の右下の隅に赤くて丸いシールが貼られている。
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