38 男の矜持と女の意地


「……嘘……嘘よ」


 急に迫ってきた現実から逃げるみたいに、ノノイさんがヨロヨロと後退った。


「嘘ではない。オレがこの場に来ていることが何よりの証拠だ。本当は自分でも気づいてたはずだ、岩人族ドワーフの娘。

 いくらあの緑人オークが優秀な祈祷師シャーマンであり、同時に戦士であっても、一人で我々を相手取るということがどういうことか」

「違う! ……だってアイツは、ガルドは……そんな、無謀って分かり切ったこと、しない。それが無謀だって、分かるだけの頭がアイツにはあるんだ。

 ……だから、少し時間を稼いだら、自分も別ルートで離脱するって。だってそうじゃなかったらッ!」


「……少しでも君たちが離脱できる可能性を高めるためだろう。離脱するどころか、我々を殲滅するために動いていた」

「そんな……そんなことって……」

「ノノイさんッ!?」


 まるで糸が切れたみたいに、ストンと崩れ落ちたノノイさんを慌てて抱き留める。


 体を支えながら顔を覗き込んで、息を飲んだ。


 まるで魂が抜けてしまったみたいに生気のない顔色。

 凄みすら感じさせる知性の輝きを宿していた銀色の瞳は、まるで光を写さなくなってしまったみたいにくすんでいた。


「君たちがあの場から去った瞬間、我々全員を巻き込む大規模な結界を展開した。縁も所縁もないだろうあの場を、自身を起点として瞬時に聖域に設定する力量。恐ろしい実力だった」

「あっ、あ゛ぁあああ……!」


 ついにノノイさんは声を上げ、瞳からボロボロと涙を溢れさせながら頽れてしまった。口から溢れてくる慟哭は弱々しくて、ふつりと途切れてしまいそうだった。


 まただ……また、ワタシは何もできない。

 こんなにも絶望に打ちひしがれてる人が目の前にいるのに、ワタシはただ肩に手を添えることしかできることがない。


 自分の無力さに俯くしかなかった。


「……今回の任務は異例中の異例だ」


 おもむろに頭の上からさっきよりも柔らかな声が降ってきた。


 思わず顔を上げると、一歩下がった位置でアイツがワタシたちを見下ろしていた。

 その声のせいか、顔は相変わらず真っ黒なのっぺらぼうみたいなのに、さっきまでと違ってどこか優しげな雰囲気をまとってる。


「本来なら我々は組織の性質上、存在を知られてしまった場合、その対象は記憶処置を施すか抹消する決まりになってる。

 だが、今回の任務は知られることが前提となってる例外。……もし、これ以上の抵抗することなくついて来るのなら……温情を、オレからも上に具申しよう」

「……ッ! そ、それって、つまり!」


 バッと音が出そうな勢いで顔を跳ね上げたノノイさんに、そいつは穏やかさすら滲ませながらゆっくりと頷いてみせた。


「あの緑人オークはまだ生きている」


 ノノイさんからゴクッと大きく唾を飲み込んだのが聞こえてきた。


 まるでお腹の底から溢れてきそうになった欲を必死に飲み込んだような、そんな音。その音に誘われるようにノノイさんの方に視線を戻すと、縋るような彼女の目が見つめてきた。


 ……それは、そうだよね。そりゃあ知り合って数時間も経ってない、事情もよく知らない子供と憎からず思ってる男なら、後者を取って当然だ。

 それなのに、ノノイさんは葛藤してる。こんな考えるまでもないようなことで、沼に深く沈んでいくみたいに考え込んでしまってる。


 なら、ワタシにできることは……、


「大丈夫ですよ、ノノイさん」

「……あっ。ち、違う。違うの、私はッ!」


 何か気づいたように、ノノイさんはハッとした。まるで自分が取り返しのつかない間違いを犯していたのに気がついてしまったような、そんな顔。


 でも、大丈夫。それって別に間違いでも罪でもないんだ。ただの優先順位だから。


「本当に大丈夫ですから。あっ、そうだ。ワタシこんな見た目ですけど、年は三十近いんですよ。もしかしたらノノイさんより年上かも。すみません、騙すみたいになっちゃって。……だから、ノノイさんが負い目を感じることはないんですよ」


 駄々っ子みたいにイヤイヤと首を振るノノイさんが、少しでも落ち着けたらいいと思って笑いかけた。

 首を振る度に涙が零れ落ちて、拭おうともしないからくしゃくしゃになって、結構酷い顔になっていた。


 でも、その顔はきっと彼女の優しさの結果だから。


 振り切るようにノノイさんに背を向けて立ち上がって、目の前のそいつを睨み上げた。


「貴方の言う通りについて行くので、ノノイさん、シュルカさん、ガルドさん、子供たちの安全を約束してください」

「……ああ。オレに可能な限りのことをすると約束しよう」

「……お願いします」


 やっぱり、絶対に安全だとは約束してくれないんだな。

 でも、これで少しはノノイさんたちが無事に済む確率が上がった……きっと。自分がそう思いたいだけかもしれないけど。

 なんにしても、ワタシができるのはこんなことぐらいだろう。


「それじゃあ、ノノイさん、シュルカさん。お世話になりました」


 振り返ることはしない。

 ちょっとは格好つけたんだから、情けなく引き攣った顔は見せたくなかった。


 そのまま、背を向けたそいつについて行こうと、踏みだそうとして……進めなかった。


「……ざけ……ない」


 大きな手が、震えながらワタシの小さな手を捕まえていた。


「ノノイさん? どうしたんですか? あの、できれば離して」


 言葉を遮るように、グイッと力強く手を引かれた。


「ざけんじゃないって言ったのよ! アンタが見た目通りじゃないってことぐらいとっくの昔に気がついてた!

 でも、アンタはガキよ! 自分の本能も抑えることができないガキ! そんなクソガキに気を使われなきゃならないほど、私は落ちぶれてないッ!!」


 目の前で、怒りに染まった銀色の瞳がギラギラと燃えるように輝いている。


 バンッと震える膝に手を打ちつけて、ノノイさんがゆっくりと立ち上がる。その顔からは、さっきまでの、道に迷った子供のような弱々しさは消え去っていた。


「私は確かに目暗めくらだよ! 目暗めくら岩人族ドワーフ、ノノイ・グライン・ベルグウィーク=オールグだッ! でも、自分のことまで見失っちゃあいないのよッ!!」




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