43 時は過ぎゆく


 感情を明け透けに外に出す姿ばかり見ていたせいで、静かに一筋だけ涙を流すリィルさんの姿が余計に悲壮に映った。


「……なんで?」


 何度も何度も、息を吸っては吐いて。

 ようやく絞りだせた言葉はたったそれだけだった。


 恐る恐る差しだされたようなその言葉を、アミッジさんは静かに受け取り、眉一つ動かすことなく冷ややかな声で返した。


「必要だからだ」


 突き放すような声音だった。


 リィルさんにとっては胸を殴りつけられたような衝撃があったに違いない。

 痛みだって、あったに違いない。


 それでも、それ以上の涙は零さず、リィルさんは気丈にも顔を上げて踏みだし、アミッジさんとの距離を詰めた。


「違う! 必要だなんて、そんなことは分かってるよ!

 私だって馬鹿じゃない。なんでアーセムの上から蟲や鳥獣が地上に降りてこないのか、生贄が必要な理由、少し考えれば分かるよ!

 でも、そうじゃない。そうじゃなくて! なんでアミッジがそこにいるかだよッ! だってアミッジは、君は、そういうことができる人じゃ、ッ!」


 体の中に溜まっている全部を吐きだすように捲し立て、最後まで言葉が続かなかった。

 溢れだしてくる感情に言葉が飲み込まれて途切れてしまい、繋がりを見失ってしまったみたいに次の言葉が出てこないみたいだった。


 リィルさんは言葉を探すみたいに視線をあちこちに彷徨わせたけど、結局見つからなくて、迷いに揺れる視線をそのままアミッジさんに戻した。

 そんな迷子の子供みたいな視線を真正面から受けたアミッジさんは、それでも頑なに揺らいだ様子を見せなかった。


 まるで感情を殺したみたいに、ピクリともしなかった……。


「言ったろ……必要なんだ。君がオレにどんなことを期待してるのかなんて知ったこちゃあないけど。これは街にとって必要なことで、オレが必要としてることなんだよ」

「……嘘……嘘だよ。だって君は約束してくれた。私が空師だったとき、一緒に登ることはできないけど、代わりに私がアーセムから帰える場所を、この街を守ってくれるって! 下で待っててくれるって! 約束したじゃんか! だから私は……」


「でも、君はもう空師じゃない。アーセムから下りたんだ。『世果よはての樹冠』を目指すことはない。もう――登らないんだろう?」

「そ、それはッ!」


 きっと大切な約束だったんだろう。

 二人だけが知ってる約束、二人だけが守ってきた約束。


 そこにどれだけのものを託していたのかなんて、余所者のワタシは知る由もない。

 だけど、二人から滲む、触れるのさえ躊躇してしまうようなもの悲しさは、傍から見ているだけで居た堪れなるくらい痛々しかった。


 ……四つ足でしかもお座り中のワタシには、そもそも触るための手がないんだけどね。


「分かってるさ。オレたちは互いに『約束』より大切なことを見つけただけなんだ。

だから前の大切なことは手放した。いや、オレの場合、初めから『約束』なんてどうでもよかったんだけどな。

 ……見つけた大切なものを全部抱えていくには、オレたちの手は小さすぎる。たったそれだけのことなんだよ」


 まるで小さい頃の自分の幻影に別れを告げているような、小さく跳ねるように駆け去っていく背中を見送るような、そんな目の色と声の音だった。


 わずかな沈黙が二人を包む。


 時間にしたら何秒と数えるくらいの、そんな程度の間が空いて、それが二人の距離を決定的に離してしまったのが分かった。


「……変わっちゃったんだね」

「いや、変わっちゃいない。見えてる部分が違うだけでな」


 アミッジさんは変わらず、リィルさんだけが変わってしまった。

 それは今も同じだった。

 アミッジさんは淡々とした落ち着きを崩さず、リィルさんだけが暗く圧し潰すような空気を背負っている。


 変わった人と変わらない人。別れは何も悪いことばっかりじゃないんだけど……やっぱり一人になるのは不安だし、寂しいし、何より……悲しいよね。


 リィルさんは涙を堪えるみたいに上を向いて、唇を噛み締めた。


「そっか……そうだったんだ。私は、何も……だったら!」


 リィルさんが顔を戻した。その目に涙はもう浮かんでいなかった。


「この場で私も変わる。だけどそれは、君のことをボッコボコしてからだけどねッ!」


 不安も寂しさも、悲しみも、全部握り潰すようにリィルさんは拳を握り込む。

 新たに覚悟決めたリィルさんの様子に、アミッジさんはこれ見よがしに溜め息を吐いた。


「オレは降参して、白旗上げたはずなんだけどな」

「関係ないよ。これは単なる八つ当たりだから。私が変わるための、本当の意味で前に進むための――けじめだよ」


 グッと目に力が入る。

 瞳の奥に火が灯ったみたいに、ギラギラと輝きが増していた。


「そうか。そういうことなら仕方ない。オレにお前は止められないし、止める気もないからな」

「……随分余裕だね。私じゃあ何もできないって、そう思ってる?」


 余裕を崩さないアミッジさんの態度に、リィルさんは眉間にしわを寄せた。

 まるで自分を意に介していない。それは彼を打ち倒して進もうとしてるリィルさんからすれば許しがたいことだろう。


 全身から敵意を滾らせるリィルさんに、アミッジさんはゆるゆると首を横に振った。


「いや、お前は大抵のことはなんでもできるだろう。今の場合、お前だから俺は何もする必要がないんだ」

「どういう……」

「オレがなんで、こんな自分語りみたいな恥ずかしいことしてたと思う? それもこんな時に、こんな場所で」


「……まさかッ!? 時間稼ぎッ!」

「そういうことだ。そら――ご到着だ」


 アミッジさんはリィルさんから視線を切って、道を空けるようにその場で膝をついた。




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