35 人に貸せる手なんてなかった


 三角座りで膝の上に腕枕を敷いて、完全に寝る体勢に入っていた体が独りでに跳ね起きる。

 四つん這いで地面を踏みしめて、戦闘態勢に入った体に寝ぼけた意識だけが完全に置いていかれていた。


 素早く辺りを見渡すと、ノノイさんも無理やり叩き起こされたみたいに、霞んだ眼を不機嫌そうに細めながら魔導書っぽい本を開いてる。


「転がってる奴らとは格が違う! ノノイ! 退却だ!」


 叫ぶのと同時にガルドさんが駆けだす。

 視線の先を追うと、向かいの建物の上にこれまたフードを目深に被った、怪しんでくださいと言ってるような、いかにもな集団がいた。


 高低差もあってフードの下が覗けた。

 いや、見せても問題ないんだろう。


 一緒になって顔を上げたワタシとノノイさんが見たのは、一切の凹凸がない、のっぺりした真っ黒な面だった。

 目も口もない、まるで顔の部分だけをぽっかりくり抜いたような気色悪さに、尻尾のつけ根からゾワゾワした寒気が上がってきた。


 でも、そんな不気味な相手にも一切臆することなくガルドさんは突き進んでいく。地面を踏みしめる度に床板を粉砕して、見た目からは考えられないスピードに達してる。

 まるで象がチーターの俊敏さで動いているみたいだった。


 しかし、相手がそれをただ傍観してくれる訳がない。

 ガルドさんの進行方向を予想してるみたいにルートの先に手を向けた。


 途端、ガルドさんが踏み砕くよりも早く床板がはじけ飛んだ。

 見るからに人を殺傷できる威力。

 しかしガルドさんは怯むことなく、十字に組んだ腕を盾にして突っ込んでいった。


「ぐぅう!?」


 強引に道を抉じ開けたけど、敵に易々と突破させてくれるよう甘さはなかった。

 衝撃波を突破するのを見越してか、続けて行く手を阻むように、弾けた床下から金属の光沢をもった壁がせり上がってきていた。


「ぬぅ」


 さすがのガルドさんも素手で金属を破壊するのは困難だろうし、壁伝いに登ろうにも滑らかな表面にはとっかかりも見当たらない。


「ガルドさん!」


 思わず叫んで駆けだそうとしたところで、腕を反対方向に引っ張られて体が宙を泳いだ。


「行くわよッ!」


 頭の上からノノイさんの悲鳴じみた声が聞こえてくる。ワタシを小脇に抱えたままガルドさんの方には脇目も振らず、反対方向に走りだした。


「ノノイさんッ!? ガルドさんが!」

「分かってるわよ、んなことッ! でも私たちが残ったところで足手まとい、ならすぐにでもシュルカと子供たちと合流して一緒に逃げるのが最善なの!」


「でも、それじゃあガルドさんが無事かどうかッ!」

「分かってるって言ってるでしょ!」


 悲鳴じみた叫び声だった。


 抱えられたまま見上げたノノイさんの顔には小さな雫が光っていた。それが玉になって零れ落ちそうになった瞬間、ノノイさんはぐいっと乱暴に袖口で拭った。


「私はアイツが、ガルド・フォータスクが妻と見初めた女よ。アイツは行けって言った、なら私は行く! それに私が行くべきだって考えてる! 感情に流されて判断を誤るような私は、私が望んでない! それが私の生き方なんだ……ッ!」


「ノノイさん……」

「アイツが惚れたのは……そういう女よ」


 ギッと歯が軋む音が聞こえてきた。

 ノノイさんの口元から一筋、赤い雫が伝っていく。自分の無力さを恨むこのひとにかける言葉をワタシは持ち合わせていなかった。


「……自分で走ります」

「……そうしてちょうだい」


 ノノイさんの手から離れて、地面に足が着くのと同時にスピードを殺さないように蹴りだす。『俺』の頃だったら確実につんのめって転んでいたような動きでも、この体なら難なくできる。

 でも、こんな身体能力を持っていても、ワタシにできることなんて見つからない……宝の持ち腐れだ。


 そもそも、やろうとすら思ってないだろうに……一丁前に自責の念に苛まれてるようなことを考えて、罪悪感を消そうとするなんてな。


 ホント小賢しいよ、我ながら――。


 お互いに無言のまま薄暗い廊下を走る。なんでか足音はしなくて、痛ましい沈黙だけが廊下を満たしていた。


「……ストップ」


 ノノイさんが唐突にサッと手を上げたのに、慌てて足を止めた。

 視線の先、二メートルくらい離れた場所に左に折れる道が繋がってるのが見える。


 その道を折れた先から小さな話し声が聞こえてくる。


「静かに、気取られないようにね」

「は、はい」


 ワタシが頷くのを確認してから、ノノイさんはその角に身を潜めて、そっと分かれ道の先を伺った。

 ワタシもそれに習って、気配をできる限り消しながら、腹ばいになって角のから目だけを覗かせるように先を見た。


「……子供の人数は?」

「資料通り六名。種族も人数も一致する。籠守かごもりも問題ない」


 薄暗い中にぼんやりと背の高い影が浮かんでる。

 人数は見えるだけで三人。

 それ以上いるかもしれないけど、ワタシには分からなった。


 ノノイさんが相手から視線を外さないまま短剣を手に取り、地面に切っ先を軽く突き刺す。


「奇襲するわ、合図と同時に飛びだしなさい。アンタは攻撃しようとか考えないで、一直線にシュルカと子供たちの元に走ること。いいわね?」

「りょ、了解です」


 コクコク頷くと、ノノイさんも真剣な眼差して頷き返してきた。

 今のところ相手がこちらに気づいた様子はない、やるなら今だ。


「こちらは任務完了だ。我々はこのまま次の指示を待つ」

「向こうの後詰めは?」

「必要ないとの通達を受けてる、それよりも子供たちを奪還される方が問題だ。何より向こうにはノルがいる。我々が行く必要は……待て……ッ! コードレッド!」

「今よッ!!」


 ノノイさんに背中を押され、そのまま勢いで角から飛びだした。




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